About us / パクパク・ナティンについて


1990年代にマニラに暮らし、現地でピナトゥボ火山噴火(1991年)の被災者救援のボランティア活動(ピナトゥボ救援の会=緊急援助)に取り組んだメンバーが、帰国後、日本国内からフィリピンNGOの活動を支援することを目的に2000年2月に活動をスタートしました。

              寄付ではなくフェアトレードを
ピナトゥボ災害は1990年代半ばすぎには、寄付中心の緊急援助から生計自立援助期に入り、現地で市民レベルでの支援の難しさを実感しました。
日本からの支援にあたっては、「あげる人・もらう人」という一方的な関係ではなく、対等な関係でつながりあいたいと、フィリピンのNGOの収入生計向上のためのプロジェクトで作られる商品を買うことで彼らを支えるフェアトレードを始めました。

           フィリピンを知り、学びあう開発教育活動
また、日本ではフィリピンについてあまり知られていない

ことを痛感し、衣食住をはじめとした身近なフィリピン文化や日比の歴史について伝え、バナナなどの商品から南北問題を知り・学びあう、「開発教育」も活動の柱にしています。

              顔と顔の見えるつながりを大切に
コアメンバー4人は東京、埼玉、千葉に住んでおり、フィリピンの小規模生産者やフェアトレードについて理解を深めてもらう活動を地域密着型でおこなっています。

*パクパク・ナティン事務局  Tel/Fax 0476-48-5448 遠藤康子
  pakpak2000@hotmail.com 〒270-1356 千葉県印西市小倉台3-1-12-302

  東京地区/ 佐藤育代・安部理恵  千葉地区/ 遠藤康子
  埼玉地区/ 寺本聖子


  ★ピナトゥボ災害を日本に伝えるために活動を本にまとめました★

マニラ発 妻たちのピナトゥボ応援団 −手さぐりの救援ボランティア』
佐藤育代・遠藤康子著 明石書店 1999年

朝日新聞 論説委員室から『窓』 「ピナトゥボの妻」 1999年4月24日
夫の赴任にあわせフィリピンで5年間を過ごした佐藤育代さんは帰国後、強い喪失感、疎外感にとらわれたという/マニラでは、3人の子どもや義父の世話をする傍ら、「ピナトゥボ救援の会」の会長として走り回った/8年前、今世紀最大級の噴火で多くの被害を出した山の周辺は、その後も雨期のたびに、火山灰が荒れ狂う泥流となって下流の町村を襲っている。/日本人駐在員の妻らが噴火直後にこの会を結成し、ふもとに住む少数民族アエタら、被災者を息長く支援してきた。/だが、帰国してしまえば、ボランティア経験を生かすどころか、友人に滞在中の話をすることさえはばかられる気がした。消費財のあふれる日本はあまりの別世界。話しても分かってもらえないだろう、自分は変わったのに日本は昔のまま・・・・・・。/そんなもどかしさを、現地で一緒に活動した遠藤康子さんとともにワープロにぶつけて、600枚の活動記録にまとめた。/例えば、バナナの葉から紙をすく技術を被災女性らに伝え、便せん用に買い取るプロジェクト。子どもらへ給食、奨学金の援助。水牛の購入費を農民に融資する事業も軌道に乗せた。/実績が買われて、アジア開発銀行で事例研究の発表をし、マニラ首都圏の繁華街では写真展も開いた。/失敗談も含めて、手作りの活動ぶりが生き生きと描かれた記録は、編集者の目にとまり、「マニラ発 妻たちのピナトゥボ応援団」(明石書店)の題で出版された。/振り返ると、現地の人との交流の楽しさや、日本人と違う生き様に対する好奇心が行動の原動力になったという。「援助した」というよりむしろ、得るもののほうが多かったとも。/多くの主婦に引き継がれた会は来年、幕をおろす。<直>

                  
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