「わらしべ長者」…子どもの成長には段階がある
子どもには、それぞれ成長のときがあります。その「とき」は、みんなそれぞれ違うのです。昔の人たちは、たくさんの子どもの成長を見てきたので、この「とき」についても、わかりやすい話を遺(のこ)してくれています。
ひとりの子どもが、わらしべだけを持って、旅に出るところからこの話は始まります。この話は全国的に分布していますが、私が福島で聞いたのは、こんな話でした。
わらしべ長者
昔、ある村に裕福な百姓がいた。百姓には息子が三人いた。百姓は年をとると、三人を呼んで財産分けをした。長男には、
「おまえはあたまがいいから」といって、お金の財産をすべてゆずった。次男には、
「おまえは働き者だから」といって、田畑をすべてゆずった。末っ子には、
「おまえはちっとも役に立たない子だから、これしかやるものはない」といって、わらしべ一本しか与えなかった。
末っ子はわらしべ一本を持って旅にでた。歩いていくと、はすの葉っぱを収穫しているおじさんがいて、
「とてもいいはすの葉っぱがとれたんだけど、これをくくるわらしべがあるといいんだが」と、ひとり言をいっていた。末っ子は、
「おじさん、このわらしべあげるよ」といってわらしべをあげた。おじさんは、
「これはありがたい」といってわらしべを受け取ると、それではすの葉っぱをくくり、お礼にはすの葉っぱを一枚くれた。
末っ子ははすの葉っぱを持って歩いていった。すると味噌をつくっているおじさんがいて、
「いい味噌ができたんだが、この味噌を包むはすの葉っぱがあるといいんだが」とひとり言をいっていた。末っ子は、
「おじさん、この葉っぱあげるよ」といって、はすの葉っぱをあげた。おじさんは、
「これはありがたい」といって、はすの葉っぱを受け取ると、それで味噌を包み、お礼に味噌を分けてくれた。
末っ子は味噌を持って、また歩いていった。すると刀鍛冶がいて、
「とてもいい刀がうてたんだが、この刀を最後に味噌で冷やすと名刀が仕上がるんだがな」とひとり言をいっていた。末っ子は、
「おじさん、この味噌あげるよ」といって、味噌をあげた。刀鍛冶は、
「これはありがたい」といって、味噌を受け取ると、刀を味噌で冷やして名刀を仕上げた。そして、お礼にその名刀をくれた。
末っ子は刀を持って、また歩いていった。やがて川の土手に出た。くたびれたので、刀を脇に置いて昼寝をした。そこへ山犬があらわれて、若者にとびかかろうとして、まわりを回り始めた。
その光景を、村の長者が川向うから見ていた。あっ、危ないと思ったその瞬間に、刀はひとりでに鞘から飛び出し、山犬に斬りかかった。長者は、
(あの刀はただものではない。あんな刀を授かった若者には、ただものではない運が授かっているに違いない)と思い、若者のところへ行った。
そして、若者を起こして、自分がいま見たことを話して聞かせた。そして、
「おまえにはただものではない運が授かっているに違いないから、ぜひうちのひとり娘の婿になってくれ」といった。
こうして末っ子は、長者のひとり娘の婿になったというはなし。
この話を聞いたとき、私は、「これって子どもの成長のことを語っているんだな」と思いました。すこし抽象化していいなおしてみたらよくわかると思います。
「子どもは、自分が持っているものと合致するものと出会ったとき、次の段階へ有効に進むことができる」。
わらしべを持って歩いていったとき、はすの葉のおじさんと出会い、そこでわらしべが役に立って、次の段階に有効に進めたのです。いきなり味噌のおじさんと出会ってもなんにもなりませんでした。
子どもが二歳とか三歳になったとき、三輪車を買い与えたとします。ところが、早すぎると、子どもは自分にはまだハンドルを握る力がないとか、腰のバランスを保つ力がないとか、本能的にわかっているので、興味を示さない。あるいは泣いて拒否します。
しかし、何週間か何ヶ月か経って、自分にそういう力がついてくると、いつの間にか三輪車に乗り出します。何の無理もなくマスターしていくのです。そのときの自分とぴったり合うもの・出来事と出会ったとき、つまり、獲得して持っているものと合致するものと出会ったとき、次の段階に有効に進んでいく。「わらしべ長者」の話は、まさにこのことを語っているのだと思うのです。
ひとことでいえば、「子どもの成長にはときがあるよ」ということでしょう。これは、われわれの先祖が、たくさんの子育てをするあいだに体得した、子どもについての認識だと思います。
そしてこの話は、「そのときがくるまで待ってやれよ」という子育てへのアドバイスを発信していると思うのです。
現在の日本ではどうでしょうか。
私のみるところでは、とにかく早期に、速く、たくさんのことを教え込むことが重要だという風潮が強いように思います。早い時期に始めることと、速く進むことへの信仰がとても強いようです。
早い時期に始めるということと、速く進むことを求めるとき、その基準となるものは何でしょうか。
ほとんどの場合、隣ではありませんか。あるいは隣に代表される世間です。隣と比べて早いか、速度はどうか。つまり他との比較に基づいて考えているようです。
成長のときを待ってやろうという考えは忘れられたようです。
しかし、子どもを育てるとき、他の子との比較は一番してはいけないことだと思うのです。その子の幸せをほんとうに考えるならば、親や先生など、おとながするべきことは他との比較ではなくて、その子が今、わらしべの段階にいるのか、はすの葉っぱの段階にいるのか、味噌の段階にいるのかを見極めることだと思うのです。
「でも、日本には三つ子の魂、百までということわざがある。三つ子のうちに教えないと手遅れになるんじゃないか」という反論があるかもしれません。そうでしょうか。
ことわざは「三つ子の魂」といっています。「三つ子の知識」とはいっていないのです。
「三つ子の知識」と誤解して、わらしべの子に無理に味噌を持たせたら、子どもの魂はゆがんだり、壊れたりします。
すると、このことわざによれば、「三つ子のゆがんだ魂は百まで治らないよ」ということになります。人はいいことばかり考えていますが、このことわざは恐ろしいことへの警告でもあることに気づかなければなりません。子どもの成長のときを大事にしてやりましょう。
「白雪姫」…三回も失敗したあげくに
子どもの成長には「とき」があることをみてきました。次にグリム童話の「白雪姫」をみてみましょう。
この「白雪姫」は、みなさんの知っている「白雪姫」とはすこし違うかもしれません。グリムによる、もともとの「白雪姫」は、女王に三回殺されます。
まず読み取れるのは、若者は何度も失敗してもいいのだ、ということです。
白雪姫はたしかに、こびとの注意を忘れて、女王を家の中に入れ、ひも、櫛(くし)、りんご【注】を買ってしまいました。
|
【注】グリム童話の白雪姫は女王に、一回目は「ひも」。二回目に「くし」。三回目は「りんご」で殺されます。 |
実生活においても、人からいわれた注意や忠告を、大事なときに忘れてしまうことは、いくらでもあるでしょう。何回いわれても、またやってしまうことなんていくらでもあるのではないですか。白雪姫はまさにそうなのです。
それでも彼女としては、それぞれの場面で、一度はこびとたちからの注意を思い出して、「わたしは、だれもうちの中へ入れてはいけないことになってるの」といっています。それでも、美しい櫛や、おいしそうなりんごの誘惑には勝てなかった。いわば与えられた状況に精一杯反応しているのです。
精一杯反応したのだが、それが、失敗だった。これも実人生に、いくらでもあることです。こう考えてくると、どうも「白雪姫」は、精一杯やって失敗したら、それはそれでいいよ、といっているようなのです。
若者に失敗はつきものです。
今から40年ほど前、ちょうど私がドイツの大学で昔話の比較研究というテーマで講義をもっていた頃、ドイツの若い児童文学関係者のあいだで、「白雪姫というメルヒェンは、白雪姫のようなばかな子になってはいけないよ」という教訓物語である、という意見が広がりました。
過ちを三回も繰り返している。経験値がないではないか。こういう愚かな子どもではいけない、というのです。
一見、もっともな意見のようですが、これが誤りであることはすぐわかります。この意見のとおり、もし白雪姫が三回目に、これまでの経験値を活かして、りんごを食べなかったとしたら、白雪姫のその後の運命はどうなったでしょうか。
「白雪姫は王子と出会うことはなく、この山奥で、一生、こびとたちの食事を作ったり、洗濯をして暮らしました」となるでしょう。
これは昔話の主人公の幸せな結末ではありません。現在の日本の脱都会派の女性にとっては、歓迎すべき結末かもしれませんが、昔話の主人公の幸せな結末ではないのです。
白雪姫は、経験値なしに、愚かにも三回殺されたからこそ、最後に結婚という幸せを獲得できたのではないでしょうか。
|
幸せの定義は人それぞれ、いろいろあります。小澤さんは、「結婚が幸せ」といっているのではなく、あくまでも昔話のハッピーエンドについて語っているんですね。 |
白雪姫は、まったく隙(すき)のない完璧な女性だったから幸せをつかんだんじゃない、という見方もできますね。
そのいっぽうで、「もしきみが、料理をしたり、ベッドをととのえたり、洗濯や、縫い物や、うちの中の用事をひきうけてくれるなら…」という、こびとたちとの約束はちゃんと守ってるわ。
白雪姫は、まじめで、素直で、みんなに愛されたから幸せになれたんでしょうね。
白雪姫から得られる教訓は、苦手なことじゃなく自分にできることをやる。そしてできることの精度を高めていく。
くわえて、いままで興味のなかったものにも目を向けてできることの幅を広げていく。
それが役者としてだけじゃなく、自分自身の、人間としての成長につながっていくんでしょうね。 |