父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第8章「嘉徳(かどこ)ナベ加那節の1考察」を上、下に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)
 

 次に第2の唄にうつろう。筆者の着眼点は「遊ぶ」という語である。茂野幽考氏「奄美大島伝説と民謡」にはこれが「大祝しろ」となっているが、文潮光氏「民謡大観」では「あそぼ」となっているのからみると「あそぼ」の方がどうも形式上穏当のようである。もっとも本質的には「大祝しろ」でもよいが、歴史的考察の便宜からいえば「大祝しろ」では大過を犯す危険がありはすまいか。何としても「あそぼ」の方が本来的なもののように考えられる。
   まず、なべ加那がいつ頃の人であったかを尋ねてみる必要がある。同人を歌ったものであろうと思われるものに、「嘉徳思(うめ)なべや託付(ことづ)けの煙草またも託付けのむつれ煙草」という句がある。文氏、民謡大観によれば、煙草が初めて大島で用いられるようになったのは、後桃園天皇の安永六年の頃笠利の人が試作したのが最初である。以後わが島民に珍重がられ、物々交換用にあるいは恋のシンボルとして、恋人間の贈答用に供せられるようになった。およそ煙草くらいいろいろのニックネームを持つものはないといわれるが、わが大島でもこれを「むつれ草」とか「わすれ草」とかいって愛用され「煙草ながれ」なる一連の民謡までできているのである。
   上記の民謡は、なべ加那のもとに、煙草が恋のシンボルとして何度も届けられたことを歌ったものである。女のもとに煙草が届けられるというのは、現代のわれわれからは奇異に感ぜられるが、一時代前までは、女もたいてい煙草を喫する習慣があった。ただしたいていは中年以上の男女によって愛用され、その頃はフドといって、煙草入用のものを女は提げて歩く風習があった。しかし煙草の流行り初めは、若い男女も珍しがってこれを用いたに違いない。
   安永六年頃といえば、今から約一六〇年前のことであるから、なべ加那の生存していた時代も、それ以上をでていないことであろう。
   さて、この「あそぶ」という語であるが、これは今日の遊ぶという意味に解しては、このなべ加那節の本義は解けないのではあるまいか。
   この語は、平安朝頃までの文献を読む際、しばしば出合う語で、その古い意味は、楽という字に相当するもので、管弦歌舞(ふえふき、ことひき、うたい、まう)と解すれば十分であるといわれている。
   試みにわが国の古代文化を近世までも多分に保持している、わが大島の八月踊りの唄に用いられている「あそぶ」が歌い舞うの意になっていることを知れば、思い半ばにすぎるものがあるであろう。
   次に「あそぶ」の用例として、天若日子が死んだ時の様を記した古事記の記事を少々長いが、引用してみる。「かれ、天の若日子が妻(め)、下照姫の哭かせる声、風のむた響きて天(あめ)に到りき。ここに、天なる、天若日子が父、天津国主の神、叉その妻(め)子供聞きて降り来て、泣き悲しみて、すなわち其処に、喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはかり)をきさりもちとし、鷺を掃持(ははきもち)とし翠為(そに)を御食人(みけひと)とし、雀を巫女(うまめ)とし、雉を泣き女とし、かく行ひ定めて、日八日(ひやひ)、夜八夜(よやよ)を、遊びたりき」
   南島の風習を如実にしるしたとでも思われる親しい簡朴な記事である。喪屋が「モーヤ」となって、大島の部落によっては、今でも、昔の面影をとどめているものがあることを知らねばならぬ。
   人の喪に際して、何が故に、前記の意味のあそびをなしたかという疑問が起こるが、これに対する答えとしては大町芳衛氏の「日本文明史」から次の記事を引用しよう。
  「太古の日本国民は、霊魂の不滅を信じ、死すれば、黄泉国に赴くものと思へり。中国人の所謂生は寄也、死は帰也とまでには思はざるべきも遥遠なる処に旅行する位に思へり。死人ありし時、屍骸の側に歌舞遊宴せしむるは、今日の風習より見れば余りに人情にはづれども、太古は面白きことすれば、死人が再び帰らむか、との迷信を懐きたりしに由る也」。
   この民謡第2に用いられたる「あそぶ」は、この古い意味のそれと解そうと思うのであるが、ところでなべ加那の死んだ頃まで、かかるわが国古代風習が、わが大島に、なお残っていたかどうかという疑問が起こってくる。
   伊波氏の「南島方言史攷」によれば「沖縄島の東海岸を少しく沖に離れた津堅島では、一時代前まで、風葬の俗があって、一週間ほどは、毎晩のように親戚朋友が、酒肴や楽器を携えて、死人を後生藪(ごしょうやま)に訪れ思う存分に遊ぶを別れ遊びといっていた。これは単なる葬宴ではなく、かくしたら蘇生もしようかという希望をもって、踊り狂ったのが後世その古義が忘れられて、別れあそびの義に解せられたに違いない」と明快にのべておられる。
   これでただちに首肯されることは、南島には近世までかかる風習が他にも残っていたろうということである。
   大島 のハナレや周囲の島々には、明治の初年頃までも、風葬の風も残っていたといわれるからには、それと関連して、如上の風習も、本義は忘れられたとしても、別れあそびといった形式で残っていたろうと想定されうる。なべ加那の生地にはかかる風習がその当時あったに違いない。よしんば、とうにすたれていたとしても、この絶世の美人を葬むるには、ことさらに古式に則ったとみることができる。
   こう解すると、あの第2の唄は、なべ加那が死んだ時、その親族はおろか、村中の者がその死をいたみ、斎いの白酒を三日がかりで作り、七日のあいだは、そのために酒肴を携え、歌舞遊宴を試みその霊を慰め、その帰復を祈ったものとみることができる。いわば「別れ遊び」をしたわけである。ところがかかる原始的宗教観念から発生した風習も時代の進展につれ、その中から萠生した新しい道徳観念の笞(むち)の下にその存在理由(レゾンデートル)を失い、模糊たる時代の霞に隔てられるままに、天女なべ加那への「哀悼のあそび」が親不孝者なべ加那への「厄介払いのあそび」に解せられて行ったものであろう。ここに微妙なる人間心理の動きがあり、思想史的にも見のがすべからざる重大なる問題を包含している。これは一考を要すべき問題ではなかろうか。ついでにここで見のがしてならぬことは、「三味線は悔みから生まれたものである」という民間伝承である。ちょっとしたことであるけれども物事を史的に考察する上には、重大な意義がある。


   次に第3の唄にうつろう。
    蔓は古代において、なんらかの呪術的意義をもったものらしく、頭髪の飾りなどにしたことは、古事記などにその例がみえる。わが南島にては近世までも神官巫女(のろ)によって用いられ、また一時代までには、わが大島では「マブリ寄セ」といって生霊の出歩くと思われる時分、カネブカヅラという蔓を祭壇に飾って巫女(のろ)を招き斎事を行なえば生霊の帰還をうると信ぜられた。カヅラには呪縛の力があると信ぜられたのであろう。
   かかるわけで蔓をいろいろにたとえて引用した民謡も大島には少なくない。この句のイチュカヅラは、もちろん美人にして天女とまがうべき、なべ加那をたとえたのであろう。
    天女の生まれをしたなべ加那が死んだ。これももう下界には栄(は)え先もなくなって天に昇ったのであろう。さすればもう嘆くにも及ばぬ。彼女は天国で楽しく暮しているはずだから、われわれ下界の者が、かれこれ引きとめる資格もない。「及ばらぬ加那」であるわいと村人の深いあきらめを詠嘆的に歌った句とみることができる。


   以上によって筆者のいわんとする点は、不完全ながらいいつくされたと思うが、なお念のため、節全体を仮釈してこの稿を終わろう。
    この節は、なべ加那の生前に作られたものとみるべきでなく、もちろんその死後追悼的、頌徳的に作られたものとみるべきであろう。
    (1)嘉徳なべ加那は、何と天女的美しい生まれをした女であったかよ。親に水を汲ませて、陰で浴びなければ1日とても、下界の愁嘆の俗目を避けることができなかったくらいに。
    (2)嘉徳なべ加那が死んだという知らせが、一度村中にひろまると、村中の者がその死をいたみ三日がかりで白酒を作って、七日のあいだしきたりの哀悼の「あそび」をなしたのであったわい。
    (3)ああ嘉徳の浜に這っている美麗蔓(いちゅかづら)のように美しかった彼女も、実は天女であって、下界には住みあいてまた昇天したのであろう。ああさすがに惜しくともいたし方のないことであるわい。



(了)

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 雑誌「南島」昭和14年1月稿                 
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