P.TCHAIKOVSKY:
Fantasy Overture “Romeo and Juliet”

チャイコフスキー:幻想序曲『ロメオとジュリエット』

曲目解説        ・1869年初稿版について     ・所有音源紹介

<曲目解説> 

幻想序曲『ロメオとジュリエット』は、1869年の9月から11月にかけて書かれた標題音楽であり、彼の作品の中では最も初期の作品の一つである(ただし現在一般的に演奏されるのは1880年の改訂版であり、そういう意味では中期の作品ともいえる)。当時「ロシア5人組」の中心であったバラキレフが内容の具体的な構想を提案するほどの強い勧めにしたがって作曲されたものであるが、その13年後の1882年(改訂版をつくった2年後)に当のバラキレフ宛に出された手紙の中にこんな一節がある。

 『…忘れもしません、この序曲(ロメオとジュリエット)を書いていたとき、あなたが共感と関心を示されたことにひどく感動し、あなたを喜ばせようと懸命だったのですが、そのときも私はシェイクスピアが描いたイタリア人ロメオの若者らしい情熱と私の甘酸っぱい呻きの間には全く関連がないと病的なまでに敏感に意識していたのです。…』

 では、一体当時彼は『ロメオとジュリエット』という題材の何に魅せられたのか。さらにこの手紙の中で同じような『男女の愛』をテーマにした『フランチェスカ・ダ・リミニ』や『テンペスト』を含めたこれらの作品を、彼は『見せかけの情熱や偽りのパトスにより、純粋に外面的な効果を追い求めて書いた物』としている。彼のいう『見せかけの情熱』というのは何なのか。

 ところでチャイコフスキーの女性関係については、フォン・メック夫人との奇妙な交流、そしてアントニーナとの失敗した結婚が有名であるが、もう一つ彼にとって重要と思われる事件がある。序曲が作曲される前年の1868年、彼はその生涯でただ一回心を奪われそのすべてを欲した現実の女性への恋愛をしている。相手はデジーレ・アルトーというオペラ歌手であり、その当時の彼の燃え上がる恋心は弟への手紙などをみても相当激しかったものらしい。彼女にピアノ曲『ロマンス』を捧げ、ついには結婚の約束までするほどだった。
 しかしそれは実現しなかった。チャイコフスキーが作曲に集中できなくなっていたこと、また当時は彼よりデジーレの方が名声を得ていたことなどから、彼の師であるN・ルービンシュテインら周りの人が結婚に反対したのである。結局その声にデジーレが動かされ、翌年(1869年)になってすぐ彼女は他の男性と結婚してしまう。

 この裏切りに近い形の失恋により、彼の心の中に現実の女性への畏怖と嫌悪感を残すこととなったのではないかと思う(後年のフォン・メック夫人との関係などにそれがみられる)。そしてこれがチャイコフスキーに『ロメオとジュリエット』を作曲させる一つの要因になったのではないか。彼を裏切った現実の女性=デジーレにかわって愛を貫く理想の女性=ジュリエットが心の隙間を埋めることとなり、手に入れられなかった愛の代理として理想の女性(ジュリエット)の激しい(ロメオへの)愛を自らの手で描く事で安らぎを見出し、また自分の苦い経験をひとつの思い出として葬ろうとしたのではないのだろうか。

 ただそんな彼の行動は、現代のオタク青年が自分の好きな女性アニメキャラクターのSEXシーンをマンガや小説で描くことで、かなう事のない2次元コンプレックスを慰めている様とどこかだぶって見える。そんな心“甘酸っぱい呻き”には、同じように死をもって愛を手に入れたロメオの“若者らしい情熱”はない。結局彼は“愛”によって安らぎを得ず、“自慰”によってそれを得ようとした。
 そしてまた、手に入れられなかったものは人一倍ほしくなるものだ。その後も情熱的で美しい男女の愛、豊かな包容力をもった女性への憧れを消す事はできなかった。だが現実の女性の肉体性への嫌悪がそれを邪魔する。女性への憧憬と嫌悪。その苦悩をやわらげるため、オタク青年が次々と気に入った最新アニメキャラクターにはまっていくのと同じように、その後も彼は“愛”をテーマにした作品を頻繁に作曲していく。『フランチェスカ・ダ・リミニ』や『白鳥の湖』、『エフゲニー・オネーギン』……といった作品で理想の女性を描くことにより、手に入らない現実の愛の代わりとしてせめてもの喜びと安らぎを見出そうとする事を繰り返す。

 苦悩と自慰の繰り返し〜解決不能な矛盾に対しあえて挑戦しようという“みせかけの情熱”が彼の作曲人生の一面を付きまとう。『ロメオとジュリエット』は出口のない残酷な袋小路への第一歩だったのではないだろうか。

 「〜そうした作品の中で不可能なものへの歩みの中を、永遠に手のとどかぬ女性たちの面影が通っていく。それがタチャーナであり、リーザであり、フランチェスカ、オデット姫となる……」(音楽学者:ギー・エリスマン)

 曲はまず Andante non tanto quasi Moderato、嬰へ短調、4分の4拍子の序奏にはじまる。クラリネットとファゴットの重奏による重々しいハーモニーは慈悲深いローレンス僧をあらわし、曲は厳粛な雰囲気で進んでいく。そしていつのまにか忍び寄ってきたティンパニのトレモロに導かれ弦楽器に不安な楽想が現われ、曲は一転 Allegro giusto、ロ短調、ソナタ形式の主部に入る。ここはモンターギュ家とキャピュレット家の争いを表す。シンコペーションの活用やシンバルの強打をはさみ全管弦楽にまで発展していく。
 第2主題はロメオとジュリエットの甘美な愛を示す。変ニ長調ということとイングリッシュホルンとヴィオラという楽器で奏でられることから、どこか不安な気分がかきたてられる。
 展開部は主に第1主題を扱っているが、それに序奏のローレンスの主題もからみ激しい葛藤が描かれる。トランペットがローレンスの主題を強奏するクライマックスを経て再現部にはいる。ここでの第2主題はニ長調に移り、今度はヴァイオリンによって現れる。喧騒と混乱を乗り越えたかのように確信をもって鳴り響き(ここでのバスドラムのトレモロは印象的だ)、そして二人の愛は頂点に達したかにみえる。しかしまたも第1主題が現れ、二人の愛は飲み込まれ無残に砕かれてしまう。
その後 Moderato assai のコーダに入り、ティンパニの不気味な葬送のリズムを背景に第2主題の断片がかなしげに奏される。しかしその後木管の暖かいハーモニーとハープのアルペジョがそれをつつみ、二人が天国で結ばれることを願うかのように清らかに曲を閉じる。

(93年執筆 名古屋大学交響楽団第65回定期演奏会パンフ曲目解説のために)
(98年 「世紀末音楽れぽおと」集録時に若干の補筆修正)

 「いやぁ、懐かしい・・・もう8年前か」上記の文章は見てのとおり学生時代に書いたもの。しかも「曲解(自己流の解釈)」と言う意味で書いたものでは多分一番最初のものだったと思います。今改めて読むと、いつにもまして「強引」な展開ですね(^^;・・・文章の強調もちょっと恥ずかしくてできませんでした(読みにくくてごめんなさい)。
 でも、本人として実は気に入っていたりもするので、あえてそのまま掲載しました。まあ「そういう見方もあるのかな〜」という程度で読んでいただければ幸いです。

 さて、先日岐響インスペクターのK村さんより、面白いものをもらいました。ロメジュリの1969年初稿版の演奏です。指揮はジェフリー・サイモン、オケはロンドン交響楽団。CDはCHANDOSから出ています。(なおこのコンビで交響曲第2番『小ロシア』の初稿版も録音していたと記憶していますが・・・今もあるのでしょうか?)

 この初稿版、なかなか驚きものです。最大の違いは序奏部。ローレンスの主題が現行のものとはまったく異なっています。しかも長調(ホ長調)!そうなるとローレンスの主題が絡む展開部も当然大きく異なってくる・・・・というわけで以下(次回更新時ですが)この初稿版についていろいろ書いてみたいと思います。

(01/6/13)

<1869年初稿版について>

(予告?)
○序奏:「ローレンスの主題」の変貌
○展開部:「発想は面白いが・・・妙なティンパニソロ」
○終結部:「消えたトロンボーンの弔辞」

<所有音源紹介>

私が持っている音源、もしくは聴いたことがあるものを随時紹介します。

画像 演奏者 主観的なコメント
オフチニコフ指揮
モスクワ放送so.(80)

MELODIYA
SM 01730

いきなり変わったものから紹介。旧ソ連メロディアのテープです。もちろん「MADE IN USSR」とあります。(画像をよく見るとキリル文字が確認できるはず)。東京の新○界レコード社のバーゲンで買ったもの。テープそのものは安物ですし、ジャケットにいたってはボール紙というものすごくチープな代物です。
しかし、演奏はなかなかのもの。「本番の熱い演奏」を好む人なら間違いなく大満足でしょう。とくに早めのテンポ設定がとられた熱血の第1主題、そして展開部頂点でのトランペットの強奏に脱帽です。もちろん第2主題の歌も泣かせてくれます。録音も意外に良いです(ドルビーではありませんが)。

(以下継続)

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