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幸を招く「ユークイ(世乞い)」五穀豊穣は海の彼方から
沖縄県西表島「節祭り」
土地に深く結びついた祭りは強い生命力を持った祭り
といえよう。祀られる対象をしっかり持っている。
沖縄県西表島租内の節祭りは、サトウキビをはじめとする農作物の豊作に感謝し、海の彼方から五穀を迎える一年を締めくくる重要な祭りである。「世乞い」
のユーとは、沖縄では幸とか豊かさを意味する。三日間の祭りのうち、その中心となる二日目に船二隻で船競漕(ハーリー)を行う。村の神女たちの新年の祈願
が終わると、波静かな前泊海岸で村人による芸能がくり広げられる。「尊農」の文字を旗がしらに櫂をふりかざした男性の力強い「櫂踊り」のあと、「ミクロ」
が子孫繁栄、五穀豊穣の神として子孫を伴って出現する。後には、黒い被衣(かずき)でフダチミと呼ばれる服装を先頭に紫の長い布で頭を巻いた女性たちの行
列が続く。村人の気勢が上がったところで紅白に別れたサバニ(船のこと)が、幸を追い込むかのように浜に向かって漕ぎ競う。 |
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来訪神マユンガナシ、古代の正月に祝福の神口
沖縄県石垣市川平「マユンガナシ」
マユンガナシは、豊作や幸をもたらす神として、豊かな自然の恵みに満ち溢れた琉球列島の最南端、八重山諸島の、古代の正月
ともいうべき農耕の季節の折り目に訪れる異装の神である。
神口(かんふつ)―神の言葉。蓑笠姿の二人一組で各家を訪れ、母屋に向かい杖をついたまま一時間近く神口を唱える。神口はまず田を誉め、麦、粟……と作
物の豊作を導き、新年を祝い、子孫牛馬の繁栄をことほぐ祝言が唱えられる。唱え終わると家人に招き入れられ感謝の接待を受ける。仮装者は人間の言葉を話す
ことは一説禁じられ、応答は咳払いで表現する。
女性の司祭者である司(つかさ)による神送りでは、村の神(ニライ大親)を村の発祥地の海岸から送る。
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南方的な仮面来訪神は、人々を新しい年や季節に導く
鹿児島県種子島「面踊り」
種子島を含んだ薩南諸島は、大和文化圏と琉球文化圏の狭間に位置し、北からの文化と南からの文化を次々に吸収して、独特の文化をつ
くりあげている。
本来、来訪神の行事は、南方的な古い習俗で、鹿児島県各地、特に薩南諸島、沖縄の八重山諸島からインドネシア、メラネシアへと広く分布する。
種子島の面踊りは、「願成就(がんじょうじゅ)」という収穫感謝祭の日、鎮守の神社に奉納する。この仮面の特徴は、紙製で簡単な素材で使用ずみのものは
その都度破り捨てられることである。能面や神楽面が木製の精巧なものでしばしば神格化されているのに比べてこれは際立った特色といえる。しかもそのほとん
どが没個性的で、これは仮面をつけた者の来訪神的な性格がうすれ、人間とやや同一視されるようになっていると理解される。いずれにしても、海の彼方、祖先
の国から仮面仮装してこの世に来訪し、豊作を予祝する神である。
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かん
田の神サア レンゲ畑の花の舞台に舞う
鹿児島県藺牟田 「田の神祭り」
雨上がりのレ
ンゲの田んぼにどっかりと据え付けられた田の神サア。その周りを男性器に似せたヘノコ棒を振りかざしながら舞う田の神サアの分身たち。
鹿児島県薩摩郡祁答院(けどういん)町藺牟田(いむた)の麓集落では、毎年四月、田の神の宿替えがおこなわれる。野にちなむ神々の信仰のほとんどが稲作
にまつわる田の神で、日本人の精神生活の基盤がどこにあったか如実に語っている。田の神サアは、新しく嫁をとった家の床の間に一年間預けられる。田の神サ
アは化粧直しがすむとアズキ入りの飴が入ったワラツト、焼酎の竹筒を集落の家数だけ背負わされ、青竹のカゴに、ヤマブキ、サクラ、ナノハナなど春の花に包
まれて出発する。
青年たちは、なべ墨を種油でといたヘドロを互いに顔になすり合い、紅をつけて田の神サアに変身していく。道行く人や出会う車の運転手もヘドロをつけら
れ、目を白黒させるもの、泣き出すものもいてでも、この日だけは無礼講。
田の神サアは、そんなことにかまわず、花カゴに揺られユラリ、ユラリと紫紅のレンゲが真っ盛りな田んぼの中を行く。春にふさわしい陽気な祭り。
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宇那利の白装束は、田に映す幻想の古代絵巻
熊本県一の宮町「御田植祭り」
春先に里に下って山の神は、田の神となり、田植えの
終わった水田を見て回り、収穫の終わった秋にまた山に帰って、山の神になるという。
世界一のカルデラの阿蘇、その外輪の一の宮町の阿蘇神社の御田植え祭りは土地の人に、「御田(おんだ)祭り」と呼ばれ、7月のうだるような暑さの中、一
面の青田を舞台に展開される。
「田植え」といっても、駕輿丁(かよちょう)と呼ぶ青年らにかつがれた御輿の屋根に向かって、宮司・氏子が稲の早苗を投げ上げるのである。苗が御輿の屋
根に多く乗った年は豊作だというのである。
御田植え祭りで珍しいのは、目だけを残して全身を白装束でかためた宇那利(うなり)―昼飯持ちで、神餮を運ぶ役目で若い女性に限られている。
駕輿丁は、御田植え式のとき田歌をうたう。この田歌は実に雅なもので、これを長々と述べて歌う。
「ウウナン ハハリリヒンヒンヒンノ(宇那利の)
サンハンハンハアサハンハハ
ケンヘンヘンヘン ヘンヘンヘンヲ(酒を)
ノンホ ホンホホンホンホホンホホンホホ
ムンフフンフ フフフニンヒヒハ(飲むには)…… |
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奥日向は神の国、狩の神を呼んで焼き畑耕作の豊穣感謝
宮崎県銀鏡「銀鏡神楽」
宮崎県と熊本県の堺に近い山岳地帯。夜の冷気の中で
くりひろげられる銀鏡神楽ははるか古代の山村に生きる人々の姿を想像させる。銀鏡(しろみ)という珍しい名称も高千穂のさらに山のかなたの神の国、奥日向
にふさわしい。
祭壇には、四頭の猪の頭が奉納される。このあたりはかつては焼畑耕作地帯で、焼畑の神はカクラサマといいカクラは狩倉で狩りをする山のことでもある。銀
鏡神楽は、古くは狩場を定めた「狩倉」の組織によって伝承されてきたといわれている。「ししとぎり」という曲では爺と婆が弓矢を手に、猪を探し出す様を狩
りの作法にもとずいたしぐさで演じる。ししとぎりとは、猪の足跡を見つけるという意味の狩人の言葉である。
山の神、田の神、狩りの神と次々と登場し、一夜に三十三番演じられる。それらすべてが神話と結びついていると同時に山村に生活する人々の豊穣祈願である |
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古事記に登場の祭神、生き神さまで幻夢に漂う
島根県美保関町「青柴垣神事」
出雲は古代神話のメッカである。青柴垣(あおふしがき)神事は、諸手船(もろたぶね)神事と等しく島根県美保関町、美
保神社の祭りで御船神事とも呼び、海に囲まれた日本にあってことさら重い意味をもつ船神事の一つである。
祭神の事代主命(ことしろぬしのみこと)が、国譲りを果たし、みずから青柴垣船に乗って水底に身を隠したという古事記の国譲り神話にもとづくものといわ
れる。 当日二隻の御船のまわりに榊や幟(のぼり)で青柴垣を設け、神職、頭屋などがそれに分乗し沖に出る。事代主命が身を隠した水底は一種の他界と考え
られ、沖へ出て頭屋が化粧をするのは再生を意味するであろうといわれている。この祭りで頭屋が、祭り当番という意味にとどまらず、事代主命に代わる生き神
として幻想的な雰囲気の神がかりの中で登場する。人間が生き神として存在するという意味では他に例がないほど珍しい。 |
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桃の節句に、流す形代に託した一年の邪気
鳥取県用瀬町用瀬「流し雛」
雛祭りは、元来中国から伝わったとされているが、日本では人形のかたちの形代に、けがれを託して厄払いをすることが行われ
ている。
用瀬(もちがせ)では、旧暦3月3日の雛祭りの夕方、千代川の川原におりた子供たちが桟俵に紙の雛人形を乗せ、菱餅や桃の花、柳の枝などをそえて川の清
流に流す。
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ショウド(精神人)は、ヒゲを剃らずして神に仕える
三重県熊野市二木島「頭屋祭り」
四囲を海に囲まれた日本では、古来霊魂が空洞に宿るという、そのひとつの船にまつわる神事がことさら重い意味をもっていた。
二木島(にぎじま)は三重県熊野市の漁村だが、江戸時代は隔絶した人外の別天地であったという。
ここの頭屋祭りはまん幕をはりめぐらしたせき船が競漕する船漕ぎ祭りである。湾を隔てた二つの岬に鎮座する室子、阿古志両社に渡御し、競漕しながら浜へ
戻る。
浜では赤い着物を着た老婆が手にザルとシャモジを持って船を招く。二木島は今は紀伊だが、昔は志摩と紀伊の境界で両方の神がここで出会ったという。
ショウドとは、頭屋のことで祭り当番のことだが、半年間は髪やヒゲを剃らず、ケガレをさけひたすら神に奉仕する。祭り当日、髪を刈りヒゲを剃り、ガズを
伴う。
ガズはショウドの娘、または親戚の少女で、昔は、ショウドの妻であったという。
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海の彼方の不老不死、常世の国へ補陀落渡海
和歌山県那智勝浦町「補陀落渡海」
フィリピン東方の太平洋を源とする黒潮は、日本列島のほぼ中央に位置する紀伊半島を洗い、その荒々しさ故に、あたりの海は「熊野灘」と呼
ばれている。その黒潮は、南方の異文化を運んだ。古代人は、浜に打ち上げられる見知らぬ国の植物の実や生活の断片に思いを馳せ、そして毎朝、恵みの太陽が
東の海の彼方から昇るのを拝み、熊野灘の彼方に不老不死の異郷=「常世(とこよ)」があると信じた。わずかな食糧を舟に積み込んだ那智の補陀落山寺の住職
たちや、肉親や血縁者のために生命を捨てる行(ぎょう)を行う渡海僧が、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」と称し、はるか彼方の海へと旅立っていった。の
ちに補陀落山寺の住職の水葬として16世紀頃まで続いたというが、限りなく波の打ち寄せる浜に立つと、果てしない熊野の海原の彼方に楽園があるかのような
錯覚に陥る。その渡海に使われた舟の板が、潮にもどされ補陀落山寺に保存されているが、微かに描かれたハスの花がにわかに時間を逆転させるに十分。
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「山は火の滝下り竜」人々の胸高鳴らせる火の神の仕業
和歌山県新宮市「御燈祭り」
熊野は、古代から神々の宿る神聖な土地として人々の信仰を集めてきた。狩猟採集生活を送っていた縄文時代の遺物は、この地の長い歴史を
語っているが、人間の生活に欠かせなかった火の神事はなかでもひときわ私を熊野にひきよせるものだ。和歌山県新宮市の「お燈祭」はその私の古代への想いに
十分答えてくれた。
フィリピン東方の太平洋を源とする黒潮は、日本列島のほぼ中央に位置する紀伊半島を洗い、その荒々しさ故に、あたりの海は「熊野灘」と呼ばれ
ている。その黒潮は、南方の異文化を運んだ。古代人は、浜に打ち上げられる見知らぬ国の植物の実や生活の断片に思いを馳せ、そして毎朝、恵みの太陽が東の
海の彼方から昇るのを拝み、熊野灘の彼方に不老不死の異郷=「常世(とこよ)」があると信じたのだ。わずかな食糧を舟に積み込んだ那智の補陀落山寺の住職
たちや、肉親や血縁者のために生命を捨てる行(ぎょう)を行う渡海僧が、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」と称し、はるか彼方の海へと旅立っていった。の
ちに補陀落山寺の住職の水葬として16世紀頃まで続いたというが、限りなく波の打ち寄せる浜に立つと、果てしない熊野の海原の彼方に楽園があるかのような
錯覚に陥る。その渡海に使われた舟の板が、潮にもどされ補陀落山寺に保存されているが、微かに描かれたハスの花がにわかに時間を逆転させるに十分だ。
熊野灘の背後には、スギ、ヒノキ、クスなどに覆われた熊野の神秘な山々がひかえている。海の彼方に常世を求めたように、熊野の山々は修験道という日本独
自の宗教を生み出した。修験道は日本古来の山岳信仰に仏教、道教、シャーマニズムや神道の影響の受け形づくられたといわれている。修験者は山林や山岳で修
行をし、神秘的で呪術的な能力をつけていったという。熊野の山々が霊山視され、人の死後、魂がまず赴くところであり、熊野に行けば亡き人に会えるという信
仰のメッカとして本宮大社、速玉大社、那智大社は、貴族、僧侶、武士から一般庶民まで多くが訪れた。その行列の姿から「蟻の熊野詣」と形容され、その往来
に使われた、険しく静かな熊野古道へ一歩足を踏み入れる。その神秘な空気にふれ踏み固まった古道を歩くと何百年かの間、行きついた魂やそれを求めて詣でた
人々の心が垣間見えたような気がした。
火は確かに生活に欠かせないものであったし、今もそうである。しかしそれ以上に生命に訴えるなにものかがあるのだろうか。熊野・新宮の男たちは、この
「お燈祭」で火の生命力を吸収するかのようにみえる。生産の神をはじめ様々な神々を迎えると同時に男が成人する前に1度は”登る”ものとされ、(祭の参加
者を登り子という)まわりの迫力に泣くのも忘れた1歳余の子も父親に背負われ登る。初めて参加する子供には、近所の人々や親戚からけがれがないとされる”
白い”トウフやカマボコが贈られ祝福される。
日が暮れる頃、白い装束、腹に荒縄を巻いた男たちは神倉山の540余段の急な石段を登り、御神体のゴトビキ岩という巨石の前に集まった。なかに興奮した
男が手にした松明を振り回したかと思えば、真っ暗闇の中、よくみればあちこちでこぜりあいが始まっている。冷え込んだ山の空気を追い散らすように男たちの
「ヒ トモセ!ヒ トモセ!」のかけ声の熱気が山を包んだ。やがて1900余の松明に火がつき、炎で山は赤く染まった。
すべての登り子が火を受けた頃、閉じられていた山門が開けられ今度は急な階段を我先にと駆け降りる。火の流れである。新宮の人々はこれを竜に例えて「山
は火の滝下り竜」と言うそうだ。山のふもとでは、女たちがこれを出迎え祭りは終わった。簡潔で時に暴力的な匂いすら漂わせる祭りだからこそ、新宮の人々の
胸を高鳴らせるのだろうか。それは、古代から大切にしてきた火の神の仕業だろう。
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寒い、けむい、眠い、徹夜で踊り狂い悪態をつくせいど
愛知県東栄町「花祭」
愛知県北設楽(したら)郡下の約二十カ所で、夕方から翌日まで徹夜で行う。愛知県でも奥三河という長野・静岡両県の県境に近い山深い地方
で、中世頃この山地に住み着いた修験道の呪術が山村の芸能と結びついたと考えられている神楽である。
夕方、司祭者であるミョウドを中心に水・天・地を祭る三つの行事を皮切りに豊富な芸能が繰り広げられる。中でも若者による「地固めの舞」、四、五歳の稚
児の「花の舞」に村中の人々の声援が集まる。それが終わる頃は真夜中を過ぎ、寒さも肌を突き刺すようになる。
花祭では、見物人のことを「せいど」と呼び、出てくる鬼と「テーホトヘ、トーホヘ」「トーホヘ、テーホヘ」と、一緒に踊り狂う。口々に舞人を声援した
り、また悪態もつく。悪態をつくことによって、悪魔が払われるという。この興奮が忘れられなく地方へ出ている若者も花祭にはこの山深い故郷へ帰ってくるの
である。
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夜宴に我を忘れて神と戯れ、目覚めて新たな生への活気
長野県坂部「冬祭り」
どこまで続くのかという不安に陥る闇の先に、いかにも神の好みそうな、こんもりとした杉の杜。その木立の中心から真冬の夜空にむけてかす
かな笛と太鼓の音が洩れる。
信濃、三河の山間、天竜川の流域一帯で行われている湯立神事の中で、信州坂部の冬祭りは最も古風を受け継いでいる。湯立てとは、釜に湯を沸かし神々を迎
え、その湯をふりかけることによって潔めをする。はじめは花の舞という四人の子供による舞いで、五色の紙の花を釜の中に入れるのでこの名があり、素朴さの
中に華やいだ空気に満たされる。神々に対する湯立ての繰り返しののち面をつけて夜明けまで舞いや狂言が演じられる。
この日は、酒の勢いで村人は祭りの歌や舞いを邪魔したり互いに悪口を言い合ったりするが、これが祭りをもりたて独特の雰囲気のなかで夜を明かしつつ、い
つしか神と戯れ、身をもって神を感じるのである。
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節分
埼玉・加須 |
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「つぶろ」のエロティシズムはしたたかな笑いと興奮
新潟県佐渡羽茂町「つぶろさし」
日本海の碧い海は、見るものをその純血さに同化させ
ようとするエネルギーを秘めている。日本海の海鳴りとたれ込める低い雲の下に浮かぶ文化の宝庫、佐渡島。順徳上皇や日蓮、世阿弥などの流人が残した貴族文
化、金山の盛衰に浮き沈みした役人たちの武家文化、、商人や船乗りたちの町人文化が交錯しながら、歴史と伝統芸能と民俗に満ち溢れている。
羽茂(はもち)は、徳川三百年間、相川金山の盛衰にもかかわりなく自給自足の純農村として過ごしてきた。羽茂の菅原神社と草刈神社の六月の例祭のよびも
のがつぶろさしで、つぶろとは、古代の種もの入れで、さしはさすりの転化だという。性、すなわち農作物の収穫を表現するもので、男性が一メートルもあるつ
ぶろを股に挟んで陰媚に舞い、これにささらすすりと銭太鼓の二人の女装の踊り手が性的でグロテスクな踊りをする。古代の種付け祭の名残ともいい、豊年祈願
の農民文化でもある。 |
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王祇祭
り
山形・黒
川

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農民の生活が伝える幽玄と笑いの世界、凍る雪空に舞う
山形県櫛引町黒川「黒川能」
「祭りは、辺りから観るものですよ」。思わず踏み込
んだ見物客への注意の「辺り」という言い回しが、狂言の名乗り(自己紹介)の「このあたりのものでござる」を思い起こさせる。能・狂言が生活にとけ込んで
いる。
山形県東田川郡櫛引町黒川地区に四百年以上、農民の手によって生活の中で伝えられている黒川能がある。黒川は、鶴岡市の東南約八キロ、庄内平野の西に位
置する。冬は風が強く、日本海から吹きつける季節風が、月山山麓にぶつかり吹雪の吹き溜まりとなる。
月おくれの正月の二月一日、そんな黒川でもっとも大事な王祇祭が始まる。午前三時、凍った雪道を黒い人影が今年の当屋の家に向かう。王祇様というご神体
を黒川の春日神社から迎える王祇下ろしの準備である。王祇は「扇」で、王は権威、祇は神霊を意味し、王祇の字を当てたのは羽黒山修験道の影響といわれる。
頭に紙の房がつけられた三メートルほどの棒三本が一組で、白い麻の布が張られると、それが扇の地紙となり、全体として大きな扇となる。
未明の6時過ぎ、春日神社の本殿で王祇様を受けた王祇守・提灯持ちと共に少年たちの行列が雪道を上下二カ所の当屋へ下る。それぞれの当屋に王祇様が迎え
入られると、裃に正装した氏子たちが集まり、王祇様の前で座狩り(出欠の確認)、当乞い(来年の当屋の確認)の儀式があり、氏子をはじめ村人の酒宴がひら
かれる。
そして日没のころ、待ちに待った能が演じられる。開いた王祇様の前で、四、五歳の男の子によって、力いっぱい舞台を踏み大地に潜む地の神を呼びおこすと
いう「大地踏」から始まる。元気のいい足踏みと難しいセリフに感嘆のため息と拍手がまき起こる。頬を紅潮させたこの舞台の演者におひねりも出て、白い吹雪
に包まれた当屋の家も活気づきはじめる。神聖な「翁」に続いて能五番、狂言四番が翌朝まで延々演じられる。
黒川能は、上座と下座の二つの座によって同じ時刻に二つの当屋と呼ばれる民家の神宿で演じられる。能座は、能太夫を中心にシテ方、ワキ方、囃子方、狂言
方が一体になっていて能太夫は世襲である。演目も両座にわかれていて、二つの能座が競い合いながら黒川能を伝え、祭りをもりたててきたといえる。黒川能
は、王祇祭のなかで演じられるが、王祇祭は能の歴史より古いといわれている。とくに「大地踏」の稚児舞と古風な「所仏則(ところぶそく)の扇」は、鎌倉、
室町時代に発達したといわれる「延年」の流れを汲むものとされている。黒川能は、現在の能、狂言と同系であるが、それにこだわらない独自の古い様式をもっ
ており、中央ではすでに滅びてしまった大曲も数多く残している。農民が守る独自の古典芸能である黒川能は、昭和五十一年五月に国の重要無形民俗文化財に指
定されている。
二日の明け方、上座、下座それぞれ夜を徹しての能が終わると、王祇様を春日神社に帰す「宮登り」がある。
狭く、凍った神社の石段を先を争ってのぼる「朝尋常(あさじんじょう)」から上座・下座の勝負の神事となる。午前十時、提灯に囲まれた拝殿の舞台で当屋で
演じられた脇能二番がそれぞれ再演される。両座立ち会いの「大地踏」に続き、「所仏則の翁舞い」を演じたあと、「棚上り尋常」「餅切り」「花取り」「布剥
ぎ」の勝負事が続く。
「棚上り尋常」は、王祇様を舞台の上に吊るされた棚によじのぼって梁におさめる。早く棚に上り、早く王祇様をおさめた方が勝ちで、代表の若者も観衆も熱
気に包まれる。酒宴と神前の花を配る神事のあとの「餅切り」は、ふたたび両座競争で梁の上の王祇様を下に下ろすや、棚の上の梁に吊ってあった一斗餅にとび
ついて縄を切って落とすのである。縄は丈夫で切れにくく、今年の上座の餅は二人がかりでようやく落とされ、かたずをのんで見守っていた観衆からも「めずら
しいことだ」とため息がもれた。王祇様は宮司によって白布がはぎとられ、来年の王祇守の首に巻つけられる。裸になった王祇様は、本殿の奥深くおさめられ祭
りが終わる。
村人たちは、短い冬の日が暮れかかった雪道を帰路につく。来年の王祇祭にむかって黒川の一年の生活が始まる。 |
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アッカは、アイヌ「ワッカ」(清流)の響き
岩手県下閉伊郡岩泉町安家「牛市」
安家(あっか)という地名は、アイヌの言葉のワッカ(清流の意)から転じたといわれる。
三月に生まれた仔牛を半年余り手塩にかけて育てて売るという牛飼い農家にとっては、文字どおり一年の仕事の締めくくりになる行事。山の中に点在して、ひっ
そりと暮らしている人々にとって牛市は、年に一度の最大のお祭り。 |

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