父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第11章「をなり神」を4回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)

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(V)
 この「おもり」の内容および調子からして、「わぁしま」に伴っている言語情緒は、有限的な村里の意味ではなく、もっと幽遠な「この世」に対する「あの世」を意味するもののように思われる。
 それで、この「おもり」の二番目は、現身の妹が兄を訪問するのではなくして、「をなり神」すなわち妹の霊魂がその兄の夢うつつに仮現する事件を歌ったものであろうことがわかってくる。
 この夢うつつの中で、をなり神は、馬、牛、家倉などはいらない、そんな現実的なものよりは、幽界においても必要な小袖み袖(神衣)なら幽界への土産として貰っていこうというのである。
 「み袖」については、「カンツメ節」という民謡に、
  「夕(ゆ)べがで遊(あそ)だる、カンツメあごっくゎ
    明日(あちゃ)が夜(よう)根なれば、後生が道ば
     み袖振りゆり」
(その晩までは一緒に歌・三味線で、はしゃいだカンツメ嬢なのに、その翌日の夜になると、もう、あの世の道を、み袖振って歩くとは!)
 次に、この「うてらのがま」という表現の「うてら」という語が問題である。
 諸鈍部落の山麓に村人が飲料水を汲む共同の泉があり、「てら」と名付けられている。また同じ種類の泉に「てるこ」と名付けられているものもある。この「おもり」の残っていた生間部落では落ち水の溜まるところがあって、「テルコ」と呼ばれている。
 これから推してみると、「てら」は水に関係がありそうである。この「てら」は、また「うてら」の「う」が脱落した頭略音語であろう。「ら」は虚辞であるだろう。「うて」は「おち」(落ち)のなまりで、「水が落ちてたまる泉」の意に解されてくる。これからして、「てるこ」は「てらこ」のなまりで、落ちる水のたまる井川の意であろう。
 神官「ノロ」の「タハベ」(たかべ、祈り)の言葉に、「ナルコ」「テルコ」というのがあり、その意味は明らかでないが、「テルコ」は、どうやら山津見の国とでもいうべきものを表わし、「ナルコ」は、どうやら海津見の国とでもいうべきものを表わす言葉のように思われる。この後者の「テルコ」と前に述べた「てるこ」と、どうも連想されがちであるが、これは別語であろう。あえて連絡をつけるならば、「ノロ」や巫女たちのアメゴ(浴川)が「テルコ」であったのかも知れない。
 今日の巫女の例をみるに、彼女たちは、「浴泉を捜す」といって山間に入り、まだ誰も使用したと思われない、源のわからない泉を捜し、「みそぎ」をする習わしらしい。あるいは「ノロ」は、こうした泉を捜し、その一帯を神域として、ここに山籠りして、「神さかし」をしたのかも知れない。
 さて、こう考えてくると、この「おもり」の「うてらのがま」は、端的にいうならば、「たきつぼ」(滝壷)のことになる。
 兄と妹との仲があまりにもよくて、妹は方々からよい縁談があったのを、すべてこれを断わり、やがて世評にあがり、その圧迫が加わってくる。そんな奴なら山間の滝壷に落ちこんで、田神の「いけにえ」にでもなるがよい、と悪罵される。とうとう、この「をなり」は、この村におれなくなって、家族の者が、夜こっそり他へ逃がしてやる。もう二度と、この「をなり」は、この村へ帰ることはできない。あるいは滝壷へ落ちて死んだのかもしれない。あるいは巫女になっているのかもしれない。あるいは良縁を見つけて、他の村にて結婚生活に入っているのかもしれない。昔の社会は、今日の私たちが想像する以上に、社会的制裁・圧迫というものは強かったらしく、これに類する美女に関する哀話は、この島には多い。
 これが、この「おもり」の第一番の意味である。ところでこの妹が他島(他の村の意)で、今も生き永らえているとすれば、その死期が迫ったころ、または兄の死期が迫った時分に、兄の夢現(ゆめうつつ)に、突如としてこの妹の「まぶり」(霊)の仮幻が現れ、この「おもり」の二番目にあるような会話が交わされたのであろう。
 この「おもり」は、代表話法(representative speech)が、うまく使用されている一例である。この「うてらのがまかち落(う)てて行(い)け」というのは、世人の悪評の罵倒の言葉である。
 さて、この鋭い世間の至上命令には、もっと古い時代の禁断の木の実をちぎった「をなり」の、「入水」習俗が、無意識の伝統として残っているのではあるまいか。
 この島の昔話や伝説にも、妹を泉に押し入れたり、美女を海に押し落としたりする話があり、古事記にも日本武尊の姫が海に入って、尊の海上の危難を救った話が載っている。
 なお、ここで徳之島のショーヂ(精水)祭と称する水神祭を思い合わせてみる必要があるだろう。
 年紀の大祭には、「をなり」の犠牲において、厳粛な水神祭が行なわれたものと想像される。

 次に、をなり神と直接には関係がないが、それにしても、このをなり神信仰の根元を忍ばせる哀話の一つとして、浦富という女性に絡まる伝説を、ここに取りあげてみることにする。この浦富の生地が、また偶然にも前に述べた、をなり神を歌った「おもり」の残っていた生間という部落であったことは興味のあることである。
 この浦富は「浦富節」または「むちゃ加那節」として民謡にも歌われているものである。
 この浦富事件の起こったのは、今から一五〇年は下らない前だろうと思われる。この事件を正しく理解するには、その背景をなす社会状態をよく知っておく必要がある。
 当時は封建社会で、この島々全体を支配する、この島の中央官庁、すなわち今日の支庁にあたるものを代官所といい、はじめは大島北部の赤木名に置かれたが、ずっと後になって名瀬に移されたのである。
 代官所の役人は、すべて鹿児島から派遣され、今日の支庁長にあたるのが代官であった。
 今日の行政区画としての村にあたるものを「間切」と称し、間切の長すなわち今日の村長にあたるのをヨビト(与人)といった。
 与人以下の役人は、ほとんど、すべて、この島の地元の者が、これに当てられ、これを一般大衆は「島役人」と称したのである。この島生まれの役人すなわち「島役人」は、与人までが関の山で、これ以上には昇進は許されなかった。
 ところで中央官庁すなわち代官所の役人は、代官をはじめすべて単身で、この島に赴任するのが習わしであった。代官の任期は二年あるいは四年であったので、この長い間には、彼らの性生活に空白ができる。代官は公然と、この島では妾を蓄えるのが常習となり、これを特にアンゴ(吾子)と称した。このアンゴも一人や二人ではおさまらなかったらしい。
 時とすると美人物色の布令が地方の役所に回ってくる。地方の島役人たちは、また彼らなりに、この時ばかりと手ぐすね引いて美人を物色し、代官はじめ中央の役人に進じ、自分の出世の糸口を作ろうと力んだのである。
 これが、この島の風教に及ぼした悪影響は、実にはかり知れないものがあり、また数々の悲劇を生んできたことは、民謡や伝説によって知られるところである。
 ここに奄美本島南端、加計呂痲島の東端の生間部落に、浦富という目のさめるような美女が住んでいた。これが島役人の目に止まらぬはずがない。

(つづく)

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更新日/2002年7月24日
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