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 第30回山人会会員セミナー
日時 平成29124日(月)午後4 場所 ブティック社2階会議室(東京都千代田区平河町
 沖縄での通貨交換540億円の大輸送]    講師;堀内好訓氏
 講師プロフィール

 陸軍幼年学校から一橋大学卒。昭和28年日本銀行に入り、沖縄支店次長・小樽支店長などを歴任。
  俳人;俳名は蘇龍。

 [レジュメ]         

1.はじめに 
 復帰準備委員会「世界が見ている」。国威?

2.概要
  本土復帰・・・‥昭471972515午前零時、汽笛一斉
  通貨交換‥‥51520日、全島190交換所(うち母店20
  本店一那覇への輸送現金
540億円 
   流通通貨推定
1億米ドル、回収米ドル103億ドル
    交換レートは上記期間中
1ドル305
   (沖縄住民に対しては個人の保有現金・金融資産につき
1ドル360円を後日補償)

3.関係機関
1)日本銀行
  総務部、事務管理部、発券局、文書局、那覇支店開設準備室(46415設置)
    等挙行体制(佐々木直総裁)、
5 15那覇支店開設(支店長一次長一営業、発券、
    国庫、文書各課長一事務職員(男・女卜庶務職員(男・女)

2)外部
    大蔵省(理財局、銀行局)、外務省(日米復帰準備委員会)、沖縄・北方対策庁、警察庁、
    運輸省、防衛庁、米軍

4.通貨交換に纏わる課題
    交換レート(ニクソンショックと現地の動揺)、交換時期(復帰前実施の要望)、現送量、
    手段(対自衛隊感情)、安全    対  策、インフレ、デフレの予防対策

5.新木文雄支店長方針の卓越
 
 100%沖縄を向いて対処せよ

6.沖縄の今後
   米軍基地、市民感情、沖縄慰霊の日、外

 
 

沖縄での通貨交換540億円の大輸送](「にちぎん」No.1 2005年春号から)

かつて沖縄は、"異国"だつた。太平洋戦争ののちにアメリカ領土に組み込まれ、昭和四十七年に返還されるまで、そこに日本人が暮らしながらも日本]ではなかつた。復帰に際しては、いくつもの困難があつた。中でも注目を集めた大事業が、それまで使用されていた米ドルから円への通貨交換だつた。

                      取材・文河村清明

 

昭和四十七年五月二日、港を望む高台から、夜の明けかけた東シナ海へと、不動の視線を送る男がいた。
 眼前の風景はまだぼんやりと暗かつた。目をこらして待ち続けると、やがて、マッチ箱に似た黒い艦影が二つ、オレンジがかつた空と群青の海とを隔てる水平線の手前に、ポッリと浮かび上がつた。
“来たつ! 無事に着いたぞ。
 胸の高鳴りは抑えきれなかつた。同時に、それまでに経験のないほど、身の引き締まる思いがした。 すぐに港へ急いだ。商港ではなく米軍港が選ばれたのは、警備上の都合からだつた。スクラムを組んで仕事に取り組んできた仲間たちも、男と同じ思いを抱えていたのか、事前に取り決めた配置へと、早くも数人が姿を見せていた。
 待ち望んだ輸送艦は、午前六時四十五分に着岸した。海上自衛隊の所有する「しれとこ」「おおすみ」の二隻だつた。付近には多くの関係者とマスコミが集まっていた。総額で五四〇億円、コンテナにして一六一個分の現金を、両艦が懐深く抱き込んでいたからだ。
 現金の積み出しは八時過ぎに始まった。トラック五台で梯団を組み、日本銀行那覇支店までの約一キロをノンストップで駆け抜けた。要所の交差点には警官が立ち、上空では米軍ヘリが旋回を続けた。厳重な警戒は、それだけこの現金輸送への世間の関心が高く、またわが国の戦後史に、一つの区切りを付ける大事業であることを物語つていた。
 ピストン輸送を続けても、港からの積み出しには丸二日を要した。大部分は日本銀行那覇支店の金庫に納まり、一部は宮古・八重山へと運ばれ五月十五日を待つた。その五月十五日、いよいよ沖縄が日本の領土に復帰する。と同時に、ドルから円への通貨交換も始まる。まさに歴史的な一日を直後に控えて、携わる者のすべてが心の高揚を抑えきれなかつた。
 男は那覇支店の次長、名を堀内好訓といつた。支店長の新木文雄、さらには五十余人の行員と共に、ここまで準備に準備を重ねてきた。
“さあ、これからが本番だ。
 現金の移送を無事終えると、待ちわびた芝居のカーテンの上がる思いがした。沖縄全島を対象に、それまで流通していたすべてのドルを、六日間で円に換えなければならない。不安は住民だけでなく、日本銀行にもあつた。トラブル無く終了できるかどうかは、その時点では、まだ誰にもわからなかつた。
沖縄がかってアメリカの占領下にあつたと聞いて、最近の若者は首をかしげるかもしれない。独自の文化を持つ琉球王国であつたとは聞いたことがある。また米軍基地が多いとも知つている。でも、本当に沖縄はアメリカだつたのか……そんな思いをぬぐいきれないのではないか。
 太平洋戦争の終盤、沖縄では日米の軍隊が激しい戦いを繰り広げ「た。双方で二二万人以上の死者が出た。
 日本は昭和二十年八月十五日に全面降伏した。その後、二十七年にアメリカの占領は終了したが、沖縄だけは返還されなかつた。第二次世界大戦後の冷戦体制において、沖縄は重要な戦略拠点だつた。そのためアメリカも簡単に手放せなかつたのだ。
 沖縄が異国だつたと伝えるこんなエピソードがある。
 昭和三十三年、夏の甲子園に首里高校が出場した。初の沖縄代表だつた。残念にも一回戦で敗退したが、せめてもの思い出にと、選手たちはグラウンドの土をカバンに入れて、帰りの飛行機に乗つた。だが、到着した空港の検疫で、持ち込みは許可されなかつた。あくまでも「外国の土」と判断されたからだ。球児にとつてせつかくの思い出が、こうして海に捨てられた事実からも、日本における“異国″だつた沖縄の、ひどく淋しい現実は浮かび上がつてくる。
 自分たちはいつたいどちらの国民なのか。中途半端な居心地の悪「さは沖縄の住民から離れることが「なかつた。本土に復帰して、日本「人として生活したい。そんなごく自然な願いがかなつたのは、よう「やくの昭和四十四年十一月だつた。佐藤・ニクソン両首脳による「共同声明にて、沖縄の本土復帰が正式発表されたのだ。 
歓迎すべき決定ではあつたが、不安も大きかつた。日本への復帰は、こまかなことでいえば車の通行が右側から左側へ変わることを意味した。また戦後のこれまで生活の大部分で使用してきたドルが円に換わることでもあつた。いつたいレートはどうなるのか、どういつた手段で交換されるのかさらにインフレは生じないのか考えれば考えるほど、住民は不安を抑えきれなかつた。
 
実はそれまでに二度、日本は通貨交換を経験している。一度は昭和二十八年に奄美大島で、さらに昭和四十三年には小笠原諸島にて行われたが、あたりまえのこと沖縄全島が対象となると規模が違つた。
担当する日本銀行も準備に万全を期した。那覇支店は本土復帰の当日に開店したが、その開設準備室は一年前の四月十五日に産声を上げている。初代支店長となつた新木、次長の堀内、以下四名に辞令が下つた。彼らの任務が重要であるのは明白だつた。行内では「誰が沖縄に行くのか」と噂されるほどの関心事でもあつた。膨大な量の通貨交換は、昭和四十七年五月十五日、本土復帰の当日に始まった。
前日、付近を激しい雨が襲つた。そのため全島一九〇カ所に設けられた交換所のうち、一カ所にだけは事前に通貨を届けられなかつたが、本番を迎える前の態勢としてはまずまずの準備といえた。洗い流してくれているのか。
 日付の替わつた午前零時、沖縄港に停泊中の船舶が一斉に汽笛を鳴らした。それはまさに沖縄県黎明の響きだつた。と同時に、通貨交換作業の開始をも告げるものだつた。
 早朝、堀内は新木と共にアメリカの空軍基地に向かつた。基地返還のセレモニーがあり、その立ち会いに呼ばれていたからだ。
 勝負の朝を迎え、道すがら、堀内はあらためて新木との付き合いを思い起こした。

 那覇支店の前にも、同じ職場で世話になつたことがあつた。各方面へのバランスを取りつつも、肝つ玉が据わり、時に鋭い決断力を見せる上司だつた。将たる器はそれなりにいても、数少ない「将の将たる器」の一人。堀内にはそう感じられてならなかつた。酒に強乱れることなく飲み続けたがそれでも支店設立の準備が始まってからは互いに忙しく、一緒に飲む機会をあまり持てなかつた。
 通貨交換を迎えるまでに、共に頭を悩ませた課題も多かつた。

 まず、沖縄の通貨流通量を全体でいくらと推定するか。それが難題だつた。通貨統計が存在しなかつたため正確な数字はなく、さまざまな想定を重ねて約一億ドルと見積もつた。当時のレート一ドル=三六〇円、交換に三六〇億円が必要と考えたのだ。ただ、これはあくまで交換の総額であり、実際にはさらなる余裕が必要だつた。どの場所でどの程度の円が必要になるかが誰にもわからないためだ。倍を用意しては無駄が出てしまう。そこで五〇%の余裕を見た。そうして必要総額は五四〇億円に設定された。
 また、輸送手段の選定にも苦労が多かつた。安全性や積載能力、さらにはコストを考慮する必要があつた。さらに、広範な地域に散在する島々にどういう方法で現金を輸送するかも大きな問題であつた。関係先による慎重な検討がなされ、いくつかの方法のうち、最終的に沖縄へは、自衛艦を使用しての海路が選択された。支店長の新木は、自衛艦の使用に対する現地の心情を知りすぎていただけに、復帰直前まで現地の根回しに奔走した。
 その新木が、沖縄での仕事に際して、何度も繰り返した言葉がある。
「(日銀の)本店を見るな。一〇〇%沖縄を向いて仕事をせよ」
 つまりは地域や住民の利益を最優先に進めろと注意を促したのだ。リーダーシップにあふれるその一言は、堀内の、そして支店全体の支えとなつた。いよいよ始まる大作業を前に、堀内はもう一度その言葉を思い出した。
 基地でのセレモニーが終わると、すぐに支店に向かつた。八時に新木より那覇支店勤務の辞令を受け取つた。
 そして午前九時、日本銀行那覇支店は正式に産声を上げた。同時に、一八九の交換所でも一斉に通貨交換が始まった。
 回収されたドルと交換されずに残つた円は、各交換所から母店と呼ばれる市中銀行に持ち込まれ、一旦整理される。この後に母店では、各交換所が翌日必要とする円 の準備作業を行わなければならな い。各所で一連の作業が終わるのは、たいてい空が白み始める頃だつた。一方、通貨交換本部となつた日本銀行那覇支店でも、母店から刻々と入る通貨交換高の集計処理を徹夜で行うとともに、ドルの引き揚げ作業、円の追加輸送を実施した。息つく暇もない作業は、二十日まで六日間にわたつて続いた。
 幸いにも大きな混乱はなかつた。運ぶ途中の現金にトラブルは生じなかつたし、不眠不休の状態だつた職員に体調を崩す者は見られなかつた。
 交換されたドルは五月三十一日、自衛艦「しれとこ」に積み込まれて沖縄軍港を出発した。その後はサンフランシスコ連銀へ引き渡される予定になつていた。
 そのとき、新木をはじめ、かかわつた職員たちを喜ばせる事実があつた。
 交換の総額が、なんと約一億三〇〇万ドルだつたのだ。事前に立てた一億ドルとの予測と、ほとんど変わることがなかつた。「おこがましいですが、あの推定は神ワザと言つていいかもしれませんね」
 今、堀内は、感慨を込めてそう振り返る。

支店長の新木と沖縄との間には、実は因縁めいたつながりがあつた。
 太平洋戦争の末期、まだ二〇歳を過ぎたばかりの頃、新木は鹿児島県鹿屋の特攻基地にいた「電探士官」が職名であり、電波探知機を担当し、米軍と戦つていた。
 沖縄からの一本の打電を、たまたま新木が傍受した。それは、那覇市郊外の海軍壕にて約四〇〇〇の将兵が最期を遂げる際、司令官・大田實の発したメッセージだつた。

〈……沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民二対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ラン コトヲ〉

 そんな一節で結ばれていた。
 堀内が言う。「初代支店長になつて、新木さんは大変な因縁をお感じになつたと思う『沖縄を向いて仕事をせよ』との教えは、もしかしたらあの打電を傍受したときより体に染みついていたのかもしれません」
 そう、通貨交換という」大事業を通して、新木は新木なりのやり方で「特別の高配」を沖縄にもたらしてみせたのだ。
 那覇支店を去つたのち、開店何周年といつた記念の催しに呼ば、新木も堀内も現地を幾度か懐かしく訪ねている。
場所も建物も那覇支店は当時のままだ。ただ周辺の街並みは大きく変わつた。県民にも日銀の職員にも、当時の慌ただしい作業を詳しく知る人がいるはずもなく、自分たちの苦労は、すでに過ぎた日の思い出なのかもしれないと感慨それでも、あの当時の仕事が自分の中で確かな礎になつてくれたのもまた確かだと、忙しかつた日々に感謝を忘れることはない。

 平成四年、支店開設二〇周年の記念式典を迎えた直後の夏、新木は心筋梗塞で倒れ、帰らぬ人となつた。その面影をしのび、共に苦労した昭和四十七年の前後を思い出すとき、堀内の鼻の奥は、さからいようもなく少しツンとしてしまう 。