父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第9章「もや (喪屋)」を4回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
(U)
 次に「モヤ」型をのべてみる。前に掲げた沖永良部島の例で、その様式がはっきりするが、この種の風葬が、奄美本島でも行なわれたであろうことは、想像に難くない。今日の部落の発展経路などから考えると、その改廃には、部落によって大きな出入りがあるように思われる。
 奄美本島の部落内部で、モーヤと称するものは、南部の勝浦部落に見出される。この部落は、墓地が部落の中央にあるが、その一角にモーヤと称する石壁に、瓦葺きの小屋が立てられ、人骨が納められてあるらしい。
 部落の伝承によれば、昔大洪水があり、山の手から人骨が流れてきて、ここにたまった。これは何かの「モノシラセ」だと、村人は恐れ、この「モーヤ」を作って祭ったとのことである。
 奄美本島下方節子部落は、海岸寄りに墓地があり、その周辺が荒地になっているが、ここを「ミャ―ド」といっている。この語は、私の興味をひくものの一つで、部落によっては「宮所」の意味と解せられるところもあるが、この語には「荒れている」という観念が伴うからには、あるいは「モヤド」(喪屋所)のなまりではないかと思われる。近頃では、節子は、このミャ―ドあたりも人家が並んでいる。ある人が、このミヤドを切り開いて、ここに豚小屋を建てて豚を飼ったところ、どうも豚が落ちつかず、物の気に驚いたごとく、何度となく小屋を飛出すので、信心深い母親は、これは、きっと、何かの「モノサワリ」(物障)と易判断をさせたところ、その豚小屋のあたりに、唐の人の骨が埋まっているから、それを取り去って、あたりを清めたらよいとのこと、母親は早速息子に命じてあたりを掘らせた。息子はばかげたことと知りながら、母の指図によって掘ると、果して、ザル一杯にも余る大きな人骨が出てきたとのことである。
 これで推測されることは、この海岸地域が昔「もや」型の風葬を行なった場所であろうということである。
 伊波氏の「南島方言史攷」によれば、沖縄島の東方に位する小島の津堅島では、一時代前まで、風葬の風習があって、人が死んだら、死体を後生藪(ごしょうやま)に送り、ここで親族一同が集まって、酒肴をたずさえて来ては、七日の間歌舞遊宴した。これを「別れ遊び」といったとのことである。もうここでは「よみがえり」の思想は、「あきらめ」の思想に変わっているのである。これも「もや」型であろう。
 ここで注意すべきは、古事記に表われる「あそび」なる語が、そのままこの南島では、葬儀に適用されていることである。
 次に「やま」という語であるが、これは英語のマウンテンやヒルと同じ意味のほかに、とにかく、平地でも、草木茨に覆われた荒れ果てたところをも意味することがある。
 奄美方言には「ヤマナユリ」(山に成る)という表現に、この意味が読まれる。草木茨に覆われて足の入れ場もなくなるの意である。またこれは、比喩的に用いられ、人が邪気に憑かれたごとく、血相を変えて暴れ狂う意、にもなる。「アレヤマ」(荒山)という表現は、また「アレンメ」(荒穴)というのと同じい。この「メ」は、万葉にも用いられているが、穴の意味から、かくれたせせこましい場所をも意味する。なお前に掲げた喜界島の「鬼がま」の「ガマ」は「メ」(あな)と同じ意味を表す語らしい。「かくれが」などの「が」を思い合わすべきである。この「ガマ」は、この島の地名にもよく出てくる。例えば「阿室釜」 「湯湾釜」などがそれである。
 奄美の部落部落は、今日では、たいてい海岸沿いまで切り開かれて、人家が並ぶようになったが、昔はおそらくこんな海岸地域は、荒山または荒穴ではなかったろうかと想像される。
 今日でも砂丘を阿旦が縁取り、その下からは、浜かずらが白浜に向かって這い盛り、阿旦の中からは「デン木」と称する亜熱帯性の大木が、頭を天高く持ち上げて点在し、夏には、真赤な花を咲かせては、南国の情趣をそそり、その奥には、また荒山があって、「サダラ木」とか、「アクチ木」 「ベッキ」などの喬木が茂っていたらしい形跡を残している部落もある。こうした荒所こそは、その昔、その一角にその部落の「もや」型の葬所があったのではあるまいか。
 奄美の島々のたいていの部落の海岸に、今日よく人骨が発見されるのはそのためではあるまいか。
 ある年大洪水で諸鈍部落を流れている中田川が、北から南へ向きを変えて南の岸を浸蝕したとき、人骨がたくさん出てきて異様な気になったことを今も覚えている。今名瀬市養老院の立っている朝仁の河口近くの岩石の下からも人骨が出てくるとのことである。笠利の海岸地帯は、また人骨がよく出る。笠利のある海岸の荒所に、人の忌み恐れている塚があって、ある巫女がこれをあさったところ、大きな人骨が出たらしい。
 これらの人骨の中には、普通人の人骨の、ほとんど二倍もの大きさのものがあり、これはきっと、大和民族がこの島に殖民する前の、先住民族の骨であろうともいわれ、また唐の人の骨だともいわれている。私の子供のころは、子供が泣きやまないとき、泣きやまなければ唐(とう)の人(ちゅ)が来るぞ、といった意味のことをいって、子供をおどかしたものであった。昔は唐の人が時々この島を襲った。そんな時は、村人たちは、家財道具を地下に埋めて山へ逃げたとのことである。和寇やその他の外来の襲撃を意味したものであろうと思われる。またこんな骨は、島津氏の琉球征伐とも因由付けられ、途上この島を攻めた島津勢の一部の遺骸が、この骨だとも伝えられる。いずれこうした伝説や言説にも、いくぶんの真実性があるであろう。

 最後に折衷型ともみるべきものをのべてみる。奄美本島東北に位する喜界島には、部落内に「モヤ」と称するものが、ほとんどすべての部落に見受けられる。これは部落の山手にある洞窟で、部落によっては、かなり人里から離れたところにあるところもある。喜界島は全島「珊瑚礁」からできていて、自然の洞窟が多く、また人工を加えることも容易である。大きい「モヤ」になると長峰部落のそれのように、畳二〇枚を敷かれる大きさのものもある。戦時中はこれらの「モヤ」に納められた人骨を集めてこれを墓地に埋葬し、これらの洞穴を防空壕として使用したが、一つの洞穴で六家族はゆうに収容できたとのことである。同島の古老の話によれば、一時代前までは、死人のあった場合は、棺をこの「モヤ」に納め、白酒(みき)を作り、馳走をこしらえ、親類一同「モヤ」の前に集まり、裕福な家族は七日間、そうでない家族は三日間、ここで歌舞遊宴をしたとのことである。これは所によっては、明治の初期まで行なわれたらしい。その後法的に禁止されたが、場合によっては、法網をくぐって、この古式が守られ、明治の三十年代に、これを行なった例もあるらしい。近親の死に際し、この古式の葬儀を行ない罰金をくったという人は、当時の葬儀の様式を次のように話してくれた。
 死人があった際は、死体を六尺近くの七分板の長い棺に納め、これを「モヤ」に運び、四つの台石を設け、その上に棺を安置し「タマヤ」(魂屋)と称する畳一枚くらいの大きさの拝殿風の立派な屋を作り、これには貧富の差によって三段または七段の階段を設け、一段ごとに鳥居を建て、この屋を棺の上に飾って葬儀をすますのであった。一年あるいは三年して、死体が全部朽ちて、骨だけ残るようになると、「アヨー」と称する石をえぐって作った容器にこの骨を納め、蓋をして「モヤ」の片隅に安置した。また墓石を立てるものもあった。
 もう、このごろは七日あるいは三日の「あそび」はすたれて、この三つまたは七つの鳥居がこれに代わっている。
 この「モヤ」の入り口には、立派な戸が設けられ、上部には立派な飾り障子まで設けられていたという。この明治初期の「モヤ」には、琉球の葬儀文化の影響が認められ、その後に神道文化の影響が認められる。この喜界の「モヤ」とまったく同じ折衷型は、徳之島の諸部落内にも見られるところである。
 この喜界島や徳之島の折衷型には確かに、近世発達したと思われる琉球の葬儀文化の影響が認められるが、これらの島々にも本来の「もや型」もあったらしく、その部落部落の海岸地帯には、多くの人骨が発見される。これを要するに「岩屋型」といい、「喪屋型」というのも、これが葬儀文化のある発達段階を標準としての区別であり、もう一段さかのぼって考えてみるならば、これらの葬所は、つまりは死体を適当に「はふる」、すなわち遺棄した場所であろう。この次の段階として「岩屋型」は、今日の琉球墓様式へと発達し「もや型」は、土葬へと発達して、本来の「もや」と称する小屋が、今日の手をこらしたタマヤ(魂屋)またはアマンヤ(雨屋)と変わっていったのであろう。なおこの島では、完全な土葬になりきらず、風葬から土葬への中間段階ともいうべき改葬洗骨の風が行なわれている。これは、死体を埋葬してから三年または七年に掘り出し、その骨を洗って壷に納め、再び埋めてその上に墓石を立てる風習である。名瀬市から始まってこの風習もだんだん消えてゆくようである。

 喜界島の例などからして、明治初期ごろまで命脈をつないでいた風葬には、もう七日の「あそび」をする習俗は忘れかかっていたらしいが、喜界の古老の話などからして、その一時代前までは、七日または三日の「あそび」をしたらしい。沖縄の津堅島では、七日の「別れあそび」をしたといわれ、また嘉徳ナベ加那節という民謡には「三日や白酒(みき)作て、七日あそぼ」とある。古事記には「日八日夜八夜を遊びたりき」とあり、またこの島の他の「あそび」の習俗から推して、この「モヤ」の「アソビ」も、昔は文字どおり七日七夜行なわれたものと想像される。
 今日徳之島では、葬儀の際「おもり」(神歌)を歌う習俗が残っているが、死人の手を握り、指を一つ一つ握りしめながら歌いだす「おもり」の調子は、まことに荘重にして、哀調切々たるものがある。これを聞く者は、まったく声を上げて泣かないわけにはいかない。昔の「モヤ」の七日七夜のアソビにも、こうした「おもり」が歌われたことであろう。古事記には「泣女」とあり、またこうした習俗は、今日の中国の葬儀にも見られるが、この島でも私の子供の時分までは、死人を葬むる時、特に墓所において、近親の女子供が白い布片で顔を覆い、息づまるような感声を発しながら泣きくずれる風習があった。そうした感声や感嘆詞も時代とともにだんだん聞かれなくなって行く。文化の進むにつれて、人間の感情というものは渇れてゆくものらしい。
 古事記には、天若日子の死に会い「その妻下照姫の泣かせる声風のむたひびきて天にいたりぬ」とあり、伊邪那美命の崩御せられし時「速須佐之男命の泣き給う状(さま)は青山を枯山(からやま)なす泣き枯らし、海河は悉(ことごと)に泣き乾しき」とある。ほんとうに、昔のこの島の「モヤ」の七日七夜の「あそび」も哀調切々たる歌舞音曲に感性豊かな泣き声を交え、そのざわめきは、村山にこだまし、天にも聞こえるほどのものであったと想像される。
(つづく)

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更新日/2001年5月23日
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