父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第9章「もや (喪屋)」を4回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
(V)
 なお、風葬に関連して興味を引くのは、アラビアン・ナイトのシンドバッド冒険物語中の第四回目の航海記事である。
 「シンドバッドの乗っている船は途中暴風に会い難破し、船員乗客の何人かが木材にすがって、ようやく命を助かり、ある島へと漂着する。その島の土人たちが彼らを見つけ、ぞろぞろと浜へ下りて来て、彼らを取り巻き、自分たちの小屋へ連れて行く。最初に出てきたのはご馳走である。遭難者たちはお腹がペコペコなので、ガツガツ食べる。シンドバッドは、これは怪しいと見抜いたので、ただ、食うふりをする。土人たち自身は食う様子がなかったからである。果せるかな、仲間の者たちは、この食物を食べるなり正気を失い、狂人のようになる。するとまた今度は、飯と椰子油のご馳走が出る。これはきっと、自分たちを肥させて、あとで殺して食べるつもりだ。こう思いつくと、彼はぞっとして一箸も手をつける気になれない。それで、彼だけは痩せるばかりなので、土人たちは、誰も目をくれない。ある日、彼は老いぼれた土人の監視の目をくらまして、うまく脱走に成功し、七日の間、一休みもしないで、森の中を駆け回わり、ようやく島の反対側にたどりつく。うれしいことには、そこの浜辺では、一団の白人が「こしょう」を摘んでいるのが目についた。
 事情を話すと、白人たちは、びっくりして、これは食人種で、つかまったら最後食べられるのに、その手を脱れたのは、まったく例のないことだという。
 白人たちはシンドバッドを船に乗せ、自分たちの島へ連れて行く。それから自分たちの島の王様に、シンドバッドを紹介する。
 シンドバッドはこの島では、厚いもてなしを受け、王様が特別の好意を寄せるので、重要な人物のようにみなされた。この島は豊かな島で、その都では交易も盛んであり、シンドバッドも、うれしくなり、気も落ちついた。一つ驚いたことには、この島には、名馬もあり、人々は馬乗りも上手だが、誰一人として、鞍やあぶみを用いる者がいない。シンドバッドは早速皮の名工を物色して、鞍やあぶみを指導して作らせ、これを王に献じた。王はこれを試して大いに気に入り、ほかの貴族たちも、これにならい、鞍の注文が殺到し、シンドバッドはいよいよ、この島では、おしも押されもしない必要な人物となり、金もたまる。
 ところが、ある日、王がいうには、きれいな娘がいるから、それと結婚して、いついつまでも、この島に住んでもらいたいとのこと。シンドバッドも見ると、なかなかの美人なので、一も二もなく結婚して、わが家も忘れて、暮すうちに、目がさめる時がきた。
 かねて親しくしていた隣人の妻が死んだと聞いて、早速悔みに行く。それとは知らずに「せめて、あなただけでも長生きするように祈ります」と挨拶すると、相手は「どうして、あなたは私の長生きを祈れるでしょう。ものの数時間もたてば、私は私の妻と一緒に葬られるのです。あなたは、この島のおきてを知らないのですか。妻が死ねば、夫は妻と一緒に葬られ、夫が死ねば妻は夫と共の葬られるのですよ」との返事なので、王にただしたところ、王も「そうだ」という。
 そうこうするうちに、シンドバッドの妻が病気になり、死ぬことになる。その死体は、彼女の着ていた一番上等の着物を着せられ、また、いろいろの宝石で飾られてシンドバッドと一緒に、ある高い山のところへ持って行かれた。一つの石をころがすと、下は大きな洞窟である。妻の死体は、その洞窟の中へおろされる。シンドバッドは、何とか命を助けてくださるようと願うが、誰も耳をかさない。
 やがて七個のパンと、一びんの水が用意され、これをつけて、シンドバッドの体も、その洞穴の中へおろされる。入り口の蓋が締められ、シンドバッドは、この洞窟の中におき去られた。彼はそこに坐って泣いたが、それはむだであった。七日の間は、このパンを食べ、水をちびりちびり飲んで、命をつないだが、それが尽きると、もう死ぬ覚悟を決めた。ところがその時、洞穴の向こうのほうで何か動物が動いている。やがて、すーいと自分のところに飛んでくる。立ち上がって跡を追いかけると、岩の割目へ隠れた。なお、その跡をつけて行くと、すがすがしい磯風が頬をなでたかと思うと、次の瞬間には、浜辺にでているのであった。この洞穴には自然の抜け穴があって、海鳥や小さい動物たちが出入りしていたのであろう。
 シンドバッドはついで、その洞穴にいっぱい散らばっている宝石を思いだし、これを集めるために、また洞穴に帰り、これを荷造りして、海岸に出て、近く航行する帆船を待ってこれに便乗し、前よりいっそう金持ちになって帰国する」
 以上が、その概要である。少々長いが、全体として、暗示的なので、わざわざここに掲げたわけである。ここには風葬の習俗がうかがわれ、「よもつ国」の同伴として殉死するべき夫に、「七ツのパン」と水とが給されるところに注目すべきである。
 ギリシャ神話のサイレンの島の人骨の山にも風葬の風がしのばれる。今日でも文化の低い民族の間には、なお、風葬の風が行なわれている。
 ホロンバイル高原の蒙古人は、今日でも死体を菰(こも)に包んで野良に遺棄し、野良犬の食うのにまかせる。
 徳川の末葉、薩摩の流人名越左源太の物した「南島雑話」には、ノロ(神官)の死体を棺に納め、神山の樹枝にさげてある絵図があるが、今日の満州人が、これと同じことをなし、または、棺をそのまま墓地に放置する。
 風葬などということは、今日から考えると、まったく異様で鼻もちならぬ蛮風に思われるが、原始的民族は、それに深い宗教的意義を認めたのであろう。
 今日のカトリック信徒や、また田舎の古風なばあさんたちが火葬をきらう感情を分析するならば、この原始民心理にふれはすまいか。愛情の絆(きずな)につながれている骨肉の死に会い、離別の情切々として、いつまでも、そのありし日の姿を心にとどめたい気持ちがあるのに、それが急に一介の骨と化するのを見るのは、何とも耐え難いことであろう。これをもう一段階さかのぼると、土葬など思いも及ばない人間心理がみなぎっていた時代が、予想されるのではあるまいか。
 骨肉の死に際し、これを土に葬ることは、わが身に思いなしても息苦しく、身も魂も「蘇生」の希望が失われると思ったのであろう。古代人は、七、五、三の数字に、ある福音的力を認めたらしく、今日の英語にもラッキーセブンなる語がある。この五と三とを加えた八という数字はまた幸運の数であったであろう。
 この島についていうならば、三日または七日の「あそび」をすれば、ひょっとしたら死体が「よみがえり」はしないかと考えたのが、後には、そうすることによって「霊魂」が、安らかにあの世で「よみがえる」ものと思うようになったのであろう。ここで、キリスト教の「・・・・十字架にかかり、死して葬られ、三日目にして死人の間より蘇り、昇天して天主の右に座し・・・・」という伝承を、嘉徳ナベ加那の昇天に比べるならば、思い半ばにすぎるものがあるだろう。
 要するに人類の葬儀文化は、風葬―土葬―火葬と発展したものと思われる。
(つづく)

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更新日/2001年5月27日
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