宮沢賢治論 ― 一枚のメモにその本質を探る ―

目次


第一章 「異空間の実在」
一、     病、臨死
二、     死生観、他界観
三、     「或る心理学的な仕事」
四、     心理学を超えて
第二章   「菩薩仏並に諸他八世依正の実在」
第三章   「心的因果法則の実在」
結論     「新信行の確立」


 

     序
     科学に威嚇されたる信仰、

     本述作の目安、著書、                異構成−異単元
 一、異空間の実在 天と餓鬼、         分子−原子−電子−真空/

      幻想及夢と実在、
 二、菩薩仏並に諸他八界依正の実在
     内省及実行による証明
 三、心的因果法則の実在
     唯有因縁
 四、新信行の確立、

 これは賢治が晩年近くに手掛けた口語詩の原稿の裏に書き留められたメモである。賢治はこのメモをもとに著述することを意図していたと思われる。
 私はこのメモに賢治の思想、また生涯の集約を見る。また、このメモに関わる諸問題が、賢治の本質を理解するうえで重要な鍵を握っていると思う。なぜなら、ここには、賢治の感覚の問題、また心理学的、宗教的、思想的な問題など、賢治がその生涯にわたって追求した課題が網羅されているからである。
 そこでこの一枚のメモを手掛かりに、賢治の生涯、作品、思想などを振り返ることで、賢治の本質を探り当て、新しい宮沢賢治像を提出するとともに、賢治が果たせなかった著述の意図がどこにあったのかを浮かび上がらせ、その目標とした新信行とはいかなるものであったのかを探ることを本論の目的としたい。

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 第一章      「異空間の実在」

まず、賢治が著作を意図したと思われるメモの筆頭に挙げた、「異空間」について、またその周辺をめぐる問題について論じてみたい。「異空間」とは聞きなれない言葉であるが、賢治は「天の空間」「ちがつた空間」などと表現を変えて、多用している。

 赤祖父哲二は、氏の賢治についての三作目の著作で、氏に三作目を執筆させるに至った理由をこう述べている。「異空間体験、それに基づく物語の発生、死の問題、死者との通信、霊魂の行く他界のことなどであった。死に急いだ、いや生き急いだとしか思われない賢治自身の短い生、幻視や幻聴になじみやすい精神的体質などを考えても、けっして避けてはならない問題であった。」(『宮沢賢治 物語の原郷へ』 赤祖父哲二 六興出版 平成4年)
 私の描く賢治の異空間像は、日本の他界観の歴史の系譜に位置付けた氏の見解とは多少軌道を異にするが、氏の賢治に対する認識は、的を得ていると思う。賢治の世界観、宇宙観を理解し、また作品を読み解くにも、「異空間」は極めて重要なキーワードとなるのである。

 それでは賢治の言う異空間とはいかなるものであったのかを分析して行きたい。
 まず賢治の言う異空間は、観念上の概念ではなく、賢治の感覚が実際に感じ取ったものであることが大きな特徴である。これは異空間に限らず、賢治について考えるうえで見落としてはならないことだが、賢治の思考は、まず、自分の感覚があって、それからそれに適合する理論を書物で探していく、という過程をとる。作品にしても、感覚に生じたものを、既成の語彙、表現で肉付けしていく。賢治の著作には造語が多いことが『宮沢賢治語彙辞典』で指摘されているが、その事実がこれを証明する。自分の感覚に既成の語が合わない場合、感覚に合う表現を作ってしまうのである。であるから、まず、諸文献から入って賢治に至る、という分析の過程をとる、従来の賢治研究の方法論では、いわば、本末転倒で、賢治の本質が逃げてしまうことになる。まず、賢治の感じ取った感覚を追体験するくらいのつもりで賢治のテキストに接し、後に必要があれば、他の文献を補足的に紐解いていく、という方法のほうが、賢治の本質に近づく読み方であると言える。
 賢治の残したメモに、

     唯物論ニ与シ得ザル諸点
    一、唯物論要ハ人類ノ感官ニヨリテ     
            立つ。人類ノ感官ノミ 
       ヨク実相ヲ得ルト云ヒ得ズ。
    二、異空間ニ関スル資料
    三、

 というものがある。これもまた、著作を意図したものと見ることができる。「異空間ニ関スル資料」とは、収集を意図したものか、自分の内面から提供しようとしたものかは不明であるが、ある程度異空間を認識する能力があった賢治は、逆に人間の感覚の限界をもよく知っていたと考えることができる。
 というわけで、ここでも、賢治の感覚を読み解くことを主眼として論を進めて行きたい。

 賢治の感覚に見られる特徴を分析してみると、まず共感(empathy)の強さが挙げられる。
これは、いわば人の痛みを自分のものとして感じる能力である。その一端が、年少の頃のエピソードに垣間見られる。
 小学校二年生の時、一緒にメンコをやっていた友達が、荷馬車に指をひかれてしまい、血を流して失神しかかった。それを見た賢治はその友人の側へ駆け寄って「いたかべいたかべ。」と言いながら、無我夢中で流れ落ちる血に口をつけて傷口を吸ってやった、というものである。(『宮沢賢治』 佐藤隆房 冨山房 昭和17年)

 河合隼雄は、賢治の共感の強さは、妹とし子の死をも相当深いところまで一緒に体験させるほどであるとする。(『新文芸読本 宮沢賢治』 河出書房新社 平成2年)また、賢治の作品には、動物、植物、果ては鉱物や、物などまでが生命をもったものとして登場する。特に、童話『鹿踊りのはじまり』では、賢治を模したと思われる嘉十なる人物が、鹿が輪になって踊るのを見ているうちに「もうまつたくじぶんと鹿との違ひを忘れて」飛び出してしまう、というくだりがある。これらは、単なる作り話ではなく、賢治が自身の心情を吐露しているものと見てよく、賢治がそれらと同化してしまうほどの共感の強さを物語っている。

 次に見られる特徴として、共感覚(synesthsia)が挙げられる。
 共感覚とは、一つの感覚受容器がもたらす感覚(一次感覚)のほかに、異種の感覚(二次感覚)をも伴う現象をいう。種々
感覚の組み合わせが考えられるが、一般的なものは、視覚に関連したものだという。
 賢治に認められるのは、音を聴くと、色、又は映像が見える、色聴という現象である。これらは、実弟の清六、また教師時代に知り合い、親友となる藤原嘉藤治(音楽の教師)らが証言している。
 共感覚は、ある特定感覚に属する経験の生起に、それと異なる別の感覚経験が同時に、しかもいつも決まって随伴するというのが典型的なものであるが、このような共感覚保持者は極めてまれであるという。しかし、感動的な音楽を何回か聞くうちに、目を閉じた状態で、眼内視現象のような主観的感覚(直接の外部刺激を欠いて、感覚内の原因で生じる感覚。耳鳴りなども含まれる)が現われる、といった程度の色聴様経験は比較的多く見られるというから、賢治の色聴もあるいはこちらのほうだったのかもしれない。

 それまで童話という表現形式をとっていた賢治が、嘉藤治と出会い、音楽に傾倒するようになった直後に自由詩に手法を変えていること、また、ベートーベンを聴き、「俺もこのようなものを描きたい」と言ったという清六の証言(『兄のトランク』 筑摩書房 昭和六62年)から、作品『春と修羅』は音楽と深い関わりがあると考えられる。『春と修羅』に限らず、賢治の作品には、色彩と音に関する描写が多用され、これまで多く論じられてもいるが、賢治の共感覚を考えに入れると、それらの色彩の描写には背後に音楽が隠され、音楽の描写にはなんらかの色彩や風景が隠されされていると考えられ、活字の裏に音と色、または風景が含まれていることになる。これらは賢治と同レベルの感覚の持ち主にしてはじめて再現できるものであり、字面だけを追った解釈では到底賢治の世界は体験できないことになる。ここに賢治研究の難しさがあり、また、多種多様な解釈を生む原因がある。
 
 以上が宮沢賢治に認められる感受性を常識的な範囲で分類してきたものであるが、どうしても現在の心理学、精神分析の常識の範囲を逸脱してしまうような感覚を賢治は所有し、賢治自身それを自覚していたようだ。それが、超感覚的知覚(extrasensory perception ESP)いわゆる超能力である。
 例えば、賢治は23歳の時、母校である盛岡高等農林学校の、石丸教授の死を予知したかのような記述がある。

  石丸さんが死にました。あの人は先生のうちでは一番すきな人でした。ある日の午后私は椅子(原文糸偏  に奇 論者)によりました。ふと心が高い方へ行きました。錫色の虚空のなかに巨きな巨きな人が横はってゐ ます。その人のからだは親切と静な愛とでできてゐました。私は非常にきもちがよく眼をひらいて考えて見ま したが寝てゐた人は誰かどうもわかりませんでした。次の日の新聞に石丸さんが死んだと書いてありました。 (大正8年8月上旬 保阪嘉内宛書簡より 原文まま)


 また、賢治がある日、出掛けた帰りに、急ぎの用があって魚を積んだトラックに乗せてもらった。ところが車が谷間にさしかかった頃、小さな赤い鬼のようなものが空中で騒ぎながら、バスを谷底に突き落とそうとしているのを目撃する。見ていると、谷間の方の側には、白い大きな手が、トラックを支えている。それを見た賢治は、観音の手だと直感した。しばらく走って道がカーブに差しかかった時、その白い手が急に視界から消えた。その途端、トラックは荷物ごと谷底へ落ちたが、賢治と運転手とは、とっさに飛び降りて無事であった、という逸話が残っている。
 その他、賢治は、いわゆる鬼神をよく見る体質であったようで、森佐一は賢治からそういう類の話をよく聞かされたことを証言していて、(『宮沢賢治の肖像
』 森荘巳池 津軽書房 昭和49年)また賢治自身、その作品にいくつか書き残してもいる。

 これらが賢治に特徴的な感覚であり、また賢治の異空間認識の源泉とでもいうべき部分でもある。それではこうした賢治の感覚は何に因るのかを考えてみたい。
 私の考えでは、賢治の特異ともいえる感覚の要因は、生来の資質という先天的要素に加えて、賢治が18歳の時に体験した病、という後天的要素が融合した結果だと思う。これらと賢治との関わりを検証した後、それらの体験が賢治に及ぼした影響を考えてみたい

                                                      目次へ

 一、病、臨死
 
 私は、宮沢賢治を考えるうえで、どうしても避けて通ることができない、賢治の体験があると思う。それが、賢治が18歳の時の病である。
 それは、いわば、賢治を、作家、思想家‘宮沢賢治’として成り立たせた、原体験である、と私は考える。
 しかし、従来、この体験については、伝記などで表面的に取上げられることはあっても、この体験のみを独立して扱い、賢治の原体験と位置付けて論じたものはなかったように思う。

 例えば、パトグラフィという手法で、賢治研究に新しい道を開いた福島章は、賢治の生涯の精神的抑揚を「環境的・心理的な次元とは全く別の、もっと生物学的な次元の力によって支配された現象であったと考えることが自然である」(『宮沢賢治』 福島章 金剛出版社 昭和45年)とし、この体験の時期を、賢治の最初の「ファーゼ(一時期に限定された精神的な異常状態)」と位置付けて、病のことについてはほとんど触れていない。
 唯一、解釈、分析といった研究という手法から積極的に離れて、賢治の見た世界の美しさの紹介に努めている板谷栄城が、この病の時期を賢治の文学的な出発点と洞察し得ている(『宮沢賢治の見た心象』 日本放送出版協会 平成2年)のはある種の皮肉だが、氏は、その手法ゆえに、病の性質そのものについて、また、病が賢治の生涯や思想に与えた影響についてなどには、深く立ち入って論じることはしない、という具合である。 それでは、一体、賢治の病体験とはいかなるものであったのだろうか、また、それが本当に私のいうように、賢治の原体験ともなり得るものなのか、を検証してみたい。

 発端は、賢治が18歳、盛岡中学5年の1月に、鼻炎を患ったことに始まる。卒業間近なので、卒業を待って入院することになる。卒業後、入院し、鼻炎の手術は成功したかに思えたが、次第に高熱が出て、発疹チフス感染の疑いがもたれたという。

 80 どこまでも検温器のひかる水銀がのぼりゆく時目をつぶれりわれ

 賢治は中学入学頃から詠んだ短歌を「歌稿」として残しているが、大正3年4月の日付で80番から始まる歌は、病の経過を綴ったものと考えていい。高熱の後に、賢治は、自分の内面を歌にしていく。以下、幾つかの短歌を「歌稿」の順序のままに抜粋して、この時期の賢治の内面をたどってみたい。

 90 ゆがみひがみ窓にかかれる赭焦げの月われひとりねむらずげにものがなし

 90 われ疾みてかく見るならず弦月よげに恐ろしきながけしきかな

 93 星もなく赤き弦月ただひとり窓を落ちゆくは只ごとにあらず

 94 ちばしれるゆみはりの月わが窓にまよなかきたりて口をゆがむる

 それ以前に慣れ親しんでいた自然が、擬人化され、賢治を脅かすものに変わる。月を「月天子」と呼んで親しんだ賢治が月に恐怖を感じているのが興味深い。板谷氏は満月と三日月とに対する賢治の心情の違いを指摘しているが、(前述『宮沢賢治の見た心象』) 私はさらに病の症状を加味したい。

 105 つつましき午食の鰤を装へるはたしかに蛇の青き皮なり

 この歌に見えるように、賢治の内面は、かなり非日常的な幻覚の世界を呈していたようだ。

 107 かなしみよわが小さき詩にうつり行けなにか心に力おぼゆる

 余談になるが、この歌は賢治にとって、‘書くこと’の意味の本質を表している。この歌に見えるように、賢治にとって書くことは、悲しみ、憂いを癒すためのやむにやまれぬ手段だったのである。賢治は晩年(1927年6月21日)、「岩手詩集」の編集者であった母木光にあてた書簡で、

 こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から「あれはさうですね。」といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。

 と述べているから、賢治が十代の短歌の時期から、晩年まで、癒しとしての執筆、という姿勢は基本的に変わっていないことになる。

 108 目をつぶりチブスの菌と戦へるわがけなげなる細胞をおもふ

 109 今日もまたこの青白き沈黙のなかにひたりてひとりなやめり

 110 さかなの腹のごとく青白く波うつ細胞は赤酒を塗ればよろしからん

 111 十秒の碧きひかりは去りたればかなしくわれは又窓に向く
 
 114 いつまでかかの神経の水色をかなしまむわれにみちくるちから

 後に検証することになるが、賢治にとって、また作品理解の上で「青」という色彩は重要なキーワードとなる。賢治作品の「青」については多少の論考もあり、「青」に焦点を絞って詳細な分析を試みた宮沢賢治(『近代と反近代』 洋々社 平成3年(‘宮沢賢治’は本名らしい))の論のような労作もあるが、その出発点ともいうべき原体験がここにあるのである。

 128 たんぽぽを見つめてあれば涙湧くあたま重きまま五月は去りぬ

 この時点で五月を過ぎており、すでに発病から二ヶ月経っていることになる。この間、80から128番までの短歌は、今見たように、熱の描写から、そこから生じる幻覚までを克明に描いている。
 発疹チフスは、発病前の1〜3日間に全身倦怠感、頭痛、関節痛、食欲不振などを訴え、悪寒戦慄を伴ってにわかに発熱することで発病し、発病後1〜2日で体温が40〜40.5度に達し、数日間持続するという。そして発病後4〜6日で発疹期にはいる。体温は発疹期にも高熱を持続し、神経症状が強くなり、うわごと、幻覚、不眠、興奮、撮空模床(譫妄状態の患者が無意識に敷布とか虚空をつかむような動作をすること)などがみられる。回復期に入れば発疹は7〜10日で消退するが、意識混濁、幻覚、難聴、震顫、神経症様の症状などが数ヶ月にわたって持続することもあるという。

 従来の記述では賢治の病は「擬似チフスの疑いがもたれる。」(『宮沢賢治年譜』 堀尾青史 筑摩書房 平成3年)といったあいまいな表現がとられてきたが、賢治自身が「チブス」(108番の短歌)、「発疹チブス}(122番)と記述していることや、今まで見てきた賢治の症状からみて、賢治の病を発疹チフスと断定してもよさそうである。賢治の見た非日常的な幻想の世界も、発疹チフスの症状として無理なく説明できる。むしろ、これまで発疹チフスの症状と、賢治の幻覚を関連付けて考える見方がなかったのが不思議なくらいである。

 133 よごれたる陶器の壺に地もわれもやがて盛られん入梅ちかし

 発疹チフスは当時、依然として死亡率の高かった病気でもあり、また自身を悩ませる幻覚の症状は、この133番の歌に見えるように、賢治に死の淵を覗かせるものでもあったようだ。

 134 わがあたまときどきわれにきちがひのつめたき天を見することあり

 164 わななきのあたまのなかに白き空うごかずうごかずさみだれに入る

 165 ぼんやりと脳もからだもうす白く消え行くことの近くあるらし

 166 目は紅く関折多き動物が藻のごとくむれて脳をはねあるく

 167 物はみなさかだちをせとそらはかく曇りてわれの脳はいためる

 134に「わがあたま」が「きちがひのつめたき天」を見せることを告白し、以前より幻覚の症状が強まっていることを感じさせる。それからは「脳」という表現が多用され、以前、「月」など外に感じていた幻覚が、この時期には内側に見えるものとなっていたようだ。
 後の童話『雁の童子』に

 童子さまの脳はもうすっかり疲れて、白い網のやうになって、ぷるぷるゆれ、その中に赤い大きな三日月が浮かんだり、そのへん一杯にぜんまいの芽のやうなものが見えたり、また四角な変に柔らかな白いものが、だんだん拡がって恐ろしい大きな箱になったりするのでございました。母さまはその額が余り熱いといって心配なさいました。

 という描写があるが、これはこの時期の体験を後に作品に取り込んだものと思われる。短歌という短い表現形式では表せ得ないものを生々しく描写していて、賢治の見た世界がよく解る。またこの病体験が賢治の深層うに強く刻まれていることが理解できる。逆に、この童話における童子という人物の位置付けにも示唆を与える。

 177 われもまた日雇となりて桑つまん稼がばあたま癒えんともしれず

 「大正三年四月」、と日付された短歌は、次の「大正四年四月より」、と日付される短歌群までの80番から230番までであるが、高熱の描写から始まって幻想様の世界に終始した内容も、ようやくこの177番の歌を最後に落ち着きを見せ、以降は、80番以前の自然を詠んだ内容に近くなってくる。
 163番に、
 
 六月十五日より曇りしと日記につけんそれも懼れあり

 とあり、また198番に「いざよひ」、208番に「すすき」など、秋の語が出てくることから、177番は夏の8月から9月あたりのことと思われる。賢治の症状も、このあたりに快方に向かっていったと推定する。
 発疹チフスは、発疹が消滅した後も幻覚、神経症様の症状が数ヶ月続くこともある、と前述したが、こうして賢治は少なくとも4ヶ月は発疹チフスの症状に悩まされたことになる。この時期に生じた幻覚様の内面世界は、賢治の深部に強い影響を与えることになる。
 
 ここまでで、従来あいまいに扱われ、ほとんど顧みられることのなかった賢治の病体験を、発疹チフスの症状によるものと断定し、その内面世界を追ってきたわけだが、ここで、もう一つ違った視点からこの病をとらえてみたい。それは、賢治がこの病中に、いわゆる臨死を体験しているのではないか、ということである。
 臨死体験とは、ここ数年日本でも話題になっている現象で、死に瀕しながら生還した人の一連の体験についての記述である。もっとも臨死体験と名付けられはしないものの、体験そのものは古くから認められた現象で、日本にも日本霊異記、今昔物語、宇治拾遺物語などに、死から生還した人の記述がある。
 それが near death experience、臨死体験として注目を浴びるようになった契機が、1970年代、ターミナル・ケアの第一人者である、アメリカのE・キュブラー・ロスによる『死ぬ瞬間』の出版、また、レイモンド・ムーディーの臨死の体験談を集めた著書の出版である。それに刺激を受けたケネス・リング、マイケル・セイボムといった人達が、臨死を独立して取り上げ、より大規模で、客観的な調査を開始し、評価を得、現在では、国際的な研究団体、学会、また研究誌なども存在し、また臨死についての国際会議も開かれるに至っている。
 日本では未だ興味本位といった域をでない扱われ方なのだが、欧米では、臨死体験そのものは、否定できない事実として、心理学、生理学、宗教学、文化人類学、哲学、といった様々な分野で、科学的、実証的に考察、研究されている現象なのである。
 しかし、臨死体験そのものの実在は疑われてはいないものの、それを引き起こす原因や、体験の解釈となると、研究者の間で意見が分かれているのが現状である。例えば、ある学者は死後の世界の存在を信じ、臨死体験は実際に死への入り口を体験したものと位置付け、またある学者は、危機に瀕した脳が引き起こす生理的な現象であると主張する。しかし、これらはまさに実際に死んでみないと解らないことなので、結論が出る日がくるとは思われない。ゆえに、ここでは、体験の正否や、要因については触れず、まず、臨死体験が存在する、という事実から出発しようと思う。

 さて、賢治と臨死体験について初めにふれたのが毛利孝一である。氏は、賢治の死の直接の契機となった肺炎に注目し、自身の脳卒中の体験と比較し、詩『目にていふ』の情景を臨死体験と位置付けている。(『生と死の境』 毛利孝一 東京書籍 昭和60年) 続いて、ユング心理学者の河合隼雄が少しさかのぼって、妹とし子の死に際して、賢治自身もその共感の力によって相当深いところまで共体験したとし、その体験が『銀河鉄道の夜』として結実したとする。(『宗教と科学の接点』 河合隼雄 岩波書店 昭和61年)
 毛利、河合、両氏の説と比して、賢治が臨死を体験した時期は、さらにさかのぼって、このチフスの時期ではなかったか、というのが、私自身の仮説である。
 病中に賢治は次のような不思議な歌を詠んでいる。

 159 なつかしき地球はいづこいまははやふせど仰げどありかもわからず

 160 そらに居て緑のほのほかなしむと地球の人のしるやしらずや

 常識的に考えると、解釈に苦しむ歌であるが、私はこれを賢治の病中に起きた臨死体験と解釈するのである。
 臨死者が語る体験には不思議なことに幾つかの共通するイメージがある。細かい部分は民族、文化によって微妙な差があるが、大まかな点では大体一致している。
 それらの分類は学者によってまちまちだが、例えば前述のレイモンド・ムーディーは、以下のように分類する。@体験内容の表現不可能性  A死の宣告を聞く B心の安らぎと静けさ C異様な騒音 D暗いトンネル E体外離脱 F他者との出会い G光との出会い H人生回顧 I生と死の境界線との出会い J生還(『かいま見た死後の世界』 ムーディー 評論社 平成元年)
 また、メルヴィン・モースは、@死の自覚 A苦痛が消え、安らぎが訪れる B体外離脱体験 Cトンネル体験 D光の人々 E光の存在 F人生の回想 G戻りたくなくなる H人格の変容 と定義する。(『臨死からの帰還』  モース、ポール・ペリー 徳間書店 平成3年) 人によってはこれらを全て体験するケースもあるようだが、たいていはこのうちの数例を体験する、というのが一般的なようだ。

 さて、再び賢治の歌に目を向けてみると、意識が地球の外に飛んでしまい、「なつかしき地球」の行方を見失ってしまった、という状態であることが歌から読み取れる。また、160の「かなしむ」は、悲しむではなく、いとしむ、なつかしむ、といった古典的な意味で、空で緑色に輝く地球を懐かしんでいる、と解釈したい。これは体外離脱の体験を示唆している。
 体外離脱とは、意識が自分の肉体から遊離する現象で、臨死では、体験直後に自分の肉体を見下ろす(例えば、医者の治療を受けている、または嘆き悲しむ家族に囲まれているといった)例が多い。また、体外離脱は臨死に限定される現象ではなく、睡眠中に、さらに極端なものでは、普段の活動中に起こってしまう例もあり、欧米では、臨死とは別個の現象として、収集、研究されている。
 賢治の例は、典型的ではないにしろ、特殊というわけでもなく、いくつかの類似の体験が確認される。賢治の描写と、従来の記録との酷似が、私が賢治と臨死を結びつけた動機である。

 例えば、松谷みよ子の収集した『現代民話考』では、急性劇症肝炎と急性腎不全を併発した女性が、体外離脱をし、救急車で運ばれる自分、また枕元を囲む夫や幼い子供たちを見た後、宇宙へと離脱する。「突然、私は宇宙の奥へと引きこまれてゆくのを覚えた。だんだん地球が遠のいてゆくのが見えた。まわりには人工衛星や汚れた衛星の破片がいくつも漂っている。もうこんなに遠くへ来たんだなあ、地球ってきれいなんだなあ、広い闇のなかでサファイヤのようにキラキラ輝いている、まるで宇宙のオアシスのようなところに私は住んでいたんだなあと思っていた。」(『現代民話考 第五巻』 松谷みよ子 立風書房 昭和61)と、描写する。賢治の描写には、人工衛星、といったものは当然ないのだが、その他の部分は酷似している。

 また、分析心理学を打ち立てたC・G・ユングにも同様の体験がある。(後述するが、賢治とユングは他にも幾つかの共通点があって興味深い。)ユングは1944年に心筋梗塞を患い、続いて足を骨折するという事態が起こる。意識喪失のなかで譫妄状態になり、その中で見たヴィジョンたという。「私は宇宙の高みに登っていると思っていた。はるか下には、蒼い光の輝くなかに地球の浮かんでいるのがみえ、そこには紺碧の海と諸大陸がみえていた。脚下はるかかなたにはセイロンがあり、はるか前方はインド半島であった。私の視野の中に地球全体は入らなかったが、地球の球形はくっきりと浮かび、その輪郭は素晴らしい青光に照らしだされて、銀色の光に輝いていた。地球の大部分は着色されており、ところどころ燻銀のような濃緑の斑点をつけていた。」(『ユング自伝 2』 ヤッフェ編 みすず書房 昭和48年)
 これらと賢治の描写の類似点を思うとき、この時期の賢治の表現形式が短歌であったことを残念に思うのである。体験の核、といった部分だけが残されてはいるが、詳しい描写は全て削らなければならないからである。

 さて、賢治の病の時期の内面世界と、その一時期に臨死体験を仮定して論じてきたが、これらが賢治の原体験として後の賢治に直接的にどんな影響を及ぼすかを考える。
 臨死の体験者には、体験後にいくつかの共通する変化がみられる。賢治にはそれと見られる項目がいくつか挙げられる。それを挙げて、賢治の臨死体験を裏付ける証拠ともしたい。

 ひとつは先の項目にも挙げた、「人格の変容」である。それによると、体験の後は人格が変わり、特に以前より宗教的になる、または信仰心に篤くなるという。後に詳述するが、賢治はこの病の直後に、家の信仰である浄土真宗に決別し、熱烈な法華経の信者になる。
 二つ目は、先ほど述べた、共感覚である。臨死体験後に色聴の兆候を得た人の証言がある。(『臨死体験 上』 立花隆 文藝春秋 平成5年) この体験が賢治の共感覚の芽生えとなったものと推定する。
 3つ目が、これも先ほど述べた、超感覚的知覚の獲得である。臨死体験後にそういった能力が備わるという兆候は、特別なものではないらしい。

 これらのように、臨死は体験者の感受性を極度に高めるという。「あらゆるものが生きて見えるんです。あらゆるものが呼吸して見えるんです。息を吸ったり吐いたりしている。脈を打っているのもわかります。」(前述『臨死体験 上』) という体験者の叙述は、賢治の作品との共通点を感じる。
 さらに、「臨死体験者は一般に、いろんな感受性が強くなり、他の人には見えないものを見、聞こえないものを聞くようになります。超常能力を持つようになります。植物が、とりわけ花が呼吸しているのが見えるようになるという人は沢山います。この世のさまざまの事物が、クモの糸のように細い光り輝く糸によってみんなつなぎ合わされて、大きなネットワークが形成されているのが見えるという人もいます。臨死体験でみた‘光’がその後も継続的に見えるという人もいます。体外離脱が何度も起きるようになる人もいます。」(前述『臨死体験 上』)という記述は全て賢治にあてはまるようで、その共通点に驚く。
「クモの糸のように光り輝く糸」を賢治は童話『インドラの網』で、「天頂から四方の青白い天末までいちめんはられたインドラのスペクトル製の網、その繊維は蜘蛛のより細く、その組織は菌糸より緻密に、透明清澄で黄金でまた青く幾億交互に交錯し光って顫えて燃えました。」と、より具体的により美しく描写している。また、体外離脱については、先程の石丸教授の死を述べた書簡で「ふと心が高い方へ行きました。」と述べたりしていることからも何度か継続して体験していたことが解る。

 また、後の童話『ひかりの素足』、『銀河鉄道の夜』などは、モチーフが、臨死体験そのものである。『ひかりの素足』では、死の国である「うすあかりの国」に行く直前に一郎は「いろいろなことがまるでまわり燈籠のやうに見え」、様々な過去を回想している。これは、多くの臨死体験者が体験の直後にそれまでの人生を回顧する経験をしていることと共通し、また、『銀河鉄道の夜』では、ジョバンニが鉄道に乗る時、すなわち死の世界の入り口に赴く時、「いきなり目の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ具合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと獲れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、目の前がさあっと明るく」なる、という場面があるが、これも、臨死者が経験する光の体験に共通する。

 これらの共通点を考えると、賢治の特異な感受性は臨死と、それに関連する現象によってほとんどが説明できるものであることが解る。しかし、残念なことにこれらは全て個人の主観的な要素であり、賢治自身はすでにこの世の人ではなく、残された資料から判断するしか手がない。よって、どんなに共通項を見いだしたとて、決定的な証拠とはなり得ないのが残念である。しかし、私は、この臨死という概念は今後の賢治研究にとってテーマとなることを予感する。臨死そのものが、まだ多分に研究の余地を残しており、それらが進むにつれて、更なる賢治と臨死との関わりが見出せるようになると思う。賢治の全作品を詳細にわたって、臨死とそれにまつわる諸問題という視点から見直してみると、大きな収穫が得られることを確信している。
    
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 二、死生観、他界観

 さて、これまで、賢治の異空間認識の源泉に関わると思われる感覚について述べ、それを生み出した要因について触れた。ここからは、その感覚によって形成された賢治の諸思想について述べていきたいと思う。
 これまで述べた体験、感覚が後の賢治にどのように集約されるかというと、次の二点が考えられる。まず、賢治の死についての認識が深まったこと、次に、心の世界に目覚めたこと、である。心の世界については、心理学への関心、また神秘的世界への関心、そしてより深い信仰生活への傾倒とが挙げられる。
 そこで、賢治の異空間に直接、間接に関わるこれらを順に見ていきたいと思う。
 
 はじめに、賢治と死にまつわる諸問題について述べる。
 現在、医療の発達によって、また、核家族化によって、死が縁遠いものとなっている。しかし、賢治の生きた時代、また風土では、いまだ死は身近なものであった。一緒に暮らす祖父祖母の死、また戦争、災害、伝染病、などによる家族友人の死、さらに、それらはいつ自分の身に降りかかってくるかもわからない。
 賢治自身も、十四歳の時、親友藤原健次郎をチフスでなくし、17歳で祖母キンをなくしている。そして、決定的に賢治が死を直視することになった契機が、前述したチフスによる病体験であったと思う。当時チフスは依然として死亡率の高かった病気であり、賢治自身も死の予感を短歌に詠みこんでいたのは前述のとおりである。死を直視することは、生への深い洞察につながる。賢治の後の様々な精神的、肉体的な遍歴は、死を見つめるところから出発したものであったと考えたい。
 そして、もうひとつ、賢治に大きな影響を及ぼすことになるのが、大正11年11月27日、妹とし子の死である。ある意味ではその体験は、おのれの病気や、臨死などよりはるかに賢治に衝撃を与えた出来事であったかもしれない。

 妹であるとともに、とし子は、「信仰を一つにするたつたひとりのみちづれのわたくし」(『無声慟哭』)と表現されるように、浄土真宗を信仰する宮沢家において、賢治の唯一の理解者であった。賢治はそのとし子の死を「それはじぶんにすくふちからをうしなつたとき わたくしのいもうとをもうしなつた」(『白い鳥』)と自分に信仰が足りないためであると考える。それが賢治を最も苦しめた原因であると考えられる。
 この、愛するものの死という現実は、賢治に様々な苦悩を投げかけ、おのれの存在を強く直視せざるを得ない状況に追いやっていく。これらの葛藤の中から形成された賢治の死生観、また他界観について考えてみたい。
 とし子が死んだことを諦めきれない賢治は、必然的に、他界、というものを想定し、とし子はそこへいったことを信じざるを得ない。

    ・・・・此処あ日あ永あがくて
       一日のうちの何時たがもわがらないで・・・・
    ただひときれおまへからの通信が
    いつか汽車のなかでわたくしにとどいただけだ       (『風林』)

 と、とし子からの通信のひときれを感じた賢治は、さらなる通信を求める。翌年の7月、教え子の就職を斡旋するという名目で樺太へと旅立った賢治の真意は、亡きとし子からのさらなる通信を得るところにあったようだ。その旅の間の内面の揺れが、『春と修羅』の中の、『オホーツク挽歌』と表題された作品群にまとめられている。

   あいつはこんなさびしい停車場を
   たつたひとりで通つていつたらうか
   どこへ行くともわからないその方向を
   どの種類の世界へはいるともわからないそのみちを
   たつたひとりでさびしくあるいて行つたらうか        (『青森挽歌』)

 賢治は仏教の輪廻の思想を頼りに、とし子が消滅したのではなく、どこかもっといいところへ行ったことを確信するために、自問を繰り返す。

   やがてはそれがおのづから研かれた
   天のる璃の地面と知つてこころわななき 
   紐になつてながれるそらの楽音  
   また瓔珞やあやしいうすものをつけ
   移らずしかもしづかにゆききする
   巨きなすあしの生物たち
   遠いほのかな記憶のなかの花のかほり
   それらのなかにしづかに立つたらうか
   それともおれたちの声を聴かないのち
   暗紅色の深くもわるいがらん洞と
   意識ある蛋白質の砕けるときにあげる声 
   亜硫酸や笑気のにほひ 
   これらをそこに見るならば
   あいつはその中にまつ青になつて立ち
   立つてゐるともよろめいてゐるともわからず
   頬に手をあててゆめそのもののやうに立ち
   (わたくしがいまごろこんなものを感ずることが
   いつたいほんたうのことだらうか
   わたくしといふものがこんなものをみることが
   いつたいありうることだらうか
   そしてほんたうにみてゐるのだ)と
   斯ういつてひとりなげくかもしれない・・・・
                      (『青森挽歌』)

 ここに記されるのは、生々しいまでの天国、地獄の描写である。
 また死者との通信、という概念は、当時台頭した、心霊研究からのものであると思われる。1882年、ロンドンに於いて心霊研究会(Society of Psychical Research)が発足した。この会は霊媒に関与する現象と、一般人の偶発的体験とを対象に批判的、科学的研究を行うことを目標とした。会員は、ヘンリー・シジウィックやフレデリック・マイヤーズなど、当時の科学の先端に位置した人物が構成した。3年後の1885年には、アメリカの心理学の先駆者の一人であるウィリアム・ジェームスらがアメリカにも同様の団体を作っている。後に詳述するが、科学的心理学が誕生し、世界で初めて心理学実験室が誕生したのは1879年のことであり、それまで霊魂などといったものを扱う形而上的な学問であった心理学が、科学の一分野として出発したのと同時期に、それと対照的で、形而上学的心理学を補償するような心霊研究会が誕生していることは、歴史的にみて興味深いことである。

 また日本には、東京帝国大学の井上円了が、1886年に迷信の打破を目的とした「不思議研究会」を開設している。さらに、東京帝国大学の心理学助教授で、日本の心理学の祖である元良勇次郎に師事した福来友吉が、1910年、欧米の趨勢とは別に、世界で初めて念写という概念を発見し、心霊研究に没頭する。なお、福来はこの研究により、東京帝国大学を追放されることになる。
 また、死後の世界などを科学的に研究する目的をもった心霊研究とは別に、他界を信じ、霊界との交信による啓示の実践を説く、一種の宗教思想運動である心霊主義が、19世紀後半から20世紀初頭にかけて大流行した。

 このような潮流の中、1920年10月30日付の「サイエンティフィック・アメリカン Scientific American」誌では、「Edison's Views on Life and Death」と題して、発明家トーマス・エジソンにインタヴューし、エジソンが死後の世界との通信を可能にする装置の開発に着手していることを明らかにした。もっともエジソン自身は「私は死後の個性の存続を主張するわけではないし、また死者との通信を約束するわけでもない。私は単に、例えば光学の専門家が医学界に顕微鏡を提供するように、超常能力研究家にも、その仕事を助けるような装置を提供するだけである。」(『SCIENTIFIC AMERICAN』 1920.10.30.論者訳)と述べてはいるが。
 賢治の「農民芸術」の講義を記した伊藤清一のノートには、「現在の学問、科学では霊媒を認めないが、精神感応だけは認めるようになった、」と記され、賢治が心霊研究に知識を持っていたことを思わせる。また、エジソンについても、童話『シグナルとシグナレス』に「メリケン国のエヂソンさまもこのあさましい世界をお見棄てなされたか。」という描写があり、賢治はその業績を熟知していたと思われ、前述のサイエンティフィック・アメリカンにも目を通した可能性がある。
 
 このように、仏教の死生観と、心霊現象の流行とが融合して、賢治の死生観は形成されたと考えられる。
 この旅行が原景となり、また臨死の項でふれたような宇宙空間への意識の離脱とが結び付いて、童話『銀河鉄道の夜』として結実したと思われる。

 賢治は、旅の途中、

   なぜ通信が許されないのか
                  (『青森挽歌』)

 と嘆いており、通信を得る、という本来の目的は果たされずに終わった。また旅の終わりに際して、

   ああ何べん理智が教えても
   私のさびしさはなほらない
   わたくしの感じないちがつた空間に 
   いままでここにあつた現象がうつる
   それはあんまりさびしいことだ
      (そのさびしいものを死といふのだ)
   たとへそのちがつたきらびやかな空間で
   とし子がしづかにわらはうと
   わたくしのかなしみにいぢけた感情は  
   どうしてもどこかにかくされたとし子をおもふ
                   (『噴火口(ノクターン)』)

 と、おのれの信仰心が悲しみに打ち勝てなかったことを告白している。ゆえに、『銀河鉄道の夜』は、とし子への鎮魂歌であったとともに、賢治自身が悲しみを昇華し、おのれを慰撫するために書いたものであるとも言える。                      
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 三、「或る心理学的な仕事」

 次に、賢治と心にまつわる問題として、まず、賢治と心理学との関わりを説き明かしていきたい。
 賢治は、自身で心理学という言葉を用い、心理学との関わりを明らかにしている。残された資料で、初めにそれを示すのが次の書簡である。

 前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。私はあの無謀な「春と修羅」に於て、序文の考を主張し、歴史や宗教の位置を全く変換しやうと企画し、それを基骨としたさまざまの生活を発表して、誰かに見て貰ひたいと、愚かにも考へたのです。(略) (大正14年2月9日、森佐一宛書簡より)

 賢治はここで、作品『春と修羅』は、「或る心理学的な仕事」のための「粗硬な心象のスケッチ」であると述べている。また、昭和元年12月15日に父宛てで、「心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて」買う現状を述べ、さらに昭和2年1月30日に知人に宛てた書簡で、「正直を申せば私ももうそろそろ一科の学にまとまりを付けなければなりませんので誰かそんな農芸化学的なことを専攻にこの土地でやって呉れる人がないかせっかく考えてゐるのであります。」と述べている。この「一科の学にまとまりを付け」るとは、「或る心理学的な仕事」と関連があると考えられ、この時期の賢治の主要な関心事であったとともに、賢治のライフワーク的な性格をもっていたものと思われる。

 それでは、賢治の「或る心理学的な仕事」とは、いったいどういうものなのか、を従来の賢治研究に求めたが、前述の書簡を引いて、賢治と心理学の関わりを指摘するものは多いのだが、深く掘り下げて論及し、具体的なものを提示したのは皆無であった。唯一、植田敏郎が、賢治と、日本の心理学の草分けである元良勇次郎との関わりの可能性を指摘しているが、これで全てが解決したとは思われない。そこで、私は私なりにこの問題を追及し、賢治と心理学との関わりを様々な視点から俯瞰してみたいと思う。

 まず、心理学の歴史を簡単になぞることで、賢治の位置をより明確に浮かび上がらせることにしたい。
 形而上学の一分野であった心理学が、科学として出発するのが、(見方によって説は分かれるだろうが)グスタフ・セオドール・フェヒナー(1801〜1887)が、『精神物理学綱要』を世に出した1860年である。彼によって心理学に実験が持ち込まれ、また感覚が数値で表されるようになった。さらに19世紀最大の科学者の一人であるヘルマン・フォン・ヘルムホルツ(1821〜1894)が神経興奮の伝達速度の測定を行い、刺激に対する反応時間の研究への道を拓き、また視覚や聴覚などについても研究し、特に色彩感覚の研究に優れた業績を残した。そして、そのヘルムホルツの助手を長く勤めた、ヴィルヘルム・ヴント(1832〜1920)は、1873から1874年にかけて心理学の歴史に重要な意義をもつ『生理学的心理学大網』3巻を執筆し、続く1879年、ドイツのライプチヒ大学に世界で初めての心理学実験室を創設する。ヴントの研究、著作は多岐にわたり、彼を「科学的心理学の父」「生理学的心理学の父」と呼ぶ向きもある。彼が自身の心理学思想の大要を著した『心理学原論』の発表の年、1896年に、賢治は生まれている。このヴントの門下生らが各国に実験心理学を広め、以降、心理学は科学として急速に発展を遂げていくことになる。例えば、アメリカには、ヴントの最初の門下生であるスタンレー・ホールが、帰国後の1883年、ジョンズ・ホプキンス大学にアメリカ最初の心理学実験室を設立している。また日本には、ヴントに学び、後にホールの下で研究した元良勇次郎(1858〜1912)が帰国した後、1890年に、帝国大学に心理学の口座を開いている。

 さて、ヴントは科学的心理学の課題を意識の学と規定し、意識内容の心理学を追及した。以降そこから派生し、また別の系統から発展した心理学も意識の作用、また意識の機能、といったように、意識を扱い、心理学とは、意識現象を追求する学問であった。その流れに、無意識という概念を持ち込み、新たな可能性を拓いたのがフロイト(1856〜1939)である。精神科医である彼は治療を通して、人間には、意識はされないが、行動を大きく左右する精神の領域があることを確信し、無意識と名付け、その上に彼の学問体系を築き上げた。アメリカの哲学者で、また心理学者でもあるウィリアム・ジェームズは、この無意識の発見を当時の最も重要な前進と評価した。また、無意識の発見を20世紀における最大の発見のひとつを位置付ける向きもある。意識の領域を扱う学問であった心理学が、無意識の発見により、より多くの可能性を秘めたものとなり、芸術、教育、宗教など、他の領域にも大きな影響を及ぼすまでに至った。

 こうして、賢治の時代までの心理学の歴史を概観してみると、賢治と心理学、という視点からすれば、賢治はまさしく心理学の創成期に生まれ、その発展とともに生きた、と言ってもよい。
 しかし、その時代に生きたからといって、すべの人がその流れを感じ、注目するわけではない。そこには、賢治の側にも心理学に注目する要素がなくては、両者の間に接点は生まれないはずである。その、心理学の発展の流れと、賢治とを結び付ける要素が、再三にわたって触れてきた賢治の生じる様々な感覚であると思う。賢治は、己れの内側に生起する現象に次第に興味を感じるようになり、それが当時科学として急速に発展していた心理学と結び付いたことで、その現象を客観的に眺め、記述、分析することで、科学として成り立たせ、また心理学の発展に貢献することを意図していたものと思われるのである。 

 それでは、さらに具体的な、賢治と心理学との結び付きの内容に踏み込むことにする。
 賢治は前述のように、昭和元年ごろには、(『春と修羅』刊行の2年後)、「心理学や科学の廉い本を見ては飛びついて買って」しまう現状を述べている。前述の植田敏郎は、元良勇次郎の『心理学概論』(大正4年刊行)に注目し、それとのつながりで、賢治の「或る心理学的な仕事」を説明する。しかし、賢治は、ドイツ語、英語ともに読むことができたというから(前掲『宮沢賢治の肖像』)、元良の『心理学概論』一冊に全てを託して説明するのには納得がいかない。当時の学問の情勢から考えると、日本語の著作より、むしろ原書に多くを学んだと考える方が自然ではないだろうか。
 森佐一の回想によると、佐一が「春になって、蛙は冬眠から覚め、蛙のいる穴へ、ステッキをつきさせば、穴から冷たい空気が出る。ほの暖かい桃いろの春の空気に・・・」というような詩を作ったことを話すと、賢治は「あ、それはいい、よい詩です・・・」と言った後、「実にいい。それは性欲ですよ。はっきり表われた性欲ですナ」「フロイド学派の精神分析の、好材料になるような詩です・・・」と言い、突き出たものは男性、へこんだものは女性、などということを詳しく話したという。(前掲『宮沢賢治の肖像』)この逸話は、賢治がフロイトの理論に精通していたことを示している。また、「フロイド学派の好材料になるような詩」という述懐は、賢治の詩観を端的に表し、さらに、前述の「或る心理学的な仕事の仕度」という記述と重なり合う。この、フロイトとの関わりに、私は、賢治と心理学との接点を見いだすのである。

 『春と修羅』について考える上で重要な手掛かりとなるのが、童話集『注文の多い料理店』(大正13年12月1日刊行)である。賢治は自ら手掛けた広告ちらしに、「この童話集の一列は実に作者の心象スケッチの一部である。」と書いていて、形こそ違え、童話集『注文の多い料理店』は、『春と修羅』と同じ「心象スケッチ」という手法で書かれたものと考えていい。ゆえに、『注文の多い料理店』について考えることが、『春と修羅』について考えることにもなり、ひいては「或る心理学的な仕事」について考察する足掛かりとなる。
 賢治はその童話集の序において、

  (略)
 これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらつてきたのです。
 ほんたうに、かしはばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかつたり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ふるえながら立つたりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないといふことをわたくしはそのとほり書いたまでです。
 ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでせうし、ただそれつきりのところもあるでせうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでせうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
 けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになることを、どんなにねがふかわかりません。

 と述べている。この描写から読み取れるのは、賢治は自分の意識操作で作品を作り上げているのではないということだ。自分の書いたものが「わたくしにもまた、わけがわからない」と述べていることでそれが解る。いわば、無意識によって書かれたものということになる。それを裏付けるのが、賢治が後に書いた『農民芸術概論要綱』である。その中に

 諸作無意識中に潜入するほど美的の深と創造力はかはる
 機により興会し胚胎すれば製作心象中にあり
 練意了って表現し 定案成れば完成せらる
 無意識即から溢れるものでなければ多く無力か詐欺である

 とあり、またこの講義を受けた生徒のノートによると、「世界の発見等や、真実の学問等は有識部からで無くして皆無意識部から生ずのである、」と記されており、賢治は無意識から生じる現象に信頼をおき、また自分でも実践していたことになる。
 
 さて、さらに賢治の言う無意識について見てみると、『注文の多い料理店』のちらしにはさらに、

 これらは決して偽でも仮空でも窃盗でもない。
 多少の再度の内省と分折(原文ママ)とはあつても、たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。

 と記している。これらを整理、分析すると、「心象の中に現はれたもの」イコール「心象の深部に於て万人に共通」となる。
 フロイトは、無意識を個人の過去の忘却された記憶の集積としており、賢治の述べる無意識は、フロイトの弟子であるユングが標榜した集合的無意識という概念に近い。ユングの集合的無意識とは、「個人的ではなく普遍的」であり、「すべての人間においてつねに同一であり、したがって超個人的性質のだれにでもある普遍的な心の基層をなしている」(『ユングの象徴論』 ユング 思索社 昭和56年)とされる。賢治とユングとは同時代で、賢治がユングの著作に触れた可能性は考えられるが、ユングが集合的無意識を発表したのは賢治の没後であるから、賢治がそれを読んだとは考えられない。二人は、フロイトに触発され、時代の趨勢によって独自に同じ概念にたどり着いたと見るのが妥当であろう。
 また賢治は、心象の中に現れたものは万人に共通であると述べているから、従来様々な論議を呼んでいる「心象」の解釈についても、説明できる。すなわち、心象とは、集合的無意識、またはそれ以上の深い意識の状態を指すものと考えられる。

 賢治の童話は、半ば家での状態で上京した時に、月に3千枚という猛烈な早さで執筆され、また『春と修羅』は、ノートとシャープペンシルを首にぶら下げ、歩きながら執筆されたという。これを考えると、賢治はやはり、無意識の状態で執筆したことを思わせる。賢治の原稿は、校本と呼ばれる全集があるのを見ても解るように、推敲が多い。全集の本文と校異との割合は、むしろ校異の方が多いくらいである。まず、無意識の状態で執筆し、それから意識的に細かい部分を修正していく、という流れが考えられ、これも賢治の無意識による執筆を裏付けている。
 このように、賢治の意図した「或る心理学的な仕事」とは、深い部分の無意識を直感した賢治が、その存在を証明しようとした、すなわち、賢治がおのれの中に生起する現象を「心の深部に於て万人に共通である」ことを証明しようとしたものだというのが私の見解である。
 さらに、意識より、より深い無意識部分から出現する現象により芸術や学問的価値を重く見て、自身それを実行していたところに賢治の特徴がある。
 賢治の作品は言わば、‘無意識の文学’とでも言うことができるだろうか。
 ゆえに、賢治の作品の解釈も、無意識をたどる深層心理学的なアプローチを試みれば、全く違った世界がひらけ、従来難解とされていた部分の解釈も、無意識的には整合性を持ったものであることが理解されるであろう。
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 四、  心理学を超えて

 さて、前章では、賢治と心理学との関わりを述べたが、それで賢治の心の問題が全て解決されたわけではない。賢治が抱える問題は、心理学という学問領域で説明できる範囲を大きく超えてしまうものでもあった。それは、心理学が科学として出発した時から置き去りにしてしまった領域である。それをこの章で扱いたい。 
 『春と修羅』の序は、賢治について論じるものはこれを避けて通れないと思われるほど、おおく引用され、論じられてきた。それだけ難解で、魅力的であるのだが、その冒頭を少し引用する。

 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしよに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりは保ち その電燈は失はれ)
 
序はここから延々と続き、さらに難解になっていくのだが、私が注目するのは、この冒頭部分の賢治の自身に対する認識である。そこでは、自身を明滅する青い電燈の光りにたとえ、(あらゆる透明な幽霊の複合体)と描写する。
 従来、この序を扱ったほとんどの論は、この(あらゆる透明な幽霊の複合体)については素通りしている。それは常識の理解の範疇を超えるからであろう。賢治とランボーを比較して論じた栗谷川虹は、この部分に触れているが、入沢康夫に、「著書の全体から、私は強烈な「真実への肉迫」の感覚を嗅ぎとる。賢治の「心象スケッチ」の実体が、これほど身近から、生々しく見据ゑられたことはなかつたのではないかといふ気さへする。」(別冊国文学 宮沢賢治必携」 学燈社 昭和55年春季号)と評された氏でさえ、「「幽霊の複合体」という言葉は、全く理解しにくい」と述べ、「「私という現象は・・・(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という時、賢治は、ある生活者の見た夢や幻覚を語ったのではない。自分の意識構造そのものを語ったのである。だがそれは、統一ある意識ではなく、あらゆる幽霊がただただ寄り集まったに過ぎない分裂した意識であった。」(『宮沢賢治 見者の文学』 栗谷川虹 洋々社 昭和58年)と結論づけている。しかし、賢治はすぐ後に「いかにもたしかにともりつづける」と述べており、栗谷川の言うように、「統一ある意識ではなく」「分裂した意識であった。」という状態から程遠いのは明白である。

 以前に、心理学が科学として出発したと同じ時期にそれを補償するかのように心霊研究が起こったことに触れたが、実は、同時期、心霊研究、心霊主義とは別のもう一つの流れが生じていた。それがブラバッキー、オールコットなどによる神智学の台頭である。整理すると、神智学協会の発足が1875年心理学実験室の創設が1879年、心霊研究会が1882年の結成である。これらの流れはそれぞれ独立したものであり、それが10年以内につぎつぎと起こっているのは興味深く、また、19世紀末という時代を考えるうえで何らかの示唆を与えてくれることに違いない。もちろん、この事実は、賢治を考えるうえでも意味深いことである。
 神智学は、人種、宗教、身分の区別を持たない友愛精神の普及、古来の世界宗教の比較研究と普遍的倫理の提示、各人の内に潜む神的な力の研究と開発、の三大目標を掲げ、会員を増やしていた。日本でもその受容は早く、明治18年(1885)にオールコットの『A Buddhist Catechism』が『仏教問答』として訳され、我が国の仏教徒に影響を与えた。明治22年(1895)に心霊思想家の平井金三らの働きかけによってそのオールコットが来日している。明治43年(1916)にブラバッキ-の『The Key of Theosophy』の訳出である『霊智学解説』が出版されている。(当時は神智学と言わずに霊智学と言った)
 その神智学から独立したのが、ルドルフ・シュタイナーが提唱した人智学である。シュタイナーは、神智学協会ドイツ支部の事務局長を務めた後、1913年、人智学協会を設立した。人智学は、神智学と人類学、または、科学と霊界認識を仲介することで、物質文明が発達しすぎた当時の風潮に秘教内容の意義を見いだそうとする。

 賢治の講義を記した伊藤清一のノートには、(霊智教)と断片的にではあるが記され、賢治が講義の中で触れたことを示し、賢治が神智学を知っていたことを表している。
 なぜここで神智学を持ち出したかというと、賢治の(あらゆる透明な幽霊の複合体)という考え方に一番近いのが、神智学における人間に対する認識なのである。それによると、人間は肉体という物質だけからなるものではなく、他にアストラル体、メンタル体、コーザル体、という微細な粒子からなる体、いわば霊的身体をもっているという。それらは順に肉体を取り巻き、より微細で、より高次元の存在であると言う。また、アストラル体、メンタル体をそれぞれさらに高次、低次と分ける考え方もある。そして、精神の次元が高くなるに連れて、それらの存在を認識できるようになると説く、さらにこれらを総括して‘幽複体’と日本語に訳す。すなわち、賢治の言う、「幽霊の複合体」に極めて近い語感である。それだけでなく、肉体のすぐ外側を包んでいるというアストラル体は、青い色をしているといわれ「透明な青みを帯びてきらめき、この世のものとも思えないぐらい美しい」(『臨死の深層心理』 ヤッフェ他 人文書院 平成5年)と描写される。賢治の「透明な」「青い照明」「せわしくせわしく明滅しながら」という表現とも一致する。

 もうひとつ、賢治の描写の可能性として、オーラという概念が考えられる。これは神智学に限った概念ではないが、人体から発する霊的な放射体で、数センチから1メートル近くの厚みで身体を取り巻いているという。後光や背光などもこのオーラが発達したものとされる。W.J.キルナーはこのオーラの科学的解明に挑み、ジシアニン・スクリーンという2枚のガラスに感光染料ジシアニンのアルコール溶液を満たした装置を考案した。そのスクリーンを通すとオーラが可視状態になるという。それによると、色の違う3つの層が識別できたという。それをエーテル複体、内オーラ、外オーラと名付けた。キルナーはそれを1911年、『人間の雰囲気』という書で発表している。

 それでは、賢治は、(透明な幽霊の複合体)という認識を神智学、またはキルナーなどから学んだのかというと、そうではないと思う。賢治は学んだのではなく、実際に自身でそれを見た、というのが私の見解である。それを説明するのが前述の病体験、あるいは臨死体験である。賢治が病の時を契機として青い世界を詠んでいることは前述のとおりである。
 臨死体験者と、いわゆる超能力との関連の調査は、ブルース・グレイソン、リチャード・コール、チェリー・サザーランドらがそれぞれ独立して行ったが、それらのどれもが、オーラを見る、または感じる、といった知覚が体験後に備わった、という項目に有意義な変化が見られる。

 いかりがかっと燃えて身体は酒精に入った様な気がします。(中略) いかりは赤く見えます。あまり強いときはいかりの光が滋くなって却て水の様に感ぜられます。遂には真青に見えます。
                    (1920年6〜7月 保阪嘉内宛書簡)

 賢治のこのような描写も、オーラという概念を持ち出せば、容易に理解できる。興味深いのは、ダニエル・A・カインツによって撮影された人体から発するオーラの写真である。それには赤い色のオーラは怒りを表すことが示されているが、賢治が「いかりは赤く見えます。」と描写したのと一致する。
 賢治の作品には青の描写が極めて多く、また同じ青でも微妙な違いを多用に表現しているが、その深層も、このオーラという視点からとらえ直してみると新しいものが見えてくるかもしれない。しかし、アストラル体、またはオーラといった現象は現在でも完全に科学的に解明されるには至っておらず、現在のところは、推測でしか論じることができないのが残念である。 

 賢治は、これ以外にも前述のように、常識では割り切れない体験を多くしている。自身で身をもって体験しているからであろうが、賢治はこうしたいわゆる超能力といった現象を信じ、それを科学的に解明することも考えていたようである。童話『銀河鉄道の夜』の初期形では、物語の最後に、ブルカニロ博士という人物が登場し、旅を終えた賢治に、
 
 私は大へんいい実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を人に伝える実験をしたいとさっき考へてゐた。お前の云った語はみんな私の手帳にとってある。

 と語る。「遠くから私の考を人に伝へる実験」とは、いわゆるテレパシーのことを指すと思われる。前述のように、賢治は、「現在の学問、科学では霊媒を認めないが、精神感応だけはみとめる様になった、」ととらえており、精神感応、つまりテレパシーの存在を感じ、また、科学的に立証されたものとしてとらえていたのである。
 ここから先は私の直感的想像でしかないのだが、前章で扱った、賢治の「或る心理学的な仕事」には、無意識の活動の延長上にあるものとして、精神感応など、いわゆる超能力も含まれていたのではないか、と思う。その根拠は次の二つである。
 一つ目。『春と修羅』第一章には、とし子の記述に託して死者との通信を扱っている。また、第二集に関して記したメモに、

 わがうち秘めし
 異事の数、
 異空間
    の断片

 というものがある。異空間と書く前行に、「幽界のこ」と書きかけて、上に線を引いて消した跡がある。これらの作品は、「異事」「異空間」「幽界」のことを含んだ作品でもあるのである。
 もうひとつ、「心象スケッチ」という語にも謎がある。「心象」という語は、その起源や方法などをめぐってこれまた多種多様に論議されてきたが、この‘心象’は、「大正末年のころは、けっして一般的な用語ではなかった」「賢治に影響したと思われるものはあまり見当たらない。」(『宮沢賢治論 3』 恩田逸夫 東京書籍 昭和56年)と言われ、また「心的現象」の略(『宮沢賢治とドイツ文学』 植田敏郎 大日本図書 平成元年)などと言われてきた。しかし、明治42年にその名も『心象 及び其の実験』という著書が刊行されている。これは全編いわゆる超能力について語った著書で、そういった能力そのものを指して心象と名付けている、そうした能力の種類を箇条書きに挙げた後、「本篇に於ては、前記の心象に就て逐一実験を挙げ、解釈を加え、自も他も、実行し得べきものたることを明かにせんとす。」という科学的な態度を取り、通俗的著作とは一線を画していることを強調している。また、明治42年(1909)に『心霊の現象』を出版した、心霊思想家として知られる平井金三は、‘心象会’という組織の代表であった、など心象という語は、心霊現象を表す意味合いで使われていたのである。 
 これらと賢治とのつながりはさらなる調査を待たねばならず、ここに現段階での調査結果を記すに止める。しかし、このいわゆる超能力と賢治というテーマはまた、賢治の作品を読み解くうえでひとつのキーワードとなることを私は確信している。 
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 第二章  「菩薩仏並に諸他八界依正の実在」

 この章では賢治と仏教について扱う。賢治と仏教との関わりについては私が強調することもなく、多くが論じられ、また宣伝され、すでに周知の事実であり、口を挟む余地は無いように思われる。しかし、私は例によって賢治の感覚、感受性を柱に据えて、賢治の仏教観を捉え直すことで、従来の賢治−仏教論とは違った新しい観点を見いだすことが可能であると考えている。
 賢治は幼い頃から父政次郎の影響を受け、多分に宗教的環境の中で育った。政次郎が主催する仏教講習会を手伝う関係から、幼い頃から多くの宗教家と接し、その影響をも受けた。政次郎は、浄土真宗の信徒であり、賢治もある時期までは、

 小生はすでに道を得候 歎異抄の第一項を以て小生の全信仰と致し候 もし尽くを小生のものとなし得ずとするも八分までは得会申し候 念仏も唱え居り候。仏の御前には命をも落すべき準備充分に候 幽霊も恐ろしく之れなく候 何となれば念仏者には仏様といふ味方が影の如くに添ひてこれを御護り下さるものと承り候へば報恩寺の羅漢堂をも回るべし (略)
              (大正元年11月3日、父宛書簡 賢治16歳)

 というように、浄土真宗を信奉していたのである。
 その賢治が、父に反して、法華経の信者になってしまう。
 従来、賢治と法華経との出会いの関わりについては大きく二つの説に分かれる。
 ひとつは賢治が父の書斎で島地大等著『漢和對照 妙法蓮華経』を見つけ、それを読んでいるうちに身が震えるような感動を受け、一瞬のうちに法華経に傾倒してしまったというもので、これは賢治の実弟の清六(『兄のトランク』 宮沢清六 筑摩書房 昭和62年)、校本全集の賢治の詳細な年譜を編纂した堀尾青史、また賢治と法華経との出会いを「一枚の絵を見たり一曲の音楽を聞いて、画家や音楽家がまったく新しい境地に達するのに似た、一種の芸術的感動のようなものであって、深い研究や長いあいだの勉強の結果によるものでなかった」(『銀河鉄道をめざして』 筑摩書房 昭和60年)とする板谷栄城などの見解である。
 もうひとつはこれらに異をとなえる形で提出される、賢治の法華経理解は、賢治が後に入会することになる国柱会の創設者、田中智学から日蓮、法華経と、いわば、時間的、論理的に進んでいく、とする説で、その論拠として、「〈感激〉あるいは〈感動〉するほどの理解ということは、並々の理解ではない」とし、「法華経は十代の少年が簡単に理解出来るものではない」(『宮沢賢治 その理想世界への道程』 明治書院 昭和60年)と結論付ける上田哲、また賢治と法華経との出会いについて「エピソードもなければ、短歌にも歌われていない」し、「この後も浄土真宗の「歎異抄」講話を聞いたりしている」ので、「賢治がこの段階で、法華経に傾倒したと思えない。」(年表作家読本 宮沢賢治』 河出書房新社 平成3年 3版)とする山内修などの見解である。

 私は、この賢治の法華経への改宗が前述のチフスの直後以降であることに注目したい。前章でチフスと臨死とを結び付けて論じたが、臨死体験者の共通項に「人格の変容」という項があった。それを、賢治の改宗と結び付けるのである。「人格の変容」とは、体験の後に以前と性格が変わってしまうことを言い、世俗的なことに興味をなくす、人に対して思いやりをもてるようになった、などがあるが、特に、以前に比べて宗教的になるケースが圧倒的に多いといい、「以前には宗教に何の興味を示さなかった者が、体験後に急に教会や寺院へ通うようになったり、逆に何の疑問も持たずに宗教を信仰していた者が、その教えを疑いだしたり」(『死の体験』 カール・ベッカー 法蔵館 平成4年)するという。賢治の改宗も、臨死体験を契機とした「人格の変容」であって、時間的な積み重ね、また論理的な積み重ねなどの思索によるものでなく、キリスト教でいう、‘回心’に近い、瞬間的、直感的な、一種の宗教体験であったというのが私自身の見解である。
 賢治の仏教観に特徴的なのは、前述のメモのように「菩薩仏及び諸他八界依正の実在」を論理的に証明しようとしていたことでも解るように、その感受性から、仏教の提示する世界観を実在のものと直感していたことである。

 (一躍十万八千里とか梵天の位とか様々な不思議にも幻気ながら近づき申し候)
                      (1918年2月23日 父宛書簡)

 賢治の感受性はこの1918年頃から頂点に向かう。この頃賢治は、高等学校卒業後の進路に悩み、また、家と己れの信仰との間の板挟みになっていた。このことが賢治の神経を極度に鋭敏にする。しかし、感受性が高まることは、同時に精神が不安定になりやすい、ということでもある。

 私の世界に黒い河が速にながれ、沢山の死人と青い生きた人がながれを下って行きまする。青人は長い手を出して烈しくもがきますがながれて行きます。青人は長い長い手をのばし前に流れる人の足をつかみました。また髪の毛をつかみその人を溺らして自分は前に進みました。あるものは怒りに身をむしり早やそのなかばを食ひました。溺れるものの怒りは黒い鉄の瓦斯となりその横を泳ぎ行くののをつつみます。流れる人が私かどうかはまだわかりませんがとにかくそのとほりに感じます。
                   (1918年10月1日 保阪嘉内宛書簡)

 ここには地獄絵図そのものといった光景が描かれ、賢治の内面の葛藤を思わせる。何度もいうように、賢治はこれを観念の上で語っているのではなく、「とにかくそのとほりに感じ」ているのである。
 ここからさらに、妹とし子の病気の看病、また親友、保阪嘉内との信仰上の確執といった問題が絡まる。1919年からの保阪に宛てた賢治の書簡は、ほとんど狂人かとも思われるほど、饒舌で、支離滅裂な内容である。
 この賢治を支えたのが信仰であり、法華経であったのだと思う。賢治は1920年12月に、在家の仏教団体である国柱会に入会している。この頃賢治は、寒修行と称して、町中を題目を唱えながら歩き回るといった行動を取っている。また、翌年1月に国柱会を頼って家出上京している。賢治の童話のほとんどがその上京時に書かれたものである。これら童話は、頂点に達した感受性に、信仰心といった方向性が与えられて成立したとするのが私の見解である。作品だけでなく、賢治の生涯も、信仰によって方向性を与えられたといえる。逆にそれほどの熱烈な信仰が必要なほど、この時期の賢治は精神的に窮地に立っていたとも言える。

 さて、ここで注目したいのが、賢治が国柱会に入会した際に入手した曼荼羅である。私はこれが後の賢治の仏教観を形成する上で重要な役割を果たしたと考える。
 ここでいう曼荼羅とは、日蓮が考案した、文字だけによって描かれた、いわゆる‘ひげ曼荼羅’である。
 それは、日蓮自身の説明によると、「首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に座し・釈迦・多宝・本化の四菩薩肩を並べ普賢・文殊等・舎利弗・目連等座を屈し・日天・月天・第六天の魔王・竜王・阿修羅・その外不動・愛染は南北の二方に陣を取り・悪逆の達多・愚痴の竜女一座をはり・三千世界の人の寿命を奪う悪鬼たる鬼子母神・十羅刹女等・しかのみならず日本国の守護神たる天照大神・八幡大菩薩・天神七代・地神五代の神神・総じて大小の神祇等・体のつらなる・其の余の用の神あにもるべきや、宝塔品に云く「緒の大衆を接して皆虚空に在り」云々、此等の仏菩薩・大聖等・総じて序品列座の二界八番の雑衆等一人ももれず、此の御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる是を本尊とは申すなり。」(日蓮大聖人御書全集』 堀日亨編 日蓮正宗大石寺版 昭和27年)というものである。要するに、三世、十界すなわち、時間と空間とを表現するすべての神仏が、立体的に描かれているのだという。

 童話『銀河鉄道の夜』で、銀河鉄道に乗車した際にジョバンニの持っていた切符がこの曼荼羅ではなかったか、という説を紀野一義がとなえているが、(『賢治の神秘』 佼成出版 昭和60年)、私もそれに賛成である。これが賢治の曼荼羅観を解く鍵になる。それは、乗車中に車掌が検札に来るというくだりで、ジョバンニは切符を持った記憶がないが、友人カンパネルラは「わけもないといふ風で、小さな鼠いろの切符を」車掌に渡す。ジョバンニは「すっかりあはててしまって」上着を探ると、紙切れが入っていたので、「車掌が手を出してゐるもんですから何でも構はない、やっちまへと思って」車掌に手渡す。すると車掌は「まっすぐに立ち直って丁寧にそれを開いて見てゐました。そして読みながら上着のぼたんやなんかしきりに直したり」した。ジョバンニは「たしかにあれは証明書か何かだったと考へて少し胸が熱くなるような」気がする、というものである。その切符は「四つに折ったはがきぐらゐの大さの緑いろの紙」で、「いちめん黒い唐草のやうな模様の中に、おかしな十ばかりの字を印刷したもの」だと描写され、曼荼羅を連想させる。
 賢治はジョバンニに託して、その切符を「だまって見てゐると何だかその中へ吸ひ込まれてしまふやうな気がする」と述べている。また、登場人物の一人に「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんたうの天上へさへ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行ける筈でさぁ。あなた方大したもんですね。」と語らせている。

 様々な「異空間」を感じる賢治は、この曼荼羅にその究極を感じ、自身の感じとる世界が狂気から来るものではなく、裏を返せばむしろ普遍的で、聖なるものに近いことを感じさせ、自信を持たせるとともに、指針として以降の生涯を支える柱となったのではないかと思われる。
 臨死体験による「人格の変容」に始まった賢治の真の信仰は、この曼荼羅との出会いによって、完成され、その方向性を与えられたといっていい。この直後、賢治は本格的な童話制作を始め、驚異的な早さで執筆を続けるが、その深層にはこうした内的体験の経緯が隠されているのである。
        
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 第三章  「心的因果法則の実在」

 この章では、賢治がメモの三項目に挙げた「心的因果法則」について扱う、
 因果とは、仏教の用語で、ものごとには原因と結果があるという法則である。森羅万象にはこの因果律が貫かれているとし、人の心についていえば、善因には善果、悪因には悪果が巡ってくるとする。仏教に傾倒する賢治が、因果に関心をもち、造詣をもつことは当然であるが、この概念を賢治は何によって証明しようとしていたのかというと、易によってである、というのが私の見解である。ゆえに、この章では賢治と易との関わりについて述べ、またそこから派生する問題について、試論的に論じてみたいと思う。

 現代では、易はほとんど過去の遺物となっているようで、単なる街角の占い、ぐらいが大方の易に対する認識であると思う。賢治が明確に易との関わりを述べているのにかかわらず、従来易と賢治とを結び付けて論じたものが皆無であることが、(前述の『宮沢賢治語彙辞典』には、語釈として断片的に、取上げられてはいる。)易についての認識を物語っているようだし、また、従来の賢治研究の偏狭さを表していると思う。
 そもそも易は、古代中国で占筮という方法から出発した長い歴史をもつ占いである。それが次第にテキストが整えられ、周の時代に発達したので、周易とも呼ばれる。前漢の時代に儒教が国家公認の学とされると、四書五経のテキストの内、五経の筆頭にあげられ、極めて重視された。後の魏の時代の王弼が、易を哲学書、または智慧の書としてとらえ直して以来、易を占いとする見方と、哲学書とする見方の二通りに別れた。前者を占筮派と呼び、後者を義理派と呼ぶ。以来、両者は互いに合反を繰り返しながら、易を占いとして再びとらえ直した朱熹(朱子)などを挟んで、現代まで綿々と易を保っているのである。

 一方、日本には、5、6世紀ころに伝わり、大宝令によって大学の教科書のひとつに制定された。また陰陽寮が設置され、天文、暦などと並んで、ト筮と司った。平安時代には大江匡房などが易占を得意とし、また王侯貴族の間で易経は愛読された。中世で唯一の学校とされる足利学校は、易占、易学の中心でもあった。下って江戸時代に儒学が興隆するとともに、易経に研究はさらに盛んになり、複雑な占法を簡略化した日本独自の方法なども生み出され、加賀藩明倫堂の学頭も務めた新井白蛾(1714〜92)といった大家も登場した。これらの歴史と昨今の易観を鑑みると、隔世の感があり、感慨深いものがある。

 次に基本原理を簡単に説明すると、まず、大極から生じた陰と陽という相対的な二原理を想定し、それを三つ組み合わせて、八卦を定める。すなわち、乾(天)、兌(沢)、離(火)、震(雷)、巽(風)、かん(左に土右に欠)(水)、艮(山)、坤(地)である。これらは天地間に生じる自然の象になぞられる。この八卦を二つ組み合わせることで、八×八=六十四の卦を導きだす。これら卦のそれぞれ六つの陰または陽をこう(カタカナのメを上下に書く字)といい、それぞれのこうに説明がついている。これらで、天・地・人、三才の全てを説明しようとするのが易である。占いの場合は、筮竹などを使用して六十四卦の内一つを選び出し、またその卦の特定のこうを選び、解釈していく、宇宙間の事物は変化するという思想の通り、(易の英語名は The Book of Changes という)選ばれた卦は一定の法則の下に別の卦に変化する。占い方そのものより、占う内容にあった解釈がより難しく、各人の技量の問われるところでもある。

 さて、賢治がどういうきっかけで易を知ったのかは資料がないが、賢治と易との関わりを示すものはある。それを検討してみたい。
 まず、賢治の残した蔵書の中に易学書が十数冊と記録されている。(『評伝 宮沢賢治』 境忠一 桜楓社 昭和43年(小倉豊文による調査))(余談ではあるが、記録では、易学書十数冊、と十把一からげで、書名、出版社などは省略されており、ここにも易への偏見を垣間見るようだ。これらが詳細に記録されていれば、易と賢治とのつながりはもっと明確に輪郭を描けたに違いない。偏見が学問の進歩を妨げるのは、いつの時代でも同じである。)易に関する書は、いつの時代でも膨大な数に上り、賢治がどの書を持っていたのか、特定できないのが残念である。

 また、詩『〔濃い雲が二きれ〕』に

 濃い雲が二きれ
 シャーマン山をかすめて行く

     (何を吐して行ったって?)
     (雷沢帰妹の三だとさ!)

                          (略)

 とある。校異では、雷沢帰妹の「三」の前稿は「変二」となっており、さらに、「水山(不明一字)」を消して「雷沢帰妹」としている。
 「雷沢帰妹」とは、易の卦のうちのひとつで、「帰妹は征けば凶なり。利ろしきところなし。」(『易経 下』 高田真治・後藤基巳 岩波書店 昭和44年)とあるように、64卦の内でも最も凶相に数えられるものの一つで、具体的には、降りかかってくる災難や、不幸な結婚などを意味する。また「三」とは、帰妹の内の三こうめが老陰である(陰陽にも少と老の別があり、老はより陰、または陽の熟した状態であり、変化し、別の卦となる要因を作る。)ことを意味する。校異にある「三」の前の「変二」とは、第二こうが変こうであることを意味し、消された「水山」とは、卦のひとつである水山けん(けんけんのけん)を示していると思われる、けんもまた、「けんは、難なり」の記述のように、凶相のひとつである。賢治はここで、凶を表す象を登場させる意図を持っていたようだ。 

 詩自体は難解であるが、シャーマン山とは、占いとシャーマンとが何らかの関係をもつものと思われる。『宮沢賢治語彙辞典』では、「濃い雲二きれ」の形を、雷沢帰妹の三、すなわち、陰のこうと符合させていることを指摘しているが、至極妥当であると思われる。
 易には、梅花心易といって、目に映った事象を卦に見立て、道具を使うことなく占うという、卦の象を高度に応用した占法がある。賢治はこの梅花心易についてもよく知っていたと思われる、
 この詩の内容や、推敲の跡からは、賢治は易について一通りの知識を持ち、専門的な事柄までをも知っていたことが読み取れる。賢治の実証的、また好奇心の強い性格から言って、賢治自身で卦を立てた経験があると考えてもおかしくはない。

 賢治の世界観にモナドという概念は重要な位置を占めるが、その提唱者であるライプニッツは易を知り、その陰陽、64卦の原理に、自身暖めていた二進法の原理に相通じるものを見いたし、中国古代の叡智に驚嘆している。そのことを賢治が知っていたことは充分考えられ、賢治が易に注目した一因になっている可能性もある。
 さて、賢治が一通り易についての知識を持っていたことを検証したが、それでは、その易を賢治はどう見ていたか、また、「心的因果律」とどうつながるのかを見てみることにする。
 
 易の といふ原理面白く思ひます。みんなが「吉」だと思ってゐるときはすでに「吝」へ入ってゐてもう逆行は容易でなく、「凶」を悲しむときすでに「悔」に属し、明日の清楚純情な福徳を約するといふ科学的にとてもいいと思ひます。希って常に凶悔の間に身を処するものは甚自在であると思ったりします。古風な点お笑い下すってかまひません。

 これは、1933年(昭和8)3月30日、病中の賢治が森佐一に宛てた書簡からの抜粋である。(賢治はこの年の9月22日に亡くなる。)
 この吉・凶・悔・吝の原理が、賢治が易に見いだしたエッセンスである。これらの言葉は度々こうの中に見出すことができ、また、易の説明である、繋辞上伝のなかには、「吉凶とは得失の象なり。悔吝とは憂虞の象なり。」(前掲『易経 下』)とある。

 賢治はこれと同じ図式をこれ以外に二つ残している。ひとつは、童話『貝の火』の清書後の原稿の題名の上に、直径5センチ位の円の中に書かれている。
 『貝の火』は、うさぎの子ホモイが、溺れかけたひばりの子を助けた縁で、鳥の王から貝の火をもらう。貝の火とは「あなた様のお手入れ次第で、この珠はどんなにでも立派になる」という宝珠である。ホモイは、立派な人物になることを誓うが、狐にそそのかされ、貝の火の威光をかさに慢心してしまう。結局、たった6日で貝の火の光は消え、煙のように砕け、ホモイは貝の火を失うとともに、砕けた際に粉が目に入り視力も失ってしまう、という物語である。
 この物語も、他の童話と同じく、様々な解釈を許し、論議されてきた。貝の火の典拠を法華経の「安楽行品大十四」に求め、物語を法華経説話とする紀野一義(『宮沢賢治と法華経』 普通社 昭和35年)、また、慢心への罰という主題が、「方便品第二」「譬喩品第三」に由来するとする天沢退二郎(『宮沢賢治の彼方へ』 思潮社 昭和43年)などが代表的である。しかし、賢治自身が吉・凶・悔・吝の図式を書き、また「因果律を露骨ならしむるな」と表紙に書いているところからも、この童話の主題が「因果律」であり、易を念頭に置いたものであることは明らかである。これは賢治の心的因果律のモデルケースであると考えるのが妥当である。

 もうひとつメモにこのこの吉・凶・悔・吝の図式が記されている。そこには、書簡でみたような説明を、簡単な数式を交えて、書き留めてあり、説明は中断され、

 序 
 図式 
 典拠 
 四境ノ解訳(原文ママ)
 四境移化ノ法則
 応用、
 結

 と書かれている。これも著述を意図したものであるようだ。
 ここに、賢治が「心的因果法則の実在」を具体的に証明しようとした痕跡が見いだせる。賢治は

 法華経入門二際シ 高等数学ニヨル解釈ノ可否

 ともメモに残していて、信仰の世界を数式として普遍的に示すことを目指していたことが解る。であるから、この易の解釈に数式を用いたのも、同じ発想からであろう。

 しかし、著作を断念したのか、それともその生涯の終わりに間に合わなかったのかは解らないが、記述は中断されている。賢治が『注文の多い料理店』の序で、「これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまひ、あなたのすきとほつたほんたうのたべものになる」ことを願ったように、論理的な手段でなく、感覚に訴えかけ、無意識に直接訴える、といった意味では賢治の意図は達成されているのかしれない。

 ここで、流れを変えて、賢治と同時代に生き、また、同じく易に興味を持った一人の人物に登場してもらい、その人物と、賢治との比較で賢治の立場を明確にすることを試みたい。
 その人物とは、本論文にも何度か登場した、C.G.ユングである。ユングは、易経をドイツ語に翻訳したリヒャルト・ヴィルヘルムとは友人の間柄でもあり、それが英訳される際、序文を寄せてもいる。ユングは師フロイトと決別した後、東洋の思想、哲学、宗教に自己の心理学の将来への突破口を見いだし、模索していた。易とは、その頃に出会ったようである。「この占いの方法が心理学的にみて重要なものであると思ったので、易の占いを試みていたのであった。」というように、ヴィルヘルムと出会う前にすでにレッグの英訳易経によって易を知っており、ノコギリ草の茎を切ったものを使って実際に卦を立ててもいて、「ヴィルヘルムに初めて出会ったころには、私は、易経についてかなりよく知っていたのである。」と告白している。

 そのユングの易観を引いてみると、「易経が現実を見ようとするときのやり方は、われわれの因果的なやり方をしりぞけているように思われる。」とし、中国人の精神には、「われわれが暗合(偶然の一致)とよぶような事柄が主要な関心事であって、われわれが因果性として尊重しているような事柄はほとんど注意をひいていない。」と述べている。この易の考え方に触発され、ユングは、共時性(synchronicity)という、「空間と時間における複数の出来事の間にみられる特異な相互依存関係を、単数または複数の観察者の主観的(心理的)状態まで含めて、とりあげる」ような、「因果性の観念とまったく対立する見方をあらわす概念」(括弧内全て『東洋的瞑想の心理学』 ユング 創元社 昭和58年)を産するのである。これは、賢治が易に因果性を見いだしたのとは全く反対の方向性である。東洋人である賢治が、易を「科学的にとてもいい」と述べ、本来合理的であるべき西洋人であるユングが、易に共時性という非合理的な概念を見いだしたのは興味深い。どちらが正しい考え方かは、とちらをも擁する、といった許容の広さが易にはあって、易自身は語らず、容易に決められないことではあるが、共時性という概念が現在注目を浴び、また、現代物理学などがその非因果的な世界を証明しつつあることを考えると、ユングが視点をキリスト教から離し、自身の中の西洋的世界観と東洋の世界観とを対立させたうえで思考したのに対し、賢治は易を、持ち前の仏教の考え方を擁護的に補足しようと解釈を試みたところが二人の差であり、そこに賢治の地域的、歴史的な限界があったとも言える。
 (余談ではあるが、ユングもライプニッツのモナド論に傾倒した一人であり、モナド観によって結ばれる三者が、それぞれ易に興味を持ったという符合は偶然を越えるものを感じさせるし、またその易から、ライプニッツは二進法、ユングは共時性、賢治は因果律、と三者三様の概念を導き出したことも興味深く、一考の余地があるように思われる。)
     
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 結論 「新信行の確立」

 賢治は、これまで述べてきた様々なことを何らかの形で統合することで、「新信行の確立」を企図した。それが賢治の思想の上でも、また、実際の生活においても、その生涯の悲願であったのは、序において述べた通りである。
 それでは、いままで述べてきたことと、新信行とはどう関わるのか、また、新信行とは、さらに賢治の目指した新信行とはいかなるものか、を最後のまとめとして提出することで、本論文の結論としたい。
 「異空間の実在」「菩薩仏並に諸他八界依正の実在」「心的因果法則の実在」、一見何の脈絡もないようなこれらの言葉の中に、賢治はいかなるつながりを見たのであろうか。
 まず、「異空間」を証明することで賢治が打ち出そうとしたのは、

 唯物論ニ与シ得ザル諸点
 一、唯物論要ハ人類ノ感官ニヨリテ立ツ。人類ノ感官ノミヨク実相ヲ得ルト云ヒ得ズ。
 二、異空間に関スル資料

 というメモからも解るように、唯物論的風潮に対するアンチテーゼであった。世界は、今人類が感じているよりも多層の構造をしている、ということを証明することが「異空間」をここで賢治が持ち出した理由にほかならない。
 次に「菩薩仏並に諸他八界依正の実在」を証明することで賢治が意図したのは、三世、十界、すなわち時間と空間がやはり、幾重にも重なり合って世界を形成していることであった。その具体的な指針として位置付けられたのが、日蓮の考案した十界曼荼羅であることは前述の通りである。
 そして「心的因果法則の実在」を証明することで賢治は、因果、つまり時間と空間の有機的なつながりの中に一定の法則を見出すことを意図していたと思われる。その規範として、易の概念を使用する意図を持っていた。

 このように整理してみると、賢治がこれら3つの項目に託したのは、時間と空間に対する新しい視点であることが解る。それを3つの別々の観点から眺め、互いを補強させることを考えていたのであろう。
 そして、その新しい時間と空間の尺度の上に立って、「新信行」を確立することを提案しようとしていたのであろう。言い換えれば、新しいパラダイムの上に立脚した信仰の提案と言えるだろうか。
 「新信行」という言葉は、賢治の造語だと思われる。賢治がこの言葉に託したのは、信仰、つまり信じ、仰ぐことでなく、信じることと、行う、実行することが対等の位置を占めた、積極的に自身から関わって行くという動的なニュアンスであったと思う。賢治は言う、

 道を求める其の事に我等は既に正しい道を見出した、
 仏教で云ふ菩薩行より外に仕方があるまい
         (農民芸術 伊藤清一 講演筆記帳)

 信じ、行うことの規範をこのように、利他を根本とした「菩薩行」に見いだしたのであろう。
 また、賢治は従来考えられているように仏教だけを金科玉条のごとく盲信していたわけではない。近年、賢治とキリスト教との関係が少しずつ論じられているように、賢治は、キリスト教にも関心をもち、それなりに学んでいた。賢治の蔵書には聖書がある。また、盛岡高等農林学校時代には週一回のバイブル講義を聞きに行ったという逸話があり(『啄木・賢治・光太郎』 読売新聞社盛岡支局編 昭和51年)、講師であるタッピング牧師らとの交流の証言もある。童話『銀河鉄道の夜』は、風景や、賛美歌の登場など、キリスト教的な雰囲気に包まれている。また『ビジテリアン大祭』では「キリスト教の精神は一言にして云はば、神の愛であらう。神天地をつくり給ふとのつくるといふやうな語は要するにわれわれに対する一つの譬喩である、表現である。」と登場人物である「私」に語らせている。仏教とキリスト教の比較を通して賢治は仏教を自身の指針として選んだのである。

 また、賢治の残した語彙が、天文、気象、地学、農業、地理、園芸、科学、動植物、美術、仏教、キリスト教、エスペラント語、など多方面にわたっているのも驚くには当たらない(前述『宮沢賢治語彙辞典』参照)。賢治はさまざまな分野を学ぶことを通して、より普遍的な源泉をさぐることを意識していたのであろう。
 そして、賢治がエスペラント語を学んだ理由もここに理解できる。賢治の視点は、日本を離れて、世界を見据えていたのであろう。これは、今日の日本で取上げられる、いわゆる国際化という問題にも何事かを提起する。賢治の見たテーマを概観することは、国際化へのひとつの道を辿ることになると思う。
 さらに賢治は言う、

 ただひとつどうしても棄てられない問題はたとへば宇宙意思といふやうなものがあってあらゆる生物をほんたうの幸福に齎したいと考へてゐるものかそれとも世界が偶然盲目的なものかといふ所謂信仰と科学とのいづれによって行くべきかといふ場合私はどうしても前者だといふのです。すなはち宇宙にはじつに多くの意識の段階がありその最終のものはあらゆる迷誤をはなれてあらゆる生物を究竟の幸福にいたらしめやうとしてゐるといふまあ中学生の考へるやうな点です。ところがそれをどう表現しそれにどう動いて行ったらいいかはまだ私にはわかりません。
       (1929年12月 高瀬露宛書簡下書きより)

 当時の唯物論的風潮、科学万能に傾いて行く世相を見据えて、己の生を削りながら試行錯誤を繰り返し、「新信行」の確立を目指した、というのが宮沢賢治の真の姿なのではないだろうか。
 賢治の言う、「信仰と科学」というテーマは、近年になって様々な形で論議の的になっているものである。哲学、心理学、宗教、物理学、大脳生理学などが、各々の分野を突き詰めて行った先に、いつの間にか同じ地平を見つめていたらしいのである。特に最先端の科学分野であるほど、この傾向が強く、いわゆる「神」という問題に突き当たらざるをえないという。国際トランスパーソナル学会の組織化に加わった河合隼雄は、「宗教と科学との対話は、おそらく二十一世紀の極めて重要な課題となると思われる。」(『宗教と科学の接点』 岩波書店 昭和61年)と述べている。これらを考え合わせると、賢治の出現は、少なくとも、百年は早かったのである。時代における制約が、賢治をして迷わせ、その命を縮める要因ともなった。今日賢治が生きていれば「それをどう表現しそれにどう動いて行ったらいいかはまだ私にはわかりません。」と迷うこともなかったかと思われる。

 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう、けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだらう。そして勝負がつかないだらう。けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる。

 『銀河鉄道の夜』の初期形で語られる、この「実験でちゃんとほんたうの考とうその考とを分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」ことをまさしく現代の最先端の科学が予感し、また模索しているのである。
 臨死というテーマが新しい賢治観を提出したように、これから未来にかけて新しく様々な学問分野が開拓されるにつれ、賢治に対する切り口も増えて行くものと思われる。反対に、賢治を突き詰めて考えていくことで、新しい学問に貢献できる可能性も充分にあると思う。

 ○東洲斉写楽はあまり鋭く人を図写し過ぎ時の人が淋しく思ひ自分もいやに思ひさびしく死に、それから五十年かたって遠いフランスの画家達がその作品に驚嘆してゐるさうです。

 1919年4月、保阪嘉内に宛てて、賢治は諦めともつかない謎のような言葉を残している。それは、自身の評価に対する予言ともとれる。
 19世紀後半から、20世紀初頭にかけて、浮世絵の芸術的価値が先に海外で評価されて、日本に逆輸入されたとおなじような轍を踏み、賢治の真価が海外で評価されてからそれに気付く、といったことのないように、広く深い視点で賢治をとらえ直して、その本質的な真価を問いただすことが、21世紀を臨む、現在のわたくしたち日本人の急務ではないだろうか。
                  
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