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1920年(大正9)11月、文芸愛好者の大木直太郎、上田健次郎、川合仁(ペンネーム山根雪郎)、三井虎雄らが県内で初めての本格的な同人文芸誌「聖杯」を創刊した。
創作、文芸評論、詩歌、随想を発表した同誌は約2年続いたが、資金繰りに行き詰まって1923年(大正12)初頭に廃刊した。この前後から、三井虎雄、大木直太郎、上田健次郎らは上京して、中央文壇で活躍する前田晁、中村星湖の下へ出入りするようになった。平凡社の下中弥三郎社長と知遇を得て、日本電報通信社の文芸部で敏腕を振るい始めた川合仁とともに、関東大震災で焦土と化した関東を舞台とした文芸家志望の若者の活動が始まった。
1925年(大正14)初頭から、山梨日日新聞でサンデー文壇が始まった。小説、詩、短歌、俳句、童謡、川柳の寄稿を募集。毎週日曜日の紙面に掲載した。野口二郎が同社の社長に就任して3年後の新企画だった。当時のスタッフは、歌人の渋谷俊編集局長、小泉義幸社会部長らであった。
各部門の選者および講師陣に作家の中村星湖、杉原邦太郎、歌人の三井甲之、文芸評論(児童文学)の前田晁、俳人の飯田蛇笏,川柳の篠原春雨など中央文壇で活躍する山梨県出身の著名な人たちであった。
サンデー文壇に投稿する若い人たちのなかに童謡の大村主計、短歌(のちに作家)の熊王徳平、随想の土屋長村、俳句の清水とめ子、小林みず枝などがいて、同年4月3日、これらの投稿者が甲府市内の樹算会に集合して山梨文芸会を結成、三井甲之が記念講演をした。1925年(大正14)4月5日付け「山梨日日新聞」参照。
1925年(大正14)4月、山梨県出身の在京文芸・文化人の懇親団体「山人会」は、川合仁の呼びかけで設立された。その第1回の会合は、同年5月9日、東京駿河台のカフェー「ブラジル」で開かれ,16人が集まった。
川合仁が世話人となり、前田晁、中村星湖、大木直太郎、三井虎雄、上田健次郎、望月百合子、土屋長村らが初代会員として名をつらねた。後にサンデー文壇に投稿していた大村主計らも上京して山人会に加わった。
若い文芸家志望のよりどころになった山人会は、前田晁、中村星湖ら先輩の恩恵を受けて、それぞれが目指す分野に若い情熱を傾けて、"わが道"を切り拓いていった。
1929年(昭和4)3月、山人会の世話人川合仁は、現在の学芸通信社の前身「新聞文芸社」を創立、そこを拠点に山人会の文芸活動は大きく飛躍した。
5月には、米沢順子著『毒花』の出版記念会、1934年(昭和9)7月前田晁著『少年国史物語』出版記念会、1938年(昭和13)10月、大木直太郎の処女戯曲「みちのくの僧兵」の観劇会など、山人会員の出版、発表会が行なわれ、会員のほぼ全員が参加した。1935年(昭和10)代には県出身の画家望月春江、土屋義郎、進藤章らも参加。『赤毛のアン』の訳者でラジオ放送で有名になった村岡花子、小説の木々高太郎、評論の相田隆太郎、田中義顕、歌人の茂手木みさを、仏文学の中込純次などの著名人が入会、会員数は50人を超えた。
1937年(昭和12)7月の日中戦争にはじまる戦時体制の中で、言論・文芸に対する取締りが強化され、言論統制は山人会活動を抑圧した。
太平洋戦争に突入した1942年(昭和17)9月、山人会の会合で木々高太郎は文芸復興を心に秘めて山人会の活動家を諮る「後進指導」「新進誘掖」を提言しているが、空しい抵抗に終わった。
さらに1943年(昭和18)10月、山梨文化連盟と共催で甲府市内で連合総会を開き、在京人だけの山人会から脱皮して県外・県内を一本化する文化団体にすることに決めた。
戦時一色に染まった1935年(昭和10)代末期ともなれば、会員の出兵、ペンを捨てて軍需工場へ、あるいは実業界へ転進する人がふえ、敗戦が濃くなった1944年(昭和19)末から戦後の混乱期にかけて山人会の文化活動は中断した。
川合仁の学芸通信社を事務局とする山人会が復活するのは、1951年(昭和26)12月8日である。この日夜半、東京・高円寺の「松よし」で復活第1回の総会が開かれた。参加した会員は次の通りである。
前田晁・徳永寿美子・斉藤一覚・前嶋信次・三井虎雄・福地文乃・野口二郎(代理小林冨司夫)・茂手木みさを・望月七郎・田中義顕・雨宮要平・手塚鶴代・若杉静香・篠原文雄・小池一二三・大木金次郎・井伊義男・根津毅・小沢景勝・清水菊雄・篠原登・川合仁。
長い戦火をくぐり抜けて会員の顔ぶれも大きく変化した。そこで川合仁は創立から復活までの経過を報告、戦前からの会員の復帰と新会員の募集を呼びかけた。
第2回総会は1953年(昭和28)4月19日から1泊2日で甲府・湯村の昇仙閣で開かれ、県内外の会員が一堂に会して盛大な/懇親会が行われた。県内から作家の小尾十三、石原文雄、画家の内田一郎、山梨郷土研究会の佐藤森三、 歌人の許山茂隆らが加わった。
山人会報が創刊されたのは1956年(昭和31)年6月15日、創刊当時の編集委員は高野龍雄、望月七郎、前田亮らマスコミ出身のベテランが担当した。
創刊号の1面トップに、山人会の最長老前田晁の喜寿を祝う会(東京・国際文化会館)の模様を写真入で紹介している。その1面のコラムに川合仁は「創刊語」と題し、次のように記している。
「待望の会報が、編集委員の熱意で創刊を見たことはお互いに喜びである。全会員の心の結びつきに役立つことはもちろん、会合と会合の間の時間的な空白も、これでたぶんに補うことができるだろう。
さらに紙上での意見交換などを通して、会の運営にも清新な傾向を作り上げていくことができるとすれば、片々たるこの会報の意義も小さくない。ともかく、郷土愛の上に咲いた、これは友誼の花である。みんなで健やかに育てていきたい」。なお題字は長老前田晁の筆になるものである。
山人会が中心になって1957年(昭和32)5月、河口湖町産屋ヶ崎の湖畔に中村星湖の文学碑を建てた。
引き続いて1959年(昭和34)11月、山人会育ての親の前田晁の文学碑を山梨市万力公園に建立した。
創立以来、山人会の世話役を務めた川合仁は、1963年(昭和38)10月30日、心筋こうそくで死去した。63歳だった。川合仁の功績をたたえて1975年(昭和50)4月、万力公園に記念碑を健立した。
中村星湖、前田晁、川合仁ら山人会の基盤を築いた人びとから、山人会活動への基金が寄せられた。これらの基金に山人会会員の募金を加えて、1960年(昭和35)度から、山梨日日新聞社、山梨放送の後援で創立35周年にちなんで県内の小・中学生から作文を募集、優秀作品を表彰する制度を設けた。
その第1回の山人会賞の表彰式が山梨放送の会議室で行われた。審査委員は村岡花子、木々高太郎ら6人であった。翌年から高校の作文も募集した。
山人会賞はその後、山梨県内の小・中・高校生で文芸・科学・音楽・芸能・語学などの課目や社会環境とのかかわりあいのなかで、めざましい成果を収めた学校及び地域のグループを対象にした団体賞に発展していくことになる。
山人会賞制定に伴い、山人会を財団法人に組織替えして財政と運用の近代化を図ろうとう声が会員の間に高まり、1964年(昭和39)5月、東京・新橋亭で開かれた総会で財団法人化が決議された。
当時理事長だった前田亮、リーダー格の三井虎雄、それに佐藤森三らが推進委員に選ばれて県に働きかけた。
そして同年11月2日、山梨県教育委員会から正式に「財団法人山人会賞財団」として認可された。
山人会賞財団の会長には中村星湖、副会長に野口二郎、篠原登、理事長に前田亮が就任。
「県内の文化事業の助成、青少年の想像力の開発助成のため芸術,科学等文化活動の育成奨励をはかり、もって学術文化の向上発展に寄与すること」を主旨にした法人である。
基本財産100万円、運用財産30万円で発足。事務所は山梨日日新聞社、事務局は学芸通信社に置き、川合仁亡きあと川合澄男、川合康夫兄弟が事務局を引き継いだ。
1966年(昭和41)度から山人会賞の作文募集に加えて小・中学生を対象に図画の募集部門を増設した。審査委員には望月春江、鳥居雅隆、堀内孝恵らが選ばれた。
さらに1971年(昭和46)から芸術科学などの部門で卓越した成果を収めた小・中・高校やそのクラブ活動に団体賞を贈る制度が加えられた。
こうして山人会賞は、県内小・中・高校の作文、図画などの権威のある公募機関として定着し、年毎に応募作品が増えていった。
山人会の事業、会員の増強など、もっとも意欲的に拡充されたのは1965年(昭和40)代である。その間、初代理事長の前田亮が死去し、三井虎雄が後任理事長になった。
1971年(昭和46)、創立当時から会長を務めてきた中村星湖が高齢を理由に辞任し、名誉会長となり、後任の会長に篠原登が就任した。篠原・三井の新しい陣容で山人会の芸術育成とともに伴う資金つくりをはじめた。
1974年(昭和49)4月13日、中村星湖が90歳で他界した。その直後、佐藤森三が逝った。こうして山人会創立と当時からの会員の多くは他界した。
そのようななかで野口二郎、望月春江を最高顧問に、1974年(昭和49)には大木直太郎が会長に、1979年(昭和54)には望月百合子が女性ではじめての会長に就任した。
こうした新旧交代の時期にあって、1974年(昭和49)10月、「山人会賞財団」を山梨県教育委員会の許可を得て「財団法人山人会」に改名した。鳥居雅隆のデザインで山人会旗が制定されたのも、この直後であった。
山人会活動の一つとして、山日・YBSグループのカルチャーセンターの山梨文化学園と共催で第1回の「山人会夏期特別講座」が開かれたのは1975年(昭和50)7月29日から30日までの3日間である。
第1回の講師は、望月春江、大木直太郎、中込純次、望月百合子、村松定孝、大村主計の6人。3日間、甲府市北口の山梨文化会館2階ホールで実施した。その後、講師には、山人会のなかから、中東研究の権威前嶋信次、評論家三枝佐枝子、劇作家竹内勇太郎、シナリオライター菊島隆三、作家の今川徳三、近藤信行、「鬼平犯科長」のプロデューサー市川久夫など多彩な顔ぶれが登場して好評のうちに毎年継続されている。
郷土を知り、郷土の人と親しまなければ"郷土愛"は生まれてこない、という理由で、在京の山人会員と地元の会員との親睦を兼ねて実施したのが、山梨市で毎年5月の新緑のころ山人会主催で開かれた「千鳥の会」である。
地元の山梨市文化協会(上野喜延会長)が会場の準備を受け持ち、作家の中村鬼十郎、書道家の渡辺何有、 歌人の鈴木孝らが幹事役を務めて1964年(昭和39)4月から笛吹川の差出の磯近くのちどり湖畔の会場(初めは山梨市農事センターのち市民会館)で郷土の「ほうとう」・山菜料理を囲んでの懇親会が行われ、県内外から山人会員が数十人集まって談論風発、1985年(昭和60)まで20回と会を重ねた。
「千鳥の会」と並行して、山人会主催の「文化を楽しむ会」と「郷土の自然と文化を訪ねる会」が発足した。
「郷土の自然と文化を訪ねる会」は1975年(昭和50)10月7日、勝沼市の見学とぶどう郷めぐり(日帰り)の実施が第1回で、毎年四季を問わず見学場所を決めて実施している。
「文化を楽しむ会」のコースは京浜地区、県内とさまざま。第1回は1976年(昭和51)7月1日、山梨中銀新宿支店の会議室で菊島隆三の講演「黒澤明の人間像」を聴いた。
翌年10月、根津美術館の「東山御物展」を見学、このほか「樋口一葉」の観劇会、横浜、鎌倉の歴史文学散歩など、山人会ならではの企画を立てて毎年実施している。
山人会最高顧問の野口二郎が逝き、長男の野口英史が1976年(昭和51)から副会長になった。その英史も1979年(昭和54)12月に50歳で他界、二郎の娘婿にあたる小林茂が副会長に就任した。
1979年(昭和54)2月13日、最高顧問の日本画家望月春江が85歳で病没した。芳子未亡人は故人の遺志を継いで山人会に200万円を後進の画家志望の育成費として寄付した。これを基金に1981年(昭和56)年度から山人会特別賞として「望月春江賞」が制定され、毎年秋に応募作品の募集・審査を行い、望月春江賞1人、優秀賞数人に奨励賞、記念品、表彰状などを贈り、入選作の展覧会を開いている。
ミレーの名画の展示を中心にした県立美術館が、甲府市貢川の旧農業試験場の跡地に建設され、オープンの日を迎えたのは1978年(昭和53)11月であった。望月春江、土屋義郎など山人会に関係した画家たちの作品も所蔵されるとあって、画家のみならず、山人会にとっても待望の開館であった。
さらに美術館に隣接した県有地に1989年(平成元)11月、県立文学館がオープンした。
飯田蛇笏、芥川龍之介の貴重な文献、書画を収集したほか、樋口一葉、三井甲之、中村星湖、前田晁、村岡花子、木々高太郎、相田隆太郎、菊島隆三、山崎方代、大村主計、深澤七郎など近世、近現代に文壇で活躍した本県出身の文筆家たちの資料収集と展示は、県内外の文芸愛好家の衆目を集め、ユニークな文学資料の宝庫となった。その文筆家の大部分は、山人会とかかわりのあった人びとであり、文学館と山人会は密接な関係があるといってもよいだろう。
1994年(平成6)10月から12月にかけて開かれた同文学館の企画展「中村星湖展」には、山人会も全面的に出品協力し、山人会副会長川合澄男、現会長内藤成雄(当時常任理事)らが、星湖連続講座の講師として県内で講演した。

創立60周年を迎えた山人会は、1987年(昭和62)からの「山人会特別賞・中村星湖賞」と「山人会特別賞・前田晁文化賞」制定を決定した。中村星湖文学賞は、いずれも県内在住または県出身者で、小説・戯曲・ノンフィクション・文芸評論・伝記などで、同年上半期までの過去1年間に雑誌・単行本に掲載した作品を審査の対象にした。前田晁文化賞は、個人またはグループで、音楽・演劇・美術・芸能・放送・学術・科学技術・医学などの分野で、過去1年間に目覚しい活躍したものを対象にした。優れたものを表彰している。
第1回の両賞の審査委員は次の通り。
 <中村星湖文学賞>伊藤桂一・近藤信行・中村鬼十郎・中村顕一・村松定孝
 <前田晁文化賞>
飯田龍太・小林茂・樋口弘其・前田富美・三井芳文

第30回山人会春の総会を兼ねて1988年(昭和63)6月11日夜、東急ゴールデンホールで、最高顧問の望月百合子の米寿を祝う会が開かれた。
山人会創立当時からの会員で評論家の望月女史は、女性では初の山人会長を務めている。弦田康子企画事業委員長の開会の辞、三井芳文会長のあいさつ、小林玄祥県立文学館準備室長らの祝辞のあと、中村顕一副会長の乾杯の音頭で祝賀会が始まった。アトラクションに深澤由香が主宰するグループがイタリア歌曲を合唱するなど華やかに長寿を祝った。
最初、1000万円の基金で出発した財団法人山人会は、その後たびたび基金の充実を図ってきたが、創立60周年からさらに基金増強運動を開始した。
中村顕一、前田雄二がそれぞれ300万円、中村仁50万円、川合澄男、樋口弘其、三井芳文、東京電力各30万円などを含めて個人145、法人2団体から合計1400万円に寄付が寄せられた。こうして財団基金は2500万円を超えた。
しかし基金から生ずる利子によって運営する財団法人としては、まだ基盤の脆弱さは否めない。1993年(平成5)度に6年ぶりに財政強化委員会を復活し1994、5年(平成6、7)度にかけ基金に強化を行い、文化活動に理解のある法人を対象として年間1口3万円の法人賛助会費(目標50口)の募金活動を展開した。合わせて、会員の会費(維持会費)を5千円から8千円に、入会金5千円を1万円に値上げした。この結果、1995年(平成7)度には法人賛助会員数は31口に達し、超金利下にもかかわらず財政運営に大きく寄与した。
1996年(平成8)1月、佐々木啓吉評議員提案により、「21世紀の山人会を考える」小委員会(委員長・桂田義雄理事長・設和幹・刑部和儀・垣屋礼治郎・佐々木啓吉各評議員、志村康子・竹内のぶ緒各会員)を設け、21世紀に向かって財団法人山人会のあるべき姿を、山人会の原点に帰り、広い視野から検討した。同年6月の理事会・評議員会に小委員会から中間報告が出され、9月末に最終答申が提出された。
答申書の内容は、「自立する山人会」を最大のポイントする。特定の個人、企業に依存してきた体質を改善し、財団法人として自立して活動できる体制づくりを目指そうとしている。そのためには経済基盤の強化と事務局事務所の設置を基本としている。1997年(平成9)6月の理事会・評議員会で任期満了の役員改選を行い、3期6年間にわたり財政強化、21世紀への体制づくりを探究して成果をあげた。その後、樋口弘其会長が勇退、川合澄男副会長が新会長に就任した。川合新会長は、答申書の具体化のため、まず徹底的な経費の節減と収益の拡大を行い、事務局事務所への財源確保を図った。一方、山人会創立の原点に立ち返り、21世紀にふさわしい文化事業とは何かを考え、郷土への文化奉仕活動と委員相互の親睦と交流を車の両輪にして活動する方針を打ち出した。
1997年(平成9)11月から1999年(平成11)3月末までに、事務所購入費見込み経費1000万円として、事務所設置資金の募金活動(一口1万円、目標500万円)を展開して会員、一般の協力を求めた。この結果、1999年(平成11)3月末で587万2千円(最終募金総額625万7千5百円)集まり、1998年(平成10)10月28日には東京都新宿区新宿5丁目18‐20ルックハイツ新宿506号室)に事務所の購入手続きを終えることができた。買収額は1079万600円、11階建ての5階部分、6.91坪。1999年(平成11)4月から新事務局がスタートし、パソコンなどOA機器も導入して事務能力が一段と上がってきた。
これと併行して、1997年(平成9)4月から維持会費年間8千円を1万円に値上げ、10月から1999年(平成11)3月末まで新会員募集キャンペーン(目標50人)を展開し新会員の拡大にのり出した。
1956年(昭和31)6月発刊された「山人会報」が1998年(平成10)7月25日、100号に達した。記念号として川合会長、村松定孝、伊藤桂一がお祝いのことばを寄せ、過去の山人会報から抜粋した、記念すべき寄稿文(前田晁、相田隆太郎、中村星湖、野口二郎、村岡花子、土橋治重、木々高太郎、篠原登、小林冨司夫、望月百合子、手塚鶴代、中村顕一、樋口弘其、竹内勇太郎、三井芳文各氏)を再録、20ページに特集した。
編集広報委員会は、100号を期にして「文芸特集」を毎号掲載する方針から、会員に寄稿を求めることにした。
21世紀を迎えて川合澄男会長が、樋口弘其前会長から引き継いだ、21世紀を迎える新生山人会の体制を一歩一歩推進してきた。いよいよ21世紀を迎えた2001年(平成13)1月16日、川合会長が急逝されてしまった。山人会にとっては厳父、川合仁氏から2代に及ぶ山人会への尽瘁は並々ならぬもので、その急死は大きな衝撃をあたえたが、内藤成雄副会長が定款により会長代行を務め、会員各位の協力で6月の理事会評議員会、総会で内藤成雄新会長はじめ新役員・委員会・予算・事業計画を決めて21世紀へ向かって力強く踏み出した。
20世紀末の1998年(平成10)には樋口弘其元会長、2000年(平成12)には中村星湖初代会長の長男顕一元副会長、小笠原環山副会長、2001年(平成13)初頭には川合澄男会長、5月には中込純次元副会長、6月には100歳の望月百合子元会長と長老たちが前後して世を去られた。編集広報委員会は2001年(平成13)5月、山人会報107号を追悼と文芸特集、36ページを発行した。

就任2年目に入り、内藤会長は山人会事業の魅力あるプログラムの開発、広く山人会情報の発信を図るため2001年(平成13)6月の理事会評議員会に於いて7月から「ホームページ」開設を諮って承認された。ホームページ準備委員会の中心となったのは、副会長の桂田義雄で、将来を展望した熱意ある視点で、膨大な資料をまとめあげ、2002年(平成14)6月1日よりホームページを公開するに至った。

山人会員の皆さまへ     財団法人山人会 内藤成雄

 親愛なる山人会員の皆さま、会長を仰せつかっております内藤成雄です。自宅富士吉田で書いています。
 何十年来という厳寒、全容雪を被った大富士の凍氷面が清々しく大寒の日ざしに輝いています。台風、地震、津波.年明ける間もない北日本の大雪、それに呼応するような人の世の基準である平和、友好、善意、協調、愛の組み立てをおぞましく破壊するように連日の犯罪等におののいております。

 そんな心境の中で、否、そんな心境なればこそ我々が育ててきた人間としての大切なもの、心の砦のようなものを失ってはいけないと思う気持ちで一杯です。
 われわれは今山人会という、如上の意味からも価値ある組織に籍を置いております。改めて会員の皆さま、日頃それぞれの分野、領域において文化、芸術及びそれに関する職域で意義ある日常をおくられていることに敬意を表し、不遜を承知ながら御挨拶を送ります。                          
 山人会の現状を御報告する前に、復習の意味で「山人会の歩いたみち」を申し上げます。 本会は大正一四年(一九二五)、在京の山梨出身の文化人の親睦団体として発足しました。提唱は川合仁、それに同調した中村星潮、前田晁、三井虎雄、大木直太郎、望月百合子諸氏の大先輩の方々、後に在県の野ロニ郎、土屋義郎、佐藤森三らの諸氏を加え、親睦の輪を広げながら郷土の文化向上のため活発な諸活動を行いました。この会は昭和三十九年山梨県教育委員会認可の財団法人に組織替えし、その基金を基に県内の次代を担う青少年子女の文化、情操の育成(初期は作文、図画募集、後に四七年より団体賞)事業を行い、今に続く山人会賞の嚆矢とも云える仕事を行いました。その後この顕彰事業は、望月春江賞(五六年)、中村星湖文学賞(六二年)前田晁文化賞(六二年)と発展しております。以上が大凡の沿革です。

 事務所は発足以来提唱者川合仁氏の主宰する学芸通信社内におき、組織としては考えられない事務諸費零の長年の奉仕、就中先年物故した川合澄男同社前社長及び令弟康夫現会長らの一切の事務担当に支えられて運営されてきました、流石に事務量も増え川合氏の善意にそうそう甘えきれず、山人会役員諸氏の寄付と、基金の預金の一部を取り崩し新宿にワンルームマンションの一室を購入、ささやかな事務局を持てたのは平成十年でした。                                                                                  
一方県内の事務所は山梨日々新聞社文化部の御好意で事務を社員が担当、報道、諸行事の協カを得て現在に及んでおります。

 山人会の運営は、財団法人山人会寄付行為に準拠して、会長、副会長、理事長、常任理事、理事、評議員によって行われていますが、諸事業はすべてその役員が担当する各委員会で行い、山人会四賞、企画事業、広報、財務、事務局等分担しております。役員報酬はありません。又事務局は役員、有志が交替で出勤、これ亦報酬はなく全部奉仕で行われております。

 さて、現在の山人会の問題点と現状について申し上げます。一言に言えば極めて危機的状態です。その一番の原因は財政の窮迫です。御存知のように財団法人は事業を行える一定の基金を持ち、その利子(実り)によって年間の行事、運営を行うのが建前です。わが山人会も先輩の築きあげた基金ー現在は僅かなものですがーその利潤によって運営し、その足らざるを会員の年会費、特別寄付、法人、会社の賛助会費等によって、かろうじて運営してきました。バブル崩壊後国の拙劣な政府金融措置によって、全国の法人はもとより個人の預金までが、金利零に近い状態から長年脱却できないこの状態のつけが本会にも回ってきているのです。
 
 平成十五年理事会はこの窮状を打破しようと役員全員で寄付を申し合わせ、特別寄付を併せて何とか危機を脱しました。会費も一ニ、000円に値上げ、更に会費終身免除の特典も条件付きながら廃止しました。
 それにしてもなお窮状を脱し得ず一時はしばらく諸事業を休息せしめるかとの議論が理事会で議論されることもしばしばでした。

 このような危機感の中で、わが山人会は本年平成十七年をもって創立八十年の記念の年を迎えます。この窮乏の中でそのような行事を行うべきか否か、などが理事会で何回も論じられました。否定的な論も勿論ありましたが理事会の結論は「やりましょう!」 でした。その理由は以下の通りでした。
一、山人会八十年の伝統を汚すべきではない。諸先輩が築き上げた地域への文化的貢献の火を一層盛りあげたい。
ニ、財政難に屈してはならない。金のある者金を出せ、知恵のある者知恵を出せ、カのある者カを出せ、この際会員全員が山人会精神の再生のため団結すべきである。
 消極論ばかりではなく、このルーツに還れ との精神復興の励ましは役員をカづけるものでした。

 このような現状の中で本年は、7月2日(土)に、創立八十周年記念事業を実施しょうとしております。積立金も事業予算も殆どありません。予算は行事に参加する会員の会費と広告代、寄付金でやろうと思います。内容は
1 記念式典
2 文化講演 山梨県立文学館館長、紅野敏郎氏(早大名誉教授)
3 会費制による祝賀懇親会 会場は甲府市ザ・ホテル紫玉苑(公立学枚共済組合)
と質実なものを計画しています。
 記念事業の詳細は、後日お知らせ致しますが、紅野先生には仮題として「山人会草創期の文人群像」 (中村星潮と前田晁、川合仁を中心に)といった内容の話を御願いしたいと考えております。

 この行事を成功させるには、一に会員の皆さんの御理解をいただき全員の参加をいただくことが先行します。そして山人会の精神復興、起死回生の場として頂きたいと願っております。何卒万難を排して当日を山人会のために御奉仕して頂き度うございます。

 会員の方全員がわが地域において、文化、芸術を生きがいとする選ばれたエリートぞろいです。集まればすごいカが出ると思います。素晴らしい親睦の輪、かけがえのない楽しさをエンジョイできるのではないでしょうか。出来そうもないことを皆で成し遂げた喜びを味わってみたいと思います。

親愛なる山人会会員の皆さん、何卒記念行事に御参加下さい。
よろしく御願い申し上げます。

平成十七年二月
創立80周年記念事業
(1) 実施する日時、場所
 @ 日時 平成17年7月2日(土)
 A 場所 甲府市・紫玉苑(飯田1-2-4、TEL 055−224−4422)
     駐車場150台収容あり
(2) 実行計画
 @ 山人会総会 12:30〜13:30 紫玉苑で記念事業の前に実施
 A 記念行事
    (a)記念講演 13:30〜14:30
    講師 山梨県立文学館前館長 紅野敏郎先生
    演題 「山人会創立期の人びと」−中村星湖、前田晁、川合仁、
望月百合子をめぐって−
    (b)記念式典 14:50〜15:50
      会長挨拶、感謝状贈呈、来賓挨拶
    (c)懇親会 16:00〜18:00
    (d)懇親会会費 5,000円
(3) 記念事業実行委員会の構成は下記の如くです。
 @ 記念事業実行委員会 委員長 山地進
                  副委員長 斎藤譲
                  同   設和幹
                  同   笠井忠文
 A 総務関連担当委員 ○三科恵美子、古沢なつき、糠信恵子、一瀬玉枝
   財務関連担当委員 ○唐木ノリヱ、手塚義彦、三谷静子
   広報関連担当委員 ○志村康子、善積博、堀内万寿夫
         (○印は幹事)
(4) 連絡方法
 記念事業関連のお問い合せは、山人会東京事務所
 (TEL 03-5292-5741、FAX 03-5292-5748、業務時間12時〜17時)
 または山地進宅(TEL 、FAX兼用03-3330-9320、携帯090-2659-4926)へ。      (以上)