Piña ピーニャ と Abaca アバカ について

ピーニャ(パイナップル布)とは Piña

フィリピン中部のパナイ島特産のピーニャは、野生のパイナップルの葉脈繊維を紡いで織り上げた羽衣のように薄く、繊細な伝統布です。収穫した葉を丹念にたたき、しごいて繊維をとりだし、川で洗い、天日にさらしてから糸に紡がれます。たいへんな手間と時間をかけても、織り機にかけられるのはわずか25パーセント。蜘蛛の糸にもたとえられる純ピーニャは切れやすく、熟練した織り手でも1メートル織るのに3日かかるといわれています。

Ananas Stativs アナナス(鳳梨) = 熱帯アメリカ原産で、熱帯各地に栽培されるアナナス科の植物。果実は一般にパイナップルといわれて食用される。野生種は実が小さく食用に適さない。

ピーニャの歴史

パイナップルは、16世紀にスペインの征服者がアメリカ大陸からフィリピンに持ち込んだと考えられています。パイナップルの実は、長い航海の間の大切な食料となり、残った葉の部分がパナイ島の肥沃な大地に根を張り、繁茂したのでしょう。16世紀までのフィリピンでは、先住民が現地にある植物ー竹、椰子、綿、麻、バナナなどの繊維から布を織る技術をもっていたので、パイナップルを使うことはすぐ応用できたと思われます。

その後、マニラとメキシコを結ぶガレオン貿易(1565-1815年)が始まり、物流をたやさないために織物産業も発展しました。そんな環境のなかで、ピーニャの生産は18世紀後半から19世紀前半にかけて最盛期を迎えます。ピーニャがもてはやされた理由は、ひとつにヨーロッパから輸入される衣服は重く、スペイン人には風土に合った衣服が必要とされたからです。さらにこの時期、ヨーロッパはロマン主義の時代であり、誰もがエレガントな美しさを求めていました。精緻で華麗な刺しゅう技法が発達し、ガウンやハンカチに美しい刺しゅうがほどこされ、スペイン王室の献上品として珍重されました。

1989年の米西戦争を経てアメリカの植民地になってからは、大量生産の安い衣料が大量に流れ込み、フィリピン人の衣服の嗜好も欧米化し、ピーニャの需要は大きく落ち込みました。第二次世界大戦後のフィリピン独立を契機にピーニャ復興の動きもありましたが、本格的な成果にはいたりませんでした。

「純ピーニャ」の衰退の一因は、その生産性の低さにあります。繊維を抽出し、紡ぎ、織る過程があまりにも骨の折れる作業のため、職人の後継者不足と高齢化がすすんでいます。そこで1988年からは、政府、大学、NGO参加による復興計画が始まり、ピーニャ復興モデル地区(アクラン)が指定され、協同組合の設立や若い人たちが技術を学ぶトレーニング学校がつくられました。新しい時代の流れとして、扱いやすい絹を縦糸に使う「シルクピーニャ」が、若い織り手ーとくに女性たちに歓迎され、現在では生産の主流になっています。

  参考文献 "Piña" Loudes R. Montinola,1991,Amon Foundation
             
 



アバカ(マニラ麻)とは Abaca,Manila Hemp


アバカはフィリピン原産の芭蕉科の多年草で、高さ5-7メートルになります。バナナに似ていますが、葉の幅が狭く、より密に生えています。果実は食用にはなりません。葉の繊維は強靭でしかも軽く、耐湿力があり、船舶用のロープに最適とされています。網、織物、製紙の原料になります。世界の生産量の大部分をフィリピンで産出しています。日本の紙幣にも使用されています。

アバカの歴史

アバカは本来野生で、フィリピン諸島各地では、古くから布地の原料として用いられていました。スペイン人も早くからガレオン船のロープ原料として使用していました。19世紀初頭、スペインは世界貿易市場で競争力のある換金作物のひとつとしてアバカ栽培に力を入れ、大規模に生産されるようになりました。1834年のマニラ開港以降は、アメリカ貿易商が資本投下をして、最大の輸入業者になりました。

1903年ごろからミンダナオ島ダバオでは、アバカ農園の労働者として日本人が雇われ、居住を始めますが、第一次世界大戦の景気による余剰資本がダバオに流れ込むと、日本人社会は一気にふくれあがり、日本人の人口も1万人を超えたといわれています。第二次世界大戦までの約1世紀の間、アバカはサトウキビと並んでフィリピン諸島でもっとも重要な輸出用商品作物となりました。

しかし、大戦後は、アバカ農園の発展を支えた日本人は本国に強制送還され、また、化学繊維の出現によるマニラ麻の需要低下もあって、その後産業は急速に衰退しました。

 参考文献 "PINA" Lourdes R. Montinola,1991,Amon Foundation

      "HABI" Marian Pastor-Roces and Nikki .Costeng,1991,Communication Technolpgies
      『現代フィリピンを知るための60章』 大野拓司・寺田勇文編著 明石書店 
      『もっと知りたいフィリピン』 綾部恒雄・永積昭編 弘文堂 



ティナラク織り (チボリ族の伝統織物 ミンダナオ島)

ティナラクとは?

ティナラクには 夢 が織られています。チボリ族の女性たちが、鋭い眼力と両手を働かせて、寸法を判断し、彼女たちの記憶にある図案を織機に移します。

ティナラクは、真っ白なアバカ(マニラ麻)繊維からつくられ、繊維の端と端はできるだけ小さく結ばれ、赤や限りなく黒に近いこげ茶に草木で染められます。その図案は、母から娘へと受け継がれ、またアバカの精霊 Fu Dalu によって夢の中で織り手にさずけられます。その技術も静寂な魂の交感によってさずけられますが、これはすべての織り手にあてはまるわけではなく、すべての織り手の夢の中でおきることではありません。

ティナラクの製作過程は、飽き飽きするほど長いものです。まずアバカの皮をむき、やわらかくし、乾燥させ、繊維の太さを分類します。繊維は、端と端をほとんど見えないくらいに小さく結びます。この糸は織機にかけられ、ここで織り手である彼女の記憶の非常な正確さと精密さが必要となります。彼女は赤く染めるべき部分、黒く染めるべき部分を知っているので、デザインどおりに糸をしばります。白く残す部分を完全に防染するため、糸に十分にワックスしてしばりあげます。それから染色の準備がされ、糸が織り機からはずされ、染色用の大きな釜に浸されます。糸が再び織り機に戻されると、糸の色が模様を描き、織る準備が整います。そして織り上げられたのち、布はたたかれて、太い繊維が平たくされます。それから布は灰にさらされ、その後、光沢を出すために貝で磨かれます。

ティナラクは、織り手や彼らのが暮らす地域の共同体の環境が生み出すもので、外部の者がティボリの価値を評価するのは難しいことです。私たちは、その生産にかかる時間やどんな価値ある材料を使ったかで金銭的な価値をはかれるかもしれません。しかし、それは適当ではないでしょう。ティナラクは婚礼の結納品として使われました。一巻きのティナラクは、一頭の馬か2頭のカラバオ(水牛)と交換されました。一枚のティナラクは、神への捧げ物として、病神にとりつかれた人を回復させる力がありました。そして、質のよいティナラクを織りあげる才能は、その女性の地域共同体での価値を高めることにつながったのです。

ティナラクには 夢 が織られています。ティナラクは、織物に大きな価値を見出しながら織り続けている人たちの希望そのものです。そんな彼らから、芸術的価値のみを評価するという現代社会に送り出されているのです。しかし、その生産と品質を維持することができれば、ティナラクは、ティボリ族の文化の変遷を語り、古い伝統の継承に寄与し続けることでしょう。

  Ma.Elena Paterno  
(フィリピン国立博物館 展示解説の訳)

              


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