父・金久正著「増補・奄美に生きる日本古代文化」(1978年・至言社刊)より、第11章「をなり神」を4回に分けて全文収録です。(ルビ文字は( )の中に、ルビ強調は下線で示しました。また文脈上あきらかな校正ミスと思われるところは文意を整えて示しました。)

論考もくじへ
(W)
 ところで、この女は、なかなか節操が堅く、また親孝行者で、村の評判者であった。
 島役人たちは、こんどこそはと、立ち代わり入れ代わり彼女を訪れ、何とか口説き落して殿(代官)のアンゴ(吾子)として進じて自分の名を取ろうとあせりだした。しかし彼女は頑として聞かない。島役人の足は、いよいよ繁くなったので、彼女は止むなく、これを避けるために昼間は山中にこもり、人足のきれる夜中を見はからって家に帰るのであった。
 このため島役人たちの圧力は、やがて村全体に加えられるようになり、村の経済にも影響するようになった。当時の薩摩の糖業政策では、砂糖は一斤も自家用にすることはできなかったので、やむなく「ぬけ砂糖」ということを行なって、細民は、その生活を維持することができたのである。浦富故に島役人の足跡が村から消えないとなると、「ぬけ砂糖」もできないばかりか、租納や夫役の割当ても募ってくるので、村人たちも、やりきれなくなって、浦富を出すようにと、その一家に迫った。浦富の一家は、このためまったく苦境に落ち入った。両親は、ついに浦富をなだめ、いやなのをすすめるわけにはいかないが、こんなに世間を騒がしてもいけないから、当分この村をはずしてくれと、涙ながらに、浦富に頼むのであった。
 そこで真夜中に一隻の小舟を仕立て芋その他二、三日分の食料を、これに積み「お月待(つきまち)」の祭りに供える小餅をも作って、これに添え、櫂を一梃備え、「他島行じ暮らせよ加那!」(他の島に行って暮らしてくれよ、愛する娘よ)という母の泣きくずれる声とともに、浦富は一人この小舟に乗せられ、小舟は沖へと押しやられた。
 生間という部落は、風光明媚な瀬戸内水道に面し、少し沖に出ると、古仁屋、清水、嘉鉄などの対岸の部落が指呼の間に見える所である。この水道は潮の満干の時には、海流のはげしいところである。
 浦富は舟を漕ぎ漕ぎ、対岸の嘉鉄部落に渡るつもりだったが、あいにく、干潮に会い、か弱い女の手では、いくら漕いでも、この流れに抗することはできず、とうとう押し流されて、その乗る小舟は大洋の只中に漂うようになった。
 ところが奄美本島東南の沖合から喜界島の小野津部落に向かって、直線に走っている海流があるらしく、浦富の小舟は、ついこの海流に乗り、数日して小野津の海岸に打上げられたのである。
 その当時は小野津の小字である十柱(とばや)の海岸には、大きなガジマルがはえていて、この日村の共同作業があり、村の青年たちは、このがジマルの大木の下で、盛んに縄をなっていた。すると正午すぎ瀬がひいて、海岸の浅瀬が現われているころ、一隻の小舟がその間に打上げられているのを一人の青年が見つけた。行ってみると世にも稀な美人が乗っていて、もう息も絶え絶えである。青年の驚きは一通りではない。これは、この世の者ではあるまい。自分は大へんなものを見たと、自分の目を疑いながら、急いで仲間の所へ走り、これを知らせた。総がかりで行ってみると、まがいもなく人間である。早速浦富を舟から助け出し、食物を与えたりして介抱すると浦富もやっと正気づいたので、それから小野津の物持ちが浦富を引取り世話するようになった。
 小野津では美人が流れこんできたというので、しばらくの間は大騒ぎで、この物持ちの家の周囲には、美人見物の人足が絶えなかった。こんなに厄介になっている間も、浦富は自分の分限を忘れなかった。この物持ちも、ついに浦富の美貌に心打たれて浦富を自分の長男の嫁にしたいと話しかけた。ところが浦富はどこまでも謙遜で「自分のような分際では、このお宅の嫁などなる柄ではない」といって、これをひらに断わったのである。
 それから年月が立つままに、浦富もついに結婚する時がきた。しかもそれは後妻としてであった。やがてムチャカナという一女が生まれた。これがまた母親に劣らぬ美人で、小野津では大評判となった。
 ところが、ムチャ加那が十七、八歳の頃、彼女があまりにも世間からもてはやされるので、彼女の同輩の娘たちが彼女に「うわなり」をしだした。それが高じてある日、彼女を海苔を採りに行こうといって誘いだし、海岸のシー(礁)で、彼女を背後から突き落して溺死させたのである。
 やかで、その死体は小野津の海辺に打上げられた。今日では小野津には「むす加那」の墓として墓標が立っているが、これはムチャ加那を祭ったものである。浦富は、この娘の死に会ってから気が狂い、みずからも投身してその数奇な一生を終わった。その死骸は奄美本島東岸の青木に打上げられ、ここに葬られてあるとのことである。
  「喜界(ききゃ)や、小野津の十柱(とばや)ムチャ加那
   青(あを)さのり剥(は)ぎが、行(い)きょやムチャ加那
   青さのり剥ぎが、行き欲(ぶ)しゃあすが
   阿母(あんま)たん知られて、行きゃばも、をらばも」
(喜界は小野津十柱のムチャ加那よ、海のりを採りに行こうよ。海のりを採りに行きたいことは行きたいが、母たちに相談してから行くか行かないかを決めよう)
 と民謡は歌い起こしてしる。
 今日生間に待網漁場があり、その名をウラマチャミ(浦待網)といっている。これは、その昔、浦富が島役人の手をのがれ、この漁場の近くの丘の松の木に上って、身を隠している時、鰹の大群がその下で飛びはねているのを発見したのが、この待網漁のはじめだから、その名があるとのことである。
 この生間の待網漁場に突出している丘上には、祠のようなものが立てられていて、これには櫛と機織用の「ヲサ」「ホドキ」などが供えられ、今日では竜神のように祭られている。この櫛や機織用具は、かって浦富が島役人たちの口説きの手をのがれては昼間ここに逃避している間に、その退屈を紛らすために、機織用具の一部と縦糸(ヌキ)とをここに運び、糸をさばいて、「文(あや)を拾って」母の手助けをしていたが、その運命がいよいよ迫った時、そのまま、ここに放置されたものであるといわれている。
 次に、この浦富の生地である生間から一山越すと諸数部落であるが、この二つの部落は親族部落で、祖先を同じくし、ほとんど同一部落とみてよい。今日でも、この生間や諸数の人々が、浦富の墓所のある青木部落の沖を舟で渡るときは、かならず青木の方へ向かって、「生間諸数の末孫たちです。どうぞ無事に渡らして下さい」とタカベ(祈り)てそこを行きすぎる習慣になっている。
 ある年諸数部落の漁業が不漁続きで、弱っていたころ、占わせたところが、浦富の霊が、生間、諸数の末孫に拝まれたいといっているとのことで、わざわざ浦富の霊を祭り、大漁をしたとのことである。
 ここでは浦富の霊が竜神として祭られていること、また浦富の霊が、その生地である生間、諸数部落の人々には、よくその海上の安全を見守ってくれると信ぜられていることに注目しなければならぬ。

 家族史の上で、プナルア家族制を排除した人類は、その次の段階として小父(をじ)と姪、小母(をば)と甥の結婚をもタブー化し、特に可能性の多い後者を神聖化して行ったのであろう。
 古事記神代巻には「日子穂々手見の命が海神の娘豊玉姫を妃となし、その御子鵜葺草葺不合の命が豊玉姫の妹にあたる玉依姫を妃とされた」とあるが、後者は正に小母と甥の関係である。
 今日では血族結婚は、従兄弟妹からは許されるが、小母と甥の間はちょっと異様である。
 大正の初期ごろ、周防徳山心中という流行歌がはやって、にぎわったものであるが、これは小母と甥との今日の社会常識からすると変則的な恋愛からくる悲劇であった。
 しかし家族史的には、この関係は古くからタブー化され、神聖化されていたものと思われる。
 小母の霊力についての信仰も根強かったらしく、この島では男一五歳になると「青年(にせ)成り祝」すなわち成年式なるものが行なわれ、一人前の男として取り扱われ、結髪をなし「マワシ」(ふんどし・褌)をあてがわれ、村の青年の仲間入りをし、かならず宮角力に出なければならなかった。一般庶民には、この時から夫役が課せられるようになった。
 この際の「マワシ」はかならず小母から贈られ、しかもそれは小母の手織りの布でなければならなかった。この褌には小母の霊力が加わってをり、甥を危難から守るものと信ぜられたのであろう。
 古事記中巻には小碓の命(倭建の命)が九州の熊曽建征伐の際、その御伯母(みおば)倭比売の命の御衣(みそ)御裳(みも)を給わり、女に扮して、その目的を果され、また東方の蝦夷(えみし)征伐の際は草薙の劒と火打石を同じく御伯母倭比売の命よりいただいて、その霊力によって功を収められたことがのべられている。


(補遺)
 今日でも、をなり神の信仰は、フナト(舟人)の間には根強く、特に漁船には、をなり神を祭る習わしである。これは、をなりにあたる女性の髪三本を貰い受け、これを御神体として帆柱の根元に舟魂として祭るのである。

(了)

論考もくじへ @ A B C

更新日/2002年8月2日
                                  ホームへ                     
               
「をなり神」表紙