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新・雑感

                           
 ●音女を聴く ●〈吉本隆明逝く〉沖縄戦 ●戦争の仕方を変えるのだ宣言

 政治動向を云々する基本のところで


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2012年2月12日

  CD「奄美しまうたの原点 中山音女」   

   
 打ち返す永劫の波音(なみおと)         

 ―「中山音女〜幻の名盤復刻」を聴く




 島唄よ風に乗りィ〜、と風にのってこころの平和な拡がりを魅せる流行りの唄は、文字通りの島の唄、南の(琉球音階に乗った沖縄の)島々から吹いてくる、島嶼文化の唄の謂いなのだが、言うまでもなくこれは、もともとのこの呼称の発祥の地である奄美で呼び習わされたシマ唄、ひとの生まれ落ちる小さな小さな暮らしの宇宙としての、色々な矛盾に満ちた集落的共同体をそう呼ぶ、〈シマ〉の唄、とは意味がズレている。そして、シマウタといえば今では、たいていの人は、しらずしらず前者の意味でイメージすることが多いのではないだろうか。
 シマ唄発祥の地である奄美で唄われる近年の若い人たちの唄声を聴いていても、巧みな節回しで歌い上げるように〈拡がりを魅せる〉そのシマ唄に、うまいなあと聴きほれながらも、イメージされてくるのは、島唄よ風に乗りィ〜と同質の場所に落ちて行く、言葉の響きである。奄美という独特な島嶼文化の唄、という外部的な視線にくるまれて、〈シマ〉抜きされていくような……。
 唄は世につれ、〈拡がりを魅せる〉文化的様相の中で、変容は必然だし、嫌いかといわれれば、大好きなのだが、でも、時として、シマ唄らしいシマ唄とはどんなものだったのかと想念し、そんな唄を無性に聴きたくなる。
 折も折、そんな願望にこたえるに十分なCDが、発売された。「奄美しまうたの原点」と題された、中山音女という昭和初期に人気を博した女性唄者(宇検村湯湾)の、復刻CDがそれである。打ち返す永劫の波音のような、素朴な迫力とでもいったものに満ちた二七曲だ。
 日本伝統文化振興財団というところから出ているこのCD「中山音女〜幻の名盤復刻」は、奄美出身で先駆的な日本のロシア文学者としてしられた昇曙夢氏愛蔵の、昭和三年に録音されたSPレコードが原盤であるという(くわしい経緯については、このレコードの提供者であり、復刻に尽力された奄美しまうた研究者豊島澄雄氏が、詳細な解説文を書かれている)。
 写真掲載されたそのレーベルを見ると、「トンボ印ニッポンレコード」という当時東京で創設されたばかりのレコード会社の名前の横に、「大島郡宇検村湯湾 山キ商店專賣」とある。聞くところによると、山キ商店というのは、当時の村落にポツンとあった雑貨屋さんのようなものらしく、つまりは、いつも暮らしのなかで聴いている音女の声にほれこんだ雑貨屋の親父さんが出資して、東京のできたばかりのレコード会社で、自分の店專賣のレコードをつくった、ということにでもなるのだろうか。
 この私家盤的雰囲気を反映するように、吹きこまれたシマ唄も又、当時唄われていたシマ唄の現場性を存分に発散していて、古いシマ唄の息吹が、飾りっけなく、直接吹きこんでくるようで、ひきこまれてしまう。
 例えば、よく知られた「諸鈍長浜節」がある。「諸鈍長浜に/打ちゃげ引く波や/諸鈍女童(しゅどぅんめえらべ)の/笑い歯ぐき…」云々がよく知られている歌詞だが、シマ唄の特徴でもある即興性そのままに、「諸鈍長浜ぬ/如何(いきゃ)長さあてぃむ/池地美(きゅ)ら浜ぬ/上(うぃ)やきりゃぬ」云々と、諸鈍部落のある加計呂麻島の近くの、他島の部落の浜をほめたたえ、それが、堂々と「諸鈍長浜節」として収録されているなど、シマ唄の事情をよく知らない僕などからすれば、おもわず吹き出してしまうシマ唄根性?のほほえましさだろうか。
 又、シマ唄といえば、その発生の時期の薩摩藩支配による暗い歴史的状況を無視することはできないが、これもよく知られた「かんつめ節」や「浦富節」などの島民の悲劇を唄ったものがある一方で、「くんにょり米女(よねじょ)」は美人だから、「与人様か代官様」に「うぇしゃべろ(差し上げよう)」、といった歌詞のある「くんにょり米女節」のような唄もきちんと収録されていて、香り立つ古語とともに、矛盾いっぱいのリアルな波しぶきが打ち寄せる、〈シマ〉の大気を感じてしまう。
 もっとも、これらは、文字に書かれた歌詞を参考にしながら言えることで、音女の唄声から、僕などは、はっきりいって、ほとんど言葉の意味は聴きとり不能である、といっていい。歌詞を見ながら聴いていても、書かれた言葉と唄声を符合させるのは、至難の業である。さながら、古代のひとの声音を聴くとはこのようなことかと、感触するほどに。
 加えて、豊島氏の解説には、音女の唄には「歌詞の発音がはなはだ不明瞭になる部分が」あるとして、そのことは、むしろ「ひとつの歌唱技法≠ニして昔から伝えられてきたもので、そうしたことが名人の証しとされてきた。何故このような技法が生じて来たのかよくわからないが、習慣のようなものとしかいいようがない」とあるから、もうその古い歌唱法をもつ音女の、打ちしぶく波の音に身をまかせるしかない。
 のびあがるようにして屈曲し、のびあがるようにして屈曲し、情念の水位をむしろ制御するように作用しているのが、裏声だろうか。ぶっきらぼうな自然の高音のようにも発声される、めだたない音女の裏声からは、シマ唄の〈胚胎する〉といっていい裏声の、本来的な役割が感じとれる。それが、永劫打ち寄せる波のような印象を、音女の唄に与えている。裏声とは、あるいはシマビトの、解放と抑制の、アンビバレントな情念そのもの、ではないのか……。
 拡がりを魅せる―魅せられることに夢中になって、視えなくなっていくものが、確かにある。音女の声は、唄は、そのことを思い出させてくれる。
 永劫繰り返す波の音のように、音女の唄を聴いていると、やがていつの間にか永劫の、いやしばしの、奇妙な時間性のねむりに、墜ちていく

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2012年3月18日

               吉本隆明逝く


 その訃報を告げるテレビの画面には、奄美の方言で〈なてぃかしゃん〉(不思議になつかしい)というのがぴったりの、吉本隆明の老いたあけっぴろげのような笑顔が大写しになっていて、〈思考の人間的全体性が満感の意をつくしてついに事切れた〉、とでもいった感慨のかたまりがおもわず湧きおこり、なにか身内の死に接するのに似た感情で、こみあげてしまっていた。ほんとに、独特の存在感をもった思想家だったなあと、つくづく思う。
 去年の大震災による福島第一原発の惨事があってから、かの反原発異論論者吉本リュウメイは今どう思っているのかと、気になっていたのだが、訃報の記事を探すネットで、ちゃんとすでに新聞での意見表明をされているのをしり、最後の声をふりしぼったようなその異見が、心強かった。
 個人的には、原発とそれを支える組織の問題は、とりあえず分けて考えなければならないんじゃないかと思うのに、そらみたことかと勢いづく反原発のもりあがりは、それこそいつかどこかでみたような、有無を言わさぬ流れになっていて、どうにも異和だった。
 情報隠しや利権目的は「論外」として、原子力を解放した科学の「原罪」をみつめる新聞記事の、安易な原発促進などとは足場の違う〈科学の必然〉論のまなざしは、たとえば高村光太郎論以来一貫している。

「科学は後退をゆるさない。/科学は危険に突入する。/科学は危険をのりこえる。/放射能の克服と/放射能の善用とに/科学は万全をかける。/原子力の解放は/やがて人類の一切を変へ/想像しがたい生活図の世紀が来る。/

 わたしはこの自然のメカニズムを非情な己れの「眼」とした詩人の、最後のモデルニスムスに敬意を表することにしよう」(吉本隆明「高村光太郎」)

 ここで言う〈非情の「眼」〉が、新聞記事にある原子力を解放した科学の「原罪」、ということになるだろうか。誤解を恐れずに言えば、憲法9条のような世界状況から見て現実的には危なっかしい理想法を、それでも維持して未来に繋げていく、という意志と、まったく正反対の態度のようにして、じつは同じ位相にある態度ではないのだろうか。
 原発にかわる自然エネルギーとかいっても、またそれに群がる利権組織のうじゃうじゃしか予想できない。それより、原発擁護のうさんくささに対峙して、原発維持の問題(註=原発を〈やめる〉ということが、停止から廃炉へ、といったなにげない言葉に途方もない経過の重力をかけてくることからもわかるように、原子力を解放してしまったということの、ほんとの恐ろしさは、行くも地獄退くも地獄の本質をもってしまった、ということでもあるだろう。 4月5日付記 )をどう解決していくのかという場所からこそ、未知の解放のエネルギーは湧きでてくるのではないかと思われるが、もうこれ以上は思考の限界をこえるのでやめることにする(^^;。
 ともあれ、言葉というのは「しばしばそこに表現された言葉そのものとしてみるべきではなく、この逆立ちや屈折や捩れによって、瞬間的に視える現実性の構造から縦深的に割りだされるプロセスの累積としてみるべき」(「自立の思想的拠点」)とする基本的な言語観から出発して、その広大な領域に張り巡らされた世界認識の迷宮は、幻惑的な発見の通路を潜めて、これからもくりかえし、僕たちを誘惑してくるだろう。
 吉本リュウメイさん、さようなら。

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2012年3月31日

              沖縄戦


 3月は、26日の慶良間、座間味の集団自決にいたるまでの戦闘に始まり、原爆までの、一気に日本の敗戦へと向かうとっかかりとなった沖縄戦突入の月でもあります。沖縄と日本の軍隊、集団自決の問題についてどうみるかの、これも又一つの見解として、ネット(15年戦争資料@wiki)でみつけた40年以上前の「沖縄の証言」(中央公論社)に解説を書かれている、民俗学者・谷川健一さんの文章を引用します。

「沖縄出身の者で中日戦争に参加して、日本軍の悪徳行為を目のあたりに体験していたものも少なくなかった。たとえぱ慶良間諸島の渡嘉敷島で、自決の場所の西山(にしやま)に住民を集めたのは駐在の安里巡査であり、また集団自決の場に立ち合ったのは古波蔵村長であった。安里巡査と古波蔵村長は中日戦争のとき現役でしかも同期であった。「シナ(中国)の野戦帰り」であったこの両人は、中国における日本軍の残虐ぶりをよく知っていたから、負けるとどんなになるかを推測したのである。
 渡嘉敷島の住民も西山盆地に行くまでにほとんど死を決意していた。日本軍や沖縄出身の軍隊経験者を通して、捕虜になった場合の恐怖感が住民のあいだにみなぎっていた。そのうえ、彼らは戦時中の皇国民教育をいやというほどたたきこまれていた」

「日本軍が沖縄戦において住民の不信を買ったのは、彼らがその最後の瞬間において民衆と敵対する存在としての立場をみずからの行為によって明らかにしたためであった。沖縄の住民は決定的瞬間に、本土日本人の冷酷さをみとどけた。日本帝国の軍国主義は、沖縄本島の南端の断崖の上に立たされたとき、その本質的な醜さを暴露したのである」

「沖縄本島の住民のうち三人に一人が死に、島尻に逃げた人びとのうち二人に一人が死んだ。そして、かろうじて生き残った者たちの場所が、南島のやせた珊瑚礁(さんごしょう)の大地の象徴である自然洞窟であり、また先祖伝来の骨を納めた風葬墓であったという事実は、沖縄の住民の生命を守ったものが沖縄の風土と伝統以外の何物でもなかったことをものがたっている」

(註=例えば、ここで言う「日本軍や沖縄出身の軍隊経験者を通して、捕虜になった場合の恐怖感が住民のあいだにみなぎっていた。そのうえ、彼らは戦時中の皇国民教育をいやというほどたたきこまれていた」といった心理状況をふまえながらも、〈だから〉、沖縄の集団自決は、そんな状況下におこった住民たちの〈自主的な〉行動による〈玉砕〉だったと、軍の関与を否定する言い訳にねじったように使う論があり、ひどいのになると、時の思想情況に付和雷同する庶民の傾向が集団自決を生むことになったと、笑うべき上から目線による説教的見解までみかけるが、詭弁、暴論以外のなにものでもないだろう。詩誌・詩集の紹介コーナーの石川為丸さん「クイクイ通信」の特集が詳細、的確に反論し、揶揄的に言及していたひとたちの見方も、どうやら似たようなものだった。 隊長による直接的(石川さん)命令にしろ、間接的(上の文章当時の谷川健一氏)関与にしろ、軍存続のために住民を虐殺するような隊長(についてはふたりとも言及していた)のもと、軍の強制力の存在なくして、強制された思考が作動するはずもないのだ。石川さんの文章には、「日本軍のいなかった前島では、米軍上陸があっても、「集団自決」が起こらなかった」ことが記されている。 4月9日 付記)

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2015年9月19日

              戦争の仕方を変えるのだ宣言


 敗戦国日本に対する武装解除、戦争させない牙抜きの意図しかなかった占領軍〈押しつけ〉の条文を、当時の民間学者組織や国会の侃々諤々の議論を通し、世界に誇るべきだという〈血であがなった平和憲法〉へと反転変容させていった、いわばもっとも独立精神に富んだ条文こそが、憲法9条であることは、最近の実証的な研究などから明らかになっている。
 それを、朝鮮戦争への対応から、いち早く無力化し、日本への再軍備を〈押しつけ〉てきたのは、この条文を最初に作成した占領軍であり、軍事特需によってその後の高度経済成長へとなだれ込んだ日本は、〈押しつけ〉の線にそって、さらに自衛隊を創設し、〈押しつけ〉の甘味に酔うかのように、〈押しつけ〉政策、〈押しつけ〉文化に惑溺してきた70年では、なかったか。(それでも、憲法9条は、戦後の太陽のように、日本人の暗黙の意志、暗黙の抵抗によって、かろうじて、はためきつづけて、きたのだったが・・・。 ー22日付記)
 そのように考えると、この夏の日本の総理大臣安倍晋三氏の戦後70年談話は、いわばこの〈押しつけ〉政策の完成形ともいうべき、明確なメッセージ性を帯びてイメージされてくる。それを一言でいうなら、〈戦争の仕方を変えるのだ宣言〉とでもいったものになるだろう。
 この談話についてのメディア報道は、もっぱら過去の戦争への反省態度のうそっぽさばかりが取りざたされているように思えたが,安倍談話が明確に言っていることは、過去のあやまちはくりかえしません、ということだ(^^;。追いつめられて<国際秩序への挑戦>としてはじまったあの戦争は、あやまちであった、と。そしてあやまちに寛容だった諸外国に感謝し、これからは自由と民主主義、人権を共有する諸外国(つまりは、国際秩序に挑戦的な中国などと違って?、おなじような価値感をもった有志連合国)と手を携えて、<国際秩序のための、積極的平和主義>を強力に推進していきたい、と。
 これを、こんどの安保関連法案と重ねて考えると、あの敗戦後の〈押しつけ〉状況にとてもよく似た、占領軍要請?があったことが、透けてみえてくる。この法案に出てくる重要影響事態とか、存立危機事態とかは、南沙諸島、沖縄、をそれぞれにあてはめると、法文のイメージがとてもよく湧いてくるのだが(^^;。存立危機事態の沖縄を口にするとたいへんなので、国会での答弁は支離滅裂なあれでもないこれでもない迷走にならざるをえないのだろう。つまりは、こんどの安保関連法案問題は、辺野古=沖縄問題と密接に関係してくる問題でもあるのだ。
 談話には、安倍氏の明確な価値観も披歴されている。いわく、繁栄こそ、平和の礎。貧困は暴力の温床。こういう単純な2項対立図式は、関連法案を国民に説明する時の泥棒の比喩のような、アプリオリな人間決定観に反映されている。貧困ではなく、貧富の差別化こそが、暴力の温床じゃないのか。またまた軍事特需が狙われている?そんな安倍氏の言う積極的平和主義とは、自分達の平和を邪魔するものに容赦のない、かの占領軍様のこれまでのお姿を、きっと思い浮かべてでもいるのだろう。
 ともあれ、2015年9月19日の真夜中、通称安保関連法案、戦争の後ろをネズミのように動き回って警護活動をするという、どうにも不可思議な戦闘可能国家への道は、平成の安倍内閣によって、強引にひらかれた。

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2017年10月1日

              政治動向を云々する基本のところで


 例えば、国の政権動向を面白おかしく報ずるテレビ番組などで、よく国会議事堂を江戸城に見立てて、総理大臣を、ちょんまげ姿の一国一城の主として登場させたりしている。(とすると国会議員は、封建主義時代の侍たちであるのは、当然なことになる。とすると、国民は、お城のお侍に支配された、封建主義時代の民百姓、ということになる。)
 権力の奪取劇、攻防劇のまんがチックなたとえとしてはわからぬでもないし、政治家に魅力も興味もあまり湧かない僕などは、ふだんは抵抗感もなく図式的な理解として、そうなるのかなあ、くらいの視線でやりすごしているが、ふと思い出すのは、いつだったかの(もうずいぶんと前の事になるが)NHKテレビの麻生総理解散総選挙の時期について報ずるニュースを見ていたら、やはりパネル画面には江戸城?から大きな顔をせりだしたちょんまげ姿の麻生の殿様のまんがが映し出されていた。自らの一念で解散かどうかを決定する権力をもつお殿様。
 あまりにわかりやすい例えに、いつものぼんやりとながめている視線から、ふっと距離をとってみる動きが起こって、「いまは封建時代じゃないよ、少なくとも民主主義のたてまえの、主権在民国家だろうが」とか、あらためて口に出してみたのを、記憶している。
 いちいちそんなこと、めくじらたてて言いつのるヒマがあったら、もっと政治のことでも勉強しろと揶揄されそうだが、でも、どうなのだろうか。
 真面目なニュース報道番組にも、自然な例えで登場するそんな姿や、それを自然な感じで受け流している視聴者の視線というのは、政治動向を云々する基本のところで、どこか深層的なすりこみをシンシンと作動させている、僕たちを取り囲む文化的な特質のようにも、感じられないだろうか。
 加えて、いまの時代を特徴づけているのは、総動員的になっている経済社会的な言葉のひきこもり、つまり今のこの社会で言葉を抑圧的にさせているのはなんだろうと考えた時に、ひしひしと感じる、経済社会的なひきこもり倫理の蔓延、である。みんなでひきこもれば、それも公共性をもってくるのは道理で、エンエンと終わりそうにない貨幣戦争に向っての、総動員体制まっさかり、である。つまりは、ひとりで考える場所の禁圧。みんなでいっしょになって考える形をとれば、こわくない、である。上に言及した吉本隆明氏の言い方を借りれば、今の時代を行き交う言葉を特徴づけているのは、<自己表出>の禁圧された<指示表出>の、臍の緒の切れたコミュニケーション言語の扇動と乱舞、である。
 そんな中でいまの政治的な動きをみていると、もう政治家が自らの見識で行動するのではなく、権謀術策にたけた政治家とその家来たち、という図式の中で右往左往している姿が、いつのまにか顕著に出来上ってしまっている。民主主義とはなにか、代表を選ぶ選挙とはなにか、今はもう、コンポンからひとりひとりが考えなくては、にっちもさっちいかない状況になっているのではないだろうか。
 よく昭和30年代の高度経済成長と、その頃の希望に満ちた空の輝きとがセットになって言アゲされたりするが、それはぜんぜんそんなことじゃないんだ、といつも思ってきた。なによりも昭和30年代の空の異様な輝きを現出させていたのは、ひとびとが、そこにはっきりと<戦後>を、その大気を、<ひとりになって>おもいっきり吸い込んでいたから、ではなかったか、と。

(註=文脈から言うまでもなく、ここで言う<戦後>は文字通りのいくさの終わった世界のことで、<戦後体制>のことではないのだが、ついでに、戦後体制の問題のひとつである自衛隊の存在について一言。それは、いわば在るのに無い、存在である。無いはずなのに在る、存在である。自衛隊の隊員の方たちが地域国民のために色々苦労されていることとはひとまず関係なく、その成り立ちから言って、憲法を無視して存立した、戦闘組織であることは論を待たない。しかし、またそれは、憲法9条下に、それを意識しながらこっそり組み立てられた(^^;組織であることが、自衛軍でもなく、国軍、防衛軍でもない、消防隊、海上保安隊のようなその名称によってかろうじて刻印されつづけてきた、存在でもある。戦争組織ではありませんよと、絶えずアッピールしつづけることで、その濃い影のような存在を刻印してきたのだ。この<憲法9条>と<こっそり>との緊張関係、それをいっきになくしてしまおうという動きが、現在の安倍政権下の憲法9条3項への自衛隊規定法案であることは、これまた論を待たない。消防隊、海上保安隊などと同じようなものとして、<別の憲法規定を考える>というならまだしも、不戦条文としての9条のなかに、自衛軍、国軍といった名称変更も予定しつつ、戦闘組織としての自衛隊を、この存在は認めますよと、つまり、国際紛争を解決する手段としての戦争はしないけれど、自衛のための戦争は…、と、これまたたくさんの<こっそり>が盛り込まれそうな条項を加えようというのだ。ほんとに、憲法がかわいそう……。ー11月5日付記
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