父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第8章「嘉徳(かどこ)ナベ加那節の1考察」を上、下に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
 
 
 (民謡)
1、嘉徳なべ加那や如何(いきゃ)しゃる生まれしちが、
      親に水汲まち、いちゅて浴めろ。
2、嘉徳なべ加那が、死じゃる声聞けば、
      三日(みきゃ)や白酒(みき)造て七日遊ぼ
3、嘉徳浜先(はまさき)に、はえる美麗(いちゅ)かずら、
       はえ先やねらん、もとにかえろ。

   通説―
1、嘉徳なべ加那という女は何と親不孝な生まれをしたのだろう、大切な親に水を汲ませて平気で浴びるとは。
2、親不孝者のなべ加那が死んだという声を聞いたなら、三日のあいだは白酒を作ってお祝いをして、一週間のあいだ歌三味線で喜んでやろう。
3、嘉徳の浜に、這っている磯かずらはあたり1面にはびこって、もう這い先もなく、もとに帰るよりほかはない。

  この唄の曲は、三味線で弾く時は「三下り」でないと弾けない。したがって、一般に半音的琉歌の調を多分に含んでいることがわかる。大島民謡は大方本調子で弾けるようになっているからである。
   さてこの民謡は、嘉徳という土地の鍋加那という美人について歌ったものらしいが、この嘉徳なる土地が大島本島の上方の竜郷村の嘉渡のことであるか、下方の古仁屋の嘉徳のことであるか、ちょっとわからない。また一節には喜界のある部落ともいわれている。
   この歌の由来を考えるには、まずこの伝説の美人の出生地をはっきりと突きとめた上で、その土地の風習をしらべて参考にするのが先決問題であるが、いずれにしてもこの歌の解釈についての通説には従い難いものがあるような気がする。以下私見をのべてみよう。


   ある人の話によれば古仁屋の嘉徳には、花面白い芳艶の処女が、夏の炎天に、白昼の川べりや、潮風むせぶ荒磯に雪の真肌を露わにして、水浴することをいたく忌む風習が今も残っているとのことであるが、どうであろうか。これは事実とすればこの民謡の(1)にあるヒントを与える。
   しかし嘉徳ならずとも、処女が人目しげき真昼に、真肌をあらわすのを恥しがるのは、人情の自然にもとづくのであって、何も奇異とすべきことでもない。しかし一方炎天の下、人目薄い隠れた泉や川べりを見出して、爽やかな水の誘惑に負けては、謹淑を忘れ、しばしの涼を満喫しようとするのもまた彼女らの自然の情のほとばしりであろう。
   夏の夕まぐれ、人足薄くなる頃を見計っては、「花そめ」の無垢な乙女らが、グループをなして、三々五々浜辺をさして、走り寄り、下裳(したも)を海辺の荒磯にいち早くぬぎ捨てたかと見ると、身を海水に投げかける。待っていましたと、いたずら者は、忽然として、どこからともなく現われて、彼女たちの下裳をしのびやかに、阿旦の葉陰へと隠す。天へではなく陸上へ上がるにとまどう彼女らの姿に、いい知れぬ何物かを満足させている。特に南国の島ならずとも、かかる事象は、人類の過去においてあり得たことではあるまいか。
   以上をかれこれ考慮に入れて、この民謡を再見するならば、これがただちに「天女羽衣の神話」と関連を持っていることが看取されはすまいか。かくて、この民謡の(1)の「親に水汲まちいちゅて浴びろ」と連繋をつけるためには(3)の「生え先やねらんもとに帰えろ」は「にかえろ」となるのが正しかろう。文氏「民謡大観」には「天にかえろ」となっているようである。
   ところで次に「天女羽衣神話」、すなわちひろく世界的に分布されていると見るいわゆる「白鳥処女(すわん・めいどん)神話」の系統に入るべきものにして特に南島に分布されている伝説を顧みる必要がある。
   鹿児島から琉球にかけて、天降(あも)りという名称の川が多いが、これはたいてい天女水浴の伝説と関係を持っているようである。今沖縄那覇海岸の天降井に関する伝説に、天女は「今日のよかろ日や、下界の目も無(ね)らん心やすやすと洗て上(ぬ)ぼろ」と歌いつつ、飛衣を側の樹枝にかけ水浴したといわれているが、大島にも一帯にアモロゴ(天降川)なるものがあって、天女が水浴洗髪した所だという伝説があり、また一時代前まではかかる名称の川では、巫女(のろ)が祭前に沐浴斎戒したといわれている。
    また、大島下方には、阿室(あもろ)なる地名の部落が多いが、このアモロは「天降り」の訛りで、南島開闢の祖神、阿真美姑(あまみこ)、志根利彦(しねりこ)の二柱の神が、初めて、天降りなされたことに由来する地名という人もあるが、また1面、アモレヲナグ(天降女)とも、関係があるように思われる。
    天降(あも)れ女の伝説は、不思議にも大島一帯に行われていて、水浴洗髪の川あるいは泉は部落部落によって、その土地のそれに因由づけられているようである。部落部落に行なわれている伝説は、大同小異で、那覇天降井天女の話の系統をひくものらしい。次に筆者がかろうじて鎮西村諸鈍にて拾いあげた話を一例として示そう。実は筆者の80歳近くの祖母から何かのきっかけに聞かされたもので、これを聞いた瞬間、実に大きな掘り出し物をした気持で、喜悦おくあたわざるものがあったのである。


    アモレヲナグ(天降女)が天から降りてきて、諸鈍のある山の美しい泉で、笠蓑を片えの樹枝にかけ、長い髪を竿に打ちかけながら水浴洗髪していた。たまたま通りかかりの百姓がその笠蓑を見つけ、持ち帰ろうとすると、天降(あも)れ女は駆けつけて、これがないと天に昇ることができないから返してくれ、とねだる。百姓は応ぜず、これを楯に「年の三年」自分と暮らすなら返すという。天女も今や、せん術もなく、本意ならずも、この百姓と暮らすことになった。そうこうしているうちに、三人の子供をあげることになる。しかし笠蓑はまだ天女の手には返らない。ある日のこと夫の百姓は畑打ちに出かけた留守であった。たまたま末子の子守をしている長子が、背中の赤子をあやしながら「ヨーファイヨー、ヨーファイヨー、泣くなよへー、阿母が飛び笠飛び蓑や、父(じふ)が倉ぬ上なん、揚げてあっど、泣くなよへー」となにげなく歌っているのが母の天女の耳に入った。
    これによって今までわからなかった自分の飛笠飛蓑の所在を知った天女は、早速と、三人のわが子を呼び寄せ、年長の二人は両脇にかかえ、末子の三つになる者は、膝の上にのせ、いろいろと愛の言葉を与え、行末の身の振り方などを訓戒し、末子の三つになる者には、大きくなったら按司加那支(あじかなし)になって、天に昇って来るようにといい含め、笠蓑を手にするが早いか、天に駆け昇ったのである。天に昇ってからは、天降れ女は地上に残した三つになる末子のことが忘れられず「夏雨(なつぐれ)も雨やあらぬ、吾(わ)涙(なだ)どあゆる、冬の時雨(しぐれ)も雨やあらぬ吾(わ)涙なだ)どあゆる」と歌いながら、しきりに末子のことを案じていたとのことである。
   以上がこの話の大要である。
   いま大島の祭りごとの方面でも、この「羽衣神話」の面影をとどめているものが多い。水神祭といったようなものがそれであるが、就中、十島村の中之島のシチゲ祭りや、徳之島のショーヂ祭りなど特にこの神話を思わせる。
 


 このように、天降れ女の話は大島一帯に行なわれ、天降れ女といえば美の典型とされていたに違いない。この語が1面には意味が堕落し、一般に美服をまとい何らの仕事もせずぶらぶらして歩くいわば有閑マダムをあもれ女というようにもなってきたが、これは、あふれもの(溢者)の訛語たるアモレムンと混態を成したものと思われる。
    また美服をまとい身辺を飾る女は「アムシャレ」(良家の主婦という意味になる)とも関係があるようであるが、意味の上から一考すれば「アモレ女」としゃれるの「しゃれ」とが混態(コンタミネ―ション)をなしてできた語とも思われる。たとえばカフェーと料理屋は似ているために混態をなして前者をカフヤと呼ぶようなものである。
   筆者はかってある人が「正月衣(ぎぬ)や破れ衣、着らばも、アモレまんじょ貰てくれれ」と歌うのを聞いたことがある。これは偶然阿室(あもろ)漫女を天降れ女と混同したのだが、この偶然によって知られることは、この人の潜在意識に天降れ女の話が残っていたろうということである。阿室(あもろ)漫女とは、一時代前、阿室という部落の産である美人のことで、漫女とは、一般に旧藩時代に村々里々を経めぐった半淫売婦のことである。


   さて在来嘉徳なべ加那は、親に水を汲まして、自分は坐(い)ながらにして平然浴びるくらいの親不孝者とされ、親が娘を訓戒する場合の引例にされてきた。しかし親に水を汲ますことだけでもって不孝と見なされうるであろうか。ここに、大島における道徳観念の再組織化の時流にたたられて、宗教的観念の上からは、忘却の彼方へと導かれつつあった、なべ加那節の運命があるのではあるまいか。これは一考に値する問題であろうと思う。
   思うにこの唄は、なべ加那の不孝を後人の戒めとするために作られたのではなくて、本来は、天女的神格性を有するなべ加那の美の驚畏からさめきらなかった時人が、その美徳をほめたたえるためにつくったものではあるまいか。その意味が忘られるままに「親に水汲まち居ちゅて浴ろ」なる文句を楯に、この名に負う美人を親不孝者に仕立てあげたものではあるまいか。
   洋の東西を問わず、時の古今を論ぜず、人情に変わりはないから、いつの世でもいかなる場所でも美人というのが時人に驚嘆を与え、引いては神格化され、いろいろの伝説を生んでいる例は少なくあるまい。美人が天女に擬せらるるのもまた自然的人情のあらわれであろう。


   かかる観点に立って、まず第1の唄から見直してみよう。筆者にかってある人が「嘉徳なべ加那や如何しゃる生れしちが、いぢる名ぬかぢに口ぬさげほ」という謡を引用して、嘉徳のなべ加那という女は、非常な親不孝者でその名のでるごとに人々は悪口をいうとの意味である、と聞かしてくれたことがある。ところが文潮光氏の「民謡大観」には、これと同じ趣向の「やまと清(きょ)らお刀自(とぢゃ)や如何(いきゃ)しゃる生れしちが、いぢる名ぬかぢに口のさげほ」というのがあって、その解に「やまと美しい御夫人はいかなる賢い身分であれば、あんなに美しいのであろうか、その婦人の名の出るたびに皆が非常にうわさし合って珍しがる」とある。下の句の「口のさげほ」の解釈は全然前者と反対になっている。もちろん後者の方が正解であって、前者は、親不孝という観念と調子を合わすために付会したまでである。
   また民謡に「嘉徳思(うめ)なべや誰(た)が生(な)ちゃる子か、目鼻打揃て生れ清(きょ)らさ」というのがある。南島における思(うめ)という語は、加那という語が敬称愛称の接尾語であるに対して、その接頭語に用いられるのであるからこの思なべも前出のなべ加那と同一人を歌ったものと思われる。
   以上を参照して考えてみると、なべ加那を懲らすどころか「如何しゃる生れしちが」という言語情調には、限りなき美に対する驚嘆の感が認められ「親に水汲まち坐ちゅて浴めろ」という句には、羽衣ないし笠蓑をうばわれる天女の嘆きにあやかるための細心が読めはしまいか。「下界の眼も無(ね)らん、心安々と洗て昇ぼろ」ならまだしもよい、近所そこいらの下界の眼を一日としても避けることのできぬ天女的美人なべ加那に、母の心づかいあり、水を汲んで吾子を浴びさすのに不孝とはどうしていえよう。

(つづく)

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 雑誌「南島」昭和14年1月稿                 
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