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夏期特別講座・第8回1982年(昭和57)7、29〜30(山梨文化会館) 会報第57号所収
ルソー、ユゴーから鴎外へ「仏ロマン主義運動と日本文学」   中込 純次(仏文学者)

19世紀フランスの文学運動にふたつの大きな流れがある。それは1830年のロマン主義と1860年の自然主義運動である。ロマン主義運動は単なる文学運動ではなく、その時代の社会制度の動きや人々の生活を基本にしている。これはイギリス、ドイツを経てフランスに入ってきたのだが、本当にジャン・ジャック・ルソーの著作がイギリスに渡り、ドイツに入り、逆輸入という形でフランスへ入り、ロマン主義運動となった。
絵や思想にも影響
フランスロマン主義運動とは個人主義傾向にある。その結果、叙情的なものが生まれてきた。この個人主義、叙情主義、ロマン主義の3つが相関関係をなしている。個人主義とは、それまでの理性中心主義から自我を意識して解放した形をいう。つまり、今まで縛ってきたもの、意識を固定してきたものの打破をいう。それは文学ばかりでなく、絵画、思想にも影響を与えた。
その最も中心的な人物がビクトル・ユゴー(小説「レ・ミゼラブル」を書いた)である。ユゴーが書いた戯曲「クロムウェル」の序文で、ロマン主義宣言をした。それは、自然の法則以外に規制もないし、モデルもない、自由である、という主張だ。フランスロマン主義は想像と感受性が重んじられて、古典派作家の理性中心の思想と相反する。
ロマン主義の意味はいろいろあるが、最初にロマンチックという言葉を使ったのはルフランという人で、後にルソーも使っている。またスタンダールもその著作の中で書いている。つまり古典主義が理性的、知性的であるのに対してロマン主義は宗教的で、感性本位のものだ。
ドイツ、イギリスのロマン主義運動は、両国の国民精神への復帰が根底にあるが、フランスのロマン主義は自分の国の国民文学への反動として起きている。ロマン主義の浸透によって、同時に自然愛が盛んになってきた。庭園(ヴェルサイユ宮殿の庭園など)も、とても整ってきた。民衆も早く自然の中に入って、めい想したり、月の光を喜んだりした。また沼や廃虚
のような所を喜ぶようになった。ムードン、フォンテーヌブローの森なんかへ出向いて行ったり、恋人たちも愛をささやいた。
そして山へのあこがれも出てくる。スイス人のアレルが「アルプス山脈」という詩を書いた。するとそれがフランスにも入り、そういう所を訪ねるようになってきた。人々は自然の美の中に陶酔していった。絵画もそうで、ワットーの「シテール島への船出」という絵にもロマン主義が表れている。
ルソーは書簡体の小説を書いているが、こういった書簡体に影響されてゲーテは「若きウェルテルの悩み」を書いた。この結果、自殺者が続出するほど、人々の生活に影響を与えている。フランスのロマン主義運動はイギリス、ドイツの影響をはるかに超えて、個性の力を与え仏文学者を新しい方向に導いたのが、ジャン・ジャック・ルソーという人なのだ。
ルソーは「社会契約説」において「人間は生まれながらにして自由である」と、人間の自由と平等を主張した。個人主義は利己主義とは違い、自己中心に自己を掘り下げるものとした。常に社会に反抗して自我を守った1762年に「エミール」という教育書を書き、その中で「制裁というものは絶対に子供に加えてはいけない」と言っている。
自由人とは分母
さらに自由人と社会人とを論じ「社会人とは分子であり、分母で割られたものをいう。自由人とは分母であって、割られていないし、数でいえば最初のものになるものを指す」と書いた。
ルソーの考え方は、文学ではサン・ピエール(「ポールとヴィルジニー」の作者)に、思想ではロベスピエールに継承されていく。ただフランス大革命時代にはルソーのイデオロギーのみが生かされて、文学の面ではあまり生かされなかった。
さて1850年には、いわゆる古典派は影をひそめてしまう。が、一方でロマン主義もユゴーのみを残して作家が少なくなってくる。個性を重んじた文学は大衆に飽きられ、その代わりに自然主義が起こってくる。文学のイマジネーションを重んじたのがロマン主義で、自然主義とはリアリズムを重んじたものをいう。もちろんロマン主義にもリアリズムは入っているが…。
この両主義の違いは、日本でいえば近松門左衛門のロマン主義、井原西鶴の自然主義という言い方で比べられると思う。
ロマン主義とは、その作品の中に人間のすべてが凝縮されて表現されていることで、その意味ではシェークスピアの「ハムレット」も早くフランスに入り、その主人公ハムレットは、すべての人間の表現とされる。
日本に入ったロマン主義は1882年(明治15年)に「新体詩抄」で初めて紹介され、1889年(明治22年)に落合直文、森鴎外ら五人による訳詩集「於母影」で、バイロン、ゲーテ、ハイネなどの詩集が紹介された。森鴎外はこの後、「舞姫」「うたかたの記」「文づかい」の三部作を書いた。
鴎外のこれら三部作は文章にリズムがあってとてもきれいだ。もうひとつはエキゾチズムがある。文学における美文は今はすたれてしまったが、当時の美文・雅文は日本のロマン主義を助けている。この三作品は日本ロマン主義運動を色濃く出ている作品である。
このあと自然主義文学が登場してくる。坪内逍遥の「小説神髄」が出て、これが自然主義文学のもとになったと言われている。山梨県出身の前田晁 も自然主義運動に加わってくる。二葉亭四迷も自然主義文学の中心人物である。山梨県人といえば、前田晁の後輩として中村星湖が出て明治40年に「少年行」を書いている。その前年に島崎藤村が自然主義文学の代表作といわれる「破戒」を書いている。
鴎外が日本の根幹
こうしてみると、明治中期に「しがらみ草紙」などの雑誌を出しており、いくつかのロマン主義作品を発表した森鴎外が、日本ロマン主義運動の根幹であった、といえよう。なおルソーの「告白録」は日本では大正元年に初めて和訳された。これは日本の大正初期の文学にかなりの影響を与えたのではないかと思われる。