トップページ 山人会体制 山人会紹介 山人会四賞 今年の催し 山人会報 文化活動
 第31回山人会会員セミナー
日時 平成31128日(月)午後230分 場所 日本記者クラブ会議室(東京都
   講師;中津攸子氏
 
 講師プロフィール
台東区浅草生まれ。東京学芸大学卒業。元国府台女子学院教諭。

日本ペンクラブ会員、日本文芸家協会会員、俳人協会会員、大衆文学研究会会員、国際女性教育振興会会員、全国歴史研究会会員
これまでに市川市民芸術文化賞、市川市民文化賞奨励賞、中村星湖文学賞、北上市文化振興感謝状、市川市・文化・スポーツ功労感謝状、市川市政功労賞等受賞
NHK文化センター講師
句集『風の道』、文芸総合投稿誌『新樹』主宰
著書
「真北は国のまほろば日高見国の面影」(時事通信社)「京成沿線歴史散歩」(エピック社)「風の道」(角川書店)「和泉式部秘話」(講談社出版)「蒙古襲来と東北」(龍書房)「戦国武田の女たち」「小説松尾芭蕉」「かぐや姫と古代史の謎」「真間の手児奈」(新人物往来社)「吉良上野介の覚悟」(文芸社)「怨霊患臣蔵」「怨霊蒙古襲来」(ぶんりき文庫)「風林火山の女たち一信玄をとりまく二十四人」(歴研ブックス)「葛飾を歩く」(NTT出版)他多数
 [レジュメ]
 
武田信虎の生涯 甲斐統一と追放後の動き

一、武田家系図
信昌14代)―信縄(15代)―信虎(16代)―信玄(17代)―勝頼(18代)
武田信虎の兄弟姉妹
・信友・僧吸江・小山田信有の妻・油川信恵の妻・桜井信定の妻
子女
・竹松・晴信(信玄)・犬千代松・信繁・信基・信廉・信是・僧宗智・信竜・信実
・今川義元の妻・穴山信友の妻・諏妨頼重の妻・浦野某の妻・大井信家の妻・下条某の妻・根津某の妻・葛山信賢の妻・菊亭晴秀の妻 

二、信虎の相続
祖父信昌と、父信縄の不和
 信正・信恵派・・・今川氏親(駿河)・北条早雲(小田原)
 信縄派・・・・・・足利政知(伊豆)
永正2年(1505)信昌死.59
永正4年(1507)信縄死 37才くらい・・信虎 14歳 甲斐守護職相続
永正5年(1508)叔父、信恵と戦い撃破 子の孫九郎 珍宝丸戦死
永正6年(1509)信虎郡内に侵攻 工藤氏小山田氏攻める 武田家宗家の統一 

 三、信虎の結婚
永正12年(1515)大井信達今川氏と組み背く 今川氏侵攻 信虎、小山田信有と大井館包囲、深田で失敗
永正13年(1516)万力で今川、大井勢と合戦、信虎恵林寺に逃げ込む
永正14年(1517)小山田信有、今川方の吉田城落とす、今川方、郡内衆と和睦
         今川軍、甲斐を去る。今川氏親の支援を無くした大井信達、
       信虎に従属 大井氏息女
21才 信虎24才、  

 四、甲府開設と甲斐統一
永正15年(1518)信虎、川田館(石和)で甲府に躑躅ケ崎館の建設始める
         l月〜4月今井信是叛乱し、降伏。
永正16年(15191220日 甲府移住 城下町を整備し有力家臣を集住さす
         栗原信重、今井信是、大井信達、甲府から去る
永正17年(1520)栗原信友、今井信長、大井真達の連合軍降伏、駿河へ退散
         丸山に山城の普請始む 栗原勢、今井、大井連合軍破る

 [要 旨]
真田信玄と勝頼の発展の基礎は信虎が準備したもので、信虎の甲斐統一無くして信玄の躍進はなかった。
新羅三郎義光から14代の信昌、15代の信縄、16代の信虎の時代は武田宗家の争いが続いていた。14歳で宗家を相続した信虎は叔父の信恵を滅ぼして武田宗家を統一し、今川氏と結ぶ大井信達と戦い、今川氏の兵を国外に追い、大井氏と和睦してその息女を妻に迎え、さらに信虎は甲府に躑躅が崎館を建立して石和から移り、石水山に山城を建立した。
 当時、国人の叛乱と今川勢の侵入が続き、大井夫人は敵兵の雄たけびの聞こえる山城で信玄を生んだ。長男誕生を喜んだ信虎はついに甲斐を統一し、富士に登って山頂にあつた大日寺に参拝した後、北条攻めの為初めて国外に出兵した。
 が、守護の小笠原氏に統率力がなく平野の多い信濃の侵略へと信虎は方向転換した。
 今川氏綱が死ぬと幼い氏輝は信虎の和睦の申し出に応じたので駿河への配慮が要らなくなつたことを喜び、信虎は国内に今川氏との和睦成立を走り馬で知らせている。
 後に今川氏の相続争いで信虎は義元を支援し、家督を継いだ義元の斡旋で公家三条公頼の娘を信玄の正室に迎えた。この後、信虎が佐久を攻めると、その威力の前に戦わずして一日に30の城が落ちたその攻略の帰り信虎は諏訪頼重に嫁がせた祢々に諏訪で会ったので、甲府に帰るや今川義元に嫁がせた娘にも逢おうと密かに駿河に向かった。と、21歳の信玄は国境に足軽を送って交通を遮断し、52歳の信虎を追放し、自ら守護職を相続した。そして今川氏には信虎の生活費や女中衆を送った。
 甲斐を追われた信虎はやがて京にも邸を構え、京の要人に会ったり、高野山や奈良をめぐって駿河に帰るといった生活をしていた。

 永禄3年(1560)織田信長に襲撃され桶狭間で今川義元が逝くと、信虎は今川氏の様子を信玄に報せたこと等が発覚して今川氏真に追放され京で暮らした。この今川家の関りで永禄10年(1567)義信が自害したことは武田家にとつて惜しまれることであつた。
 天正元年(1573)武田信玄は天下を取るかと思わせる勢いで勝ち戦さを続けていながら軍を引き駒場で逝った。信虎はすぐに甲府へ帰りたいと申し出たが勝頼は許さず、甲斐領である高遠に入ることを許し、勝頼が甲府へ移った後の高遠城主になつた3男信廉や旧臣馬場春信、山県昌景らと会い、ほつとしたのかその年の内に81歳で逝った。
 信虎は死んで初めて懐かしい故郷甲府に帰り大泉寺に葬られた。信虎が逝った翌年、長篠の戦いで武田軍が大敗したが武田家の陰りを知らずに逝けたことは信虎の幸いであつた。