「奄美郷土研究会報」第11号(昭和45年6月)所収の父・金久正の論考です。            



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   もう、かれこれ四十年以上も昔のこととなったが当時の東京市には、早稲田から本郷・ 浅草を通って、柳町行きの電車があった。これは終点で隅田川に面し、細い橋を渡って、川の向こう岸に出て、川に沿っていくらか下って行くと亀井戸という小奇麗な私娼窟があり、川に沿って少々上っていくと、玉ノ井という私娼窟があった。吉原や洲崎等の公娼とは違って仲居などを介することなく、手続きが簡単で用が達せられるのである意味では便利であったように思われる。また博多在住当時をふり返ってみるとやっぱり柳町というところにその歴史は古く、「朝に平氏の公達を送り夕に源氏の君を迎へた」といわれる気持のよい「くるわ」があった。
   さて「ヤンゴ」というと私にはこの柳町や「柳川(やながわ)」という言葉がよく聯想され「ヤンゴ」は、後者の転化ではあるまいかなどと考えたほどであった。というのは第二次世界大戦後「売春防止法」の施行前までは奄美本島の名瀬市と南部の古仁屋の片隅に「ヤンゴ」と称する一区域があり料亭が立ならび遊興の巷であったからである。これらはすべて名目は料亭酒場であったが、実際は売春を主目的としたいわゆる「曖昧屋」であった。方言ではこれらの料亭を「ジュリヤ」といっていた。これは明らかに「料理屋」の転化語と思われるが、しかし一方には古く売春婦を意味するようになった「ヅレ」または「ヅリ」「ジュリ」に屋がついて「女郎屋」を意味するつもりで「ジュリヤ」となったのかも知れず、或いは少なくともそうした聯想があったのかも知れない。事ほどさように「女郎屋」の性格が強かった。ここに抱えられている遊女達は酌婦(しゃくふ)と呼ばれ、普通「ヤンゴヲナグ」(屋仁川女)として知られていた。今日のように洋装を普通しない和服姿一遍の時代にはその着物の着つけといいそのなまめかしい「仕成り」から、ああ!あれはヤンゴヲナグとすぐ判じられたものであった。「ヤンゴ」の一室であだな一夜の「ねんごろ」を交わせたマドロスが、「日高丸甲板の上から名瀬ヤンゴ見れば、名瀬ぬ美人達(キュラムンヌンキャ)ぬハンカチまんきゅろど」と歌って、別れを惜しんだであろうことも今は昔のこととなった。
   ヤンゴ(屋仁川)と称する遊里が設定されたのは、恐らく名瀬が始まりで明治の末ごろであったと思われる。関係当局が風紀取締りの観点から「ジュリヤ」と称するものをここに集合させたものと思われる。古仁屋の場合は少しおくれて名瀬をまねて、大正の初めごろに「ヤンゴ」地区が設けられたものと思う。
   いわば村落経済の都市経済化につれて、地方村落に散在交流していた商業工業人の名瀬・ 古仁屋への集中定住化につれて、これまで「ヅレ」と称して諸部落をまわって春をひさいだ売春婦の階級も「ヤンゴ」という地域ができると、やがては、ここに定住するようになったものと思われる。明治の末から大正の初めにかけて私が小学校の初年級のころそのころはもう、「ヅレ」とはいっていなかったが、とにかく「まわり淫売」といわれる女性達が私の郷里の部落にまだよくやって来たことを子どもながら覚えている。しかしヤンゴ地区が賑やかになるにつれ、こうした巡り淫売も漸次姿を消して行った。
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   ところで「ヤンゴ」といえばすぐ色町を連想させるが本来それが川の名であることは語感からもすぐわかる。屋仁川という漢字を当てたところからでも想像がつく。果たせるかな、「ヤンゴ」と称する地区には「ヤンゴ」と呼ばれる川が流れているのに気づくであろう。
   なお明治の初年頃までは、家人(ヤンチュ)または家人(ケニン)と称する農奴制度というものがまだ残っている。よく調べてみると、「ヤンゴ」と称する川は、不思議にも多くの部落に見出され、或る部落ではこの「ヤンゴ」と称する川で家人(ヤンチュ)達が、水浴をしたり、食器を洗ったりしたらしく、「ヤンゴ」という語も「家人」「ヤンチュ」と因縁づけられて考えられることがあったらしい。
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   さて前にも述べた通り「ヤンゴ」と呼ばれる川は案外に多くの部落にあり、実例をいちいちあげるまでもないが特に代表的なのは加計呂麻島の西南に位する須古茂部落のそれである。ここから「ヤンゴ」というのは本来何を意味したかを解く鍵をあたえてくれる。
   大島方言で「ゴー」というのは川(カワ)の相互同化した転化語で例えば複合詞では人名の大河内が「オーコーチ」となり河野が「コーノ」となったり、長崎市の町名に本河内町と書いて「ホンゴーチ」となるのなどがそれである。大島でも河川の奥地を河内「コチ」と呼んでいる。ところで奄美方言では「コー」といえば、河川全体を呼ぶばかりでなく、一つの河、特にその上流の水の深く淀み、水浴などに適した一つの個所をも「コー」と呼んでいるようである。奥河(ウッコーまたはウックンコー)などにあらわれる「コー」は特にこうした淀みを意味している。
   泉川(イジュミゴー)とか井川(イカワ)などにあらわれる「コー」「カワ」も一つの水の溜りを意味している。
   前に掲げた須古茂部落の「ヤンゴ」も川全体の名称というよりむしろその上流の川が屈曲しかかって水の淀んで、水浴に適し一方には浅瀬のできた個所を意味しているらしい。
   これでもう段々問題はほぐれてくる。その他に部落によっては清川(キュッキョ)とかミジョリゴ(水ごり川・ みそぎ川)などという河川名があるが、みそぎして身を清めるという意味で恐らく本来は、やっぱり河の一つの淀みをそう呼んだのが固有名詞化して河全体の名称にもなったものと思われる。これから推測すると「ヤンゴ」もその例にもれず古くは巫女達が祭儀などの折、斎戒沐浴した河の一つの淀みが「ヤンゴ」であり後にそれが固有名詞化され河全体の名称ともなったのであろう。ついでに徳之島や沖永良部に「ショージ」というのがあるがこれはショーヅ(清水生れ)の転化で意義深いものであることを附言したい。
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   もうここまで来ると「ヤンゴ」という語が何の転化であるかは容易に想像がつくだろう。大山麟五郎さんによると「アンゴ」という河川名もあるらしいが、そうなれば問題はいよいよほぐしやすい。
   大島方言では、「浴びる」は、「アミル」(amiru)となり「浴び」が「アミ」(ami)と中舌母音化する。今日でも巫女達が「アメゴトメル」(浴び川をさがす)・・・という表現があるが、奄美方言はよく音韻の転化につれて意味の分化を生ずる場合が多い。浴川(アミゴ)という語は現存しながらこれが転化して「アンゴ」となり固有名詞化しても、少しも不思議でないであろう。されば「ヤンゴ」はどうであろうか。古事記に斎杙(イグイ)、忌矢(イヤ)という語があり奄美方言にはこれが残っていることは、私の著書で述べた通りである。この「い」(斎忌)は「いみ清める」という意味の接頭辞で、浴川(アミゴ)にこれをつけると、「イアミゴ」となりそれがなまってイヤンゴ(グロッタルストップ・ yango)〔註=記号は表記できないものがありますので、正確ではありません―海坂〕となり更になまって「ヤンゴ」となったものと思われる。これで「ヤンゴ」の語源は明らかになったものと思う。国語では「ニ」と「ミ」はよく通音をなす。例えばミカンがニカンになったりミギ(右)が「ニギ」になったりするようなものである。ヤンゴを屋仁川と当字したのはヤンゴとなる前、「ヤニゴ」と呼んだ時期があり、その前は、屋美川(ヤミゴ)であったのかも知れない。(ì amigo>グロッタルストップ・ yango>yango)なお竜郷村戸口部落では特にこうした河の一部の水の淀んだ一定のところを「ナンゴ」と呼んでいるようである。面白いことには、この「ナンゴ」も実は、「ヤンゴ」の転化であることは明らかである。
   国語ではイ(i , y)、ウ(u , w )、ナ行の純子音(n)はよく通音現象を生ずる。例えばイゲ(とげのこと)が「ニギ」になったり、「ばら」が本来「イバラ」「ウバラ」「ンバラ」であったことや、女を意味する語が南島では「イナグ」「ウナグ」「ニナグ」などになっているのをみれば思い半ばにすぎるものがあるべきであろう。ついでながら琉球の有名な古諺に「女(ニナグ)軍(イクサ)ぬ先駆(サキハエ)」というのがある。昔戦争の時は巫女が軍の先導役を務めたことを意味している。そのとき、巫女は陰部を露出して前進するのであった。これは性信仰のあらわれで性器には敵を圧服する呪力があると信じられたからであろう。先島の赤鉢が叛いたとき、久高島の「ノロ」の君南風(キミハエ)がこれを討伐する琉軍の先導をつとめたことは有名な話である。さて本筋に返っていまとんぼ(蜻蛉)のことを奄美本島では「フェ―ジャ」とか「イエダ」とか色々となまっていっているが、これらはすべて「あけつ」の転化で「あけつ」は日本古語で沖縄ではいまもそういっている。ところで長崎辺で「ヤマンボー」(山坊)といっている大きな「とんぼ」のことを、奄美本島北部では「オクエ」というが南部特に諸鈍部落では「ナマイェ―ダ」といっている。これは明らかに「ヤマイェ―ダ」すなわち「山とんぼ」のなまりである。
   服部四郎博士はその「言語学の方法」という著の中で言語学はすべての文化科学のパイオニア―をつとめるという意味のことをいっておられたようだが、なるほど特に南島文化を研究するにはたとえ初歩的でも音韻変化の方法を心得ていると、大きな失敗をしないですむだろう。
   特に語源については、古い文献がないときいくら横の比較をしても明白にすることが出来ない場合があるが、そんなときでも言語学的試練を重ねているとよい「直感」が働き、当たらずとも遠からざるところに達するものらしい。その一例として「あんじ」(按司)ということばを故伊波普猷氏は「あるじ」(主)の転化語と見たが、奈良時代の風土記には現に「あじ」という語があり、奄美大島では、そのまま使われている以上、もう疑いなく「あんじ」は「あじ」の転化である。伊波氏がそれに気づかなかったまでである。それにしても言語学者である伊波氏の勘は当たらずとも遠からずである。よく民間語源(フォーク エテモロジー)をいうのであるが、南島関係文書によくこれが見られるのでさけたいものである。例えば「おもり」(神歌)の「り」の純子音(r)が脱落して「おもり」が時々なまって、「おもい」などと呼ばれるところからこれを思(オモイ)と連想させ「おもり」は深思いを述べたところから「おもい」ともいうなどと解するのがそれである。


  

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