おいらは船舶、それもカーフェリーや貨物船などの商船に、大変興味を持っています。思い入れがそう見せるのでしょうが、船舶も鉄道車両も、その誕生から終焉に至るまでの間に、人の一生にも似た変転を見せてくれます。生まれが華やかな船や車両であればある程、その晩年はドサ廻りに見えて哀れを誘うことになります。
あまたの旧形国電の中には、逆に、最後になって花を咲かせたのではないかと思える車両がいます。なかでも、クモハユニ64000は生まれが薄幸で、それ故にドラマチックな流浪を重ねたが、最期は多くのファンに注目されて、おだやかな晩年を過ごした車両と言えましょう。
おいらが改めて記すまでのこともないのですが、クモハユニ64000の過去を振り返ってみましょう。彼女は昭和14年、モハユニ44形(42形)の増備車として51形の合造車で計画されながら製造が見送られ、昭和18年度予算において3両が汽車会社で製作されました。横須賀線に登場したのは昭和19年に入ってからのようで、長姉のモハユニ61001(後のクモハユニ64000)だけ電装されて登場したという記録と、3両とも未電装のクモハユニで就役し、モハユニ61001のみ電装されたという記録があります。いずれにせよ、戦争末期の部品不足から電装されたのは彼女1両だけでした。それが幸いだったのか、不幸の始まりだったのか、荒廃した横須賀線を振り出しに、彼女の長い旅路が始まります。
彼女は大糸線と縁の深い車両で、昭和25年に転出。その後、身延線に移動してモハユニ44100となり、再度大糸線に移ってから第2エンドに非貫通の運転台が設けられ、クモハユニ64000となりました。両運転台となった彼女は自連となり、旅客形式のまま電気機関車代用として使用されたのです。中小私鉄じゃあるまいに、当時の彼女の写真を見ると何とも無骨で、これが旅客形式の電車?!といった雰囲気です。
その後、岡山に転出して赤穂線で活躍しました。第2エンドに貫通路が付き、吹田顔である小窓のHゴム化がなされたり、第1エンドに関西式の方向板掛けが付いたりしたのも、この頃です。床下の配管の塗装だけでなく、そこはかとなく、関西の香りがしたのもそのためでした。岡オカの戦前形電車引退時には退役せず、クモハ32000と共に、牽引車(控え車)代用として残存しました。何と岡フチにも貸し出され、府中電車区をねぐらにしたこともあったのです。(岡フチでの彼女の画像が、リンク先の「懐かしの福塩線(府中駅構内)」にあります。)
飯田線の旧形国電終末期、静トヨに80形を投入して戦前形電車を静ママに統合する際、郵便荷物合造車の運用見直しも行われ、不足する車両の補充として、クモハユニ64000は岡オカから静シスに転入し、飯田線の置き換えを伺う時期がありました。昭和52年秋〜翌年夏にかけての1年弱、彼女は静シスに在籍したのですが、その際、工場入場車の控え車として、何と、大船工場までやって来たのでした! 横須賀線用として戦時下に生まれ、横須賀線が戦後の落ち着きを取り戻す前に地方線区に転出し、1両のみの異形式ゆえの変転を重ねたクモハユニ64000が、故郷の横須賀線へやって来る! 彼女の胸中には、一体、何が去来したでしょうか。スカ線上に乗り入れた彼女からは、恐らく、電気機関車代用の苦労や牽引車としての悲哀も、全て過去のものとして消え去ったのではないでしょうか。飯田線における幸せな晩年の前兆が、夢の大船工場行きだったと思うのです。
旧形国電に魅了されていた頃、「横須賀線用だった旧形国電には、横須賀線という故郷がある」って考えていました。固有の形式が投入され、それ故に、いつまでも横須賀線のイメージを引きずったからでしょうか。おいらは関東生まれで、スカ線好きだから殊にそう思うのですが、京阪神急行・緩行についても、それは言えますね。
おいらは2回、旧形国電界の大先輩に誘われて、東海道本線上でクモハユニ64000に熱い視線を向けました。その後、飯田線においてぶどう色だ、やれスカ色だと、何度も彼女を追いかけることになるのですが、東海道本線上で見せた彼女の誇らしそうな姿が、いつも脳裏に浮かびました。
飯田線では3姉妹(クモハユニ64000、クハユニ56011、クハユニ56012)が同じ運用に入り、一緒に活躍しましたが、彼女はこれ以上の幸せは無いんじゃないか..ってカオをしてましたっけ。当時の旧形国電ブームもあいまって、飯田線における彼女は、多くのファンの注目を集めました。クモハユニ64000、その晩年を垣間見たに過ぎないおいらですが、忘れられない1両です。