

気高い美しさと 魂をふるわせる歌声
子供のように無邪気で
少女のように愛らしく
賢者のように思慮深い
心奪うその魅力に少しでも迫れれば・・・
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| あさとさん | Actor or Actress |
| SHIZUKI THE FIRST | Symphonic Album |
| Sonata |
| THE PRAYER 〜私だけの輪舞が誕生する〜 |
| あさとさん |
| (一応少しは調べましたよ(^^;) え〜と、姿月さんは大阪育ち。中学校を卒業して宝塚歌劇団に入団。これは学校みたいなシステムになってるらしいですね。うちの母は宝塚市出身ですが、当時から父親(私の祖父ですね)は「お嫁さんにするなら宝塚歌劇出身」と言っていたくらいで。芝居や歌だけじゃなく、人間としても、一流のレディーとして教育する、ってことだそうです(よね?)。 んでもって(きっと)厳しいレッスンを経て、花組、月組の舞台で活躍。んでもって確かな実力と人気をつけ、1998年、新設された宙組(そらぐみ)の初代トップに就任。とにかくすんごい人気だったとの伝説はネットを調べるだけでもわさわさ出てきます。 その後、ファンの涙を振り切って、2000年5月に退団。と、思ったらいきなりご結婚されてバリ島に移住(!)。そりゃあファンだって驚きますわよ(^^; 以来、歌手として、そして女優としてご活躍中。と。愛称は「ずんこ」さん。本名が「じゅんこ」だからなんだって。最初は「え?宝塚のトップともあろうお方がそんな妙な愛称でいいの?」と思ってしまいましたが(笑)。いつの間にか、あさとファンの方とお話している間に馴染んでしまいましたわ(^^; そうそう!色々調べていて気付いたんだけど、ずんこさんって私と同じ年なんですよ。私が一ヶ月だけお兄さんですけど(^^; 血液型も一緒だったし。全然関係ないんだけど、妙に嬉しかったりしてね。あははは。 私がそんな姿月さんを知ったのは超最近で、てっぺーちゃん(石井竜也)とのコラボレーションユニット「MOON」のステージです。詳しくはMOONのレポを読んで頂けばいいんですが、とにかくその凛とした涼やかな魅力にやられましたね。 と、いうわけでここに姿月さんを樽屋の「貴賓室」にお迎えして、私の目から見た「ずんこ」さんの魅力を少しずつ、書いていってみようかな、と思う次第なのでありまする。 ↑戻る |
| Actor or Actress |
| 私がみた舞台はまだ「MOON」だけですから、そこから話ができる範囲は凄く狭いです。だからこのコーナーはどんどん書き換えられていく可能性はありますが、ともかく役者・姿月あさとについてちょっと考えてみたいと思います。 「MOON」を見て感じたのは「この人は間違いなく、ステージで光り輝く人だなぁ」ということ。中にはテレビや映画などの映像メディアを得意とする人もあれば、CDなどの表現が向いている人もあるわけで、魅力と一言に言ってもいろいろな種類がある。中には他のメディアではめろめろになっちゃう人もいたりして、とかく「芸の世界」は厳しいのだ。 で、ずんこさんである。 CD(symphonic Album)を買ってきて聴いたときに感じたのは(詳しくはレビューで書きます)「あ、ここにはずんこさんの三割くらいしか入ってないなぁ」という感覚でした。これは決して悪く言っているのではなくて、あのCDというメディアで伝えきれるのは彼女の魅力の三割程度なのだ、ということ。たぶん、これをDVDで見ると7割くらいになるんだろうなと思う。やっぱりその魅力を全部味わうにはステージしかないんじゃないかと思うわけで。そういう意味で、ずんこさんは私にとっては非常に魅力的。やっぱりステージが良くてなんぼの世界だと思うし。いくらテレビでの演技が上手くても、それは所詮細切れのものでしかないからね。やりなおしが効く世界になっちゃうから。 「MOON」で演じた男役(宝塚の男役とは全然違うみたいです。ファンの方によると)のアサートは実に魅力的でした。もちろん、スタートしての輝きというのが一番なんですが、もう一つ違っていたのはずんこさんが大きな劇場での芝居を経験してきた、ということじゃないでしょうか。そこにはある意味で歌舞伎と共通するような「抽象化」と「全身で見せる演技」という方法論が関わってきます。 私、実は何度か子供の頃に宝塚歌劇を見ているんですが、あの劇場もなかなかのキャパシティを持った立派な劇場です。一番上の席からは細かい表情も見えないし、見えたとしても、遠くから見ても分かりやすいようにかなり濃い目のメイクをしているから、やっぱり細かい表情までを見る、ということにはならない。 そうなってくると、いかに一番上のお客様にも芝居を届けるか、ということがすごく重要になってきます。そこでテレビや映画のように、顔の表情を微妙に変化させたり、眉毛をちょっと動かして、なんていう芝居では通るわけがありません。見えませんから(^^; そこで必然的に要求されるのは顔に頼らないで芝居を届けるための抽象化です。身体の動かし方、肩の線の作り方、上からでも分かる大きな全身の動きで気持ちを伝える。これをするためには心理的にはとことん人物を肚に入れて噛み砕く。しかし一方で、演技はリアリズムではなくて、上から見ても分かるようなきっぱりした動きに抽象化しなくちゃいけないわけで、並大抵のことじゃありません。 それともう一つ。男役をしていたずんこさんには演技の上で物凄くアドバンテージを持っていると思うんですよ。つまり、それは役というものをきちんと突き放して、対象化して、その役らしく見えるにはどうすればいいのか、どう動けばいいのか、といった発想が染み込んでいるはずだということです。それは男役だけでなく、女役を演じる上でも間違いなく一つの大きな武器になるはずなんです。 と、いうのも女優さんというのはたいてい「女である」ことは当たり前すぎる前提になってしまっているんですよ(今まで見てきた舞台でも多くのケースでそうでした)。つまり芝居の中の女を演じる上での入口が「その役の心理とか気持ち」になってしまいます。そこには「自分は女なんだから」という当たり前すぎる油断があります。これを油断だと思える人が本当の「女優」だろうと思うんですけどね。 この方法はテレビでは耐えられても舞台では絶対に破綻するんですよ。舞台という世界になった時点で、観客と舞台の関係ってお互いに「これは嘘ですよ」という約束があって、その世界に入っていくわけですよね。で、そこにはやはりきちんと構築された世界観があって初めて、時間の飛躍や、人物造形の受容ができることだと思ってます。 それを女優さんが無自覚に女を演じると、もろに「生の女」が出てしまうんですね。そうなると「嘘」を前提としたリアリティの世界に、「生の女」が顔を出してしまうことで、本来「そう見える」べき芝居の嘘が破綻しちゃうんですね。 ところがですね。ずんこさんのように男役を経験した人は、役を自分から突き放さざるを得ませんよね。違うんだから。そうなると、「その役らしく見えるにはどうしたらいいんだろう。どう動けばいいんだろう。どう喋ればいいんだろう。」という発想に基づいてゼロから組み立てることになります。で、これは役を演じる上での「習慣」になってる(はず)んですよ。 その結果、女役を演じるにしても「どうしたら女性らしく見えるだろう。どう動けばお客さんにはより女性らしく感じてもらえるだろう。この役に相応しい立ち居振る舞いはどうすればいいだろう」といった方法になるわけですね。つまり「女」であるという根っこからちゃんと芝居が組み立てられる。そうなれば舞台の「嘘」の中に生きる虚構の女、けれどもその世界では間違いなく生き生きと動き回っている女が誕生するわけです。 フリがやたらと長くなりましたけど、つまり、ずんこさんにはそういう「芝居力」があるってことだと思うんです。まだ彼女の女役というのは見たことがありませんけど(^^; きっと他の「女優」より見事な女性像を見せてくれるだろうと思えるんですね。 他の女優さんの例をひいてしまいますが、私が見た中では麻実れいさんの舞台がそうだったんですね。それは歌舞伎の吉右衛門との共演でしたが、他の女優陣が総崩れの中、見事な光彩を放ってました。これは吉右衛門の演技が、やはり歌舞伎の経験を通じたもので完全にゼロから役を作り上げているためで、その芝居のレベルについていけたのが麻実さんだけだったというわけです。 私、この時に初めて、歌舞伎と宝塚ってよく日本の演劇の非常にユニークな面を伝える例に出てくるわけですけど、そういう興味本位的なことだけでない、本質的な部分でも意外と似通っている部分があるんだなぁと感じました。 これは「虚構の世界を虚構の世界としてリアルにする」ということなんですね。「虚構の世界を現実世界に近づける」というのとは全然違います。まぁ極端な話、アニメで描かれる世界っていうのは人物だって全然リアルじゃないし、身体能力だって冗談みたいな世界が山ほどありますが、「その世界」としてはちゃんと成立してるのと同じことでしょう。あの世界にいきなりリアルワールドの人間が現れたら凄くうそ臭くなるし、一人だけリアルな顔したキャラがいても気持ち悪いだろうし。 で、ぼくはそれこそが芝居の面白さだと思うんですよね。現実世界のと同じ者を作ろうとしても現実には絶対に敵いませんからね(^^; あ、なんかだいぶずんこさんと離れてきましたね(笑) ともかくね、今書いてきたように姿月あさとという役者はものすごくキャパシティを持ってるんじゃないかな、という気がするんですよ。「MOON」だけで判断してる私もかなり乱暴ですけど、たぶん間違ってないと思います。 まぁこうなってくると色々と見てみたい芝居(ミュージカルも、ストレートプレイもね)が出てきてしまいますね。とにかく役者としての引出しをどんどん増やしてみて欲しいし、それが出来そうなきがしますから。もちろん、音楽も大切にして欲しいわけですけど、その際には単なる歌手のコンサートっていうのは面白くないかな。やっぱりコンセプトがあって、コンサートではあってもパフォーマーとして演じきるという形式を期待しちゃいますね。まぁそうなるとかなりてっぺーちゃん的展開ではあるんですけど(^^; でも、他の歌い手にはできない才能を使わないなんて絶対おかしいですからね。とことんその能力を使って、お客さんに楽しんでもらうっていうのが一番だと思うんですよ。 たとえば一つのコンサートの中で男女二役を演じ分けながら進行するとか。一人二役ミュージカル的なものを作ってみるとか。照明を正面から当てるときは女性として、背後から逆行を利用したシルエットとして男性を演じるとか、もうアイディアはいくらでもあると思うんですね。そういう徹底したエンターテイメントの方向性を追及してみることもトライしてほしいです。 ただ「女優です。たまに歌手もやります」なんていうのじゃ勿体無いですからね。そんなケチな「二足の草鞋」じゃなくて「私はエンターテイナーです」っていうところを目指して欲しいし、絶対できる人ですよね。きっと。 おまけ:私としてはこんな役を見てみたいです。 アマデウスに出てくるあのエキセントリックでナイーブで、大胆で繊細な天才児・モーツァルト。ちょっととんでもないセリフも出てくるけれど、あさとさんなら演じきってくれるでしょう。いま、この相手役であり主人公でもあるサリエリは幸四郎の当たり役ですけど、対決してみてほしいですねぇ。 特に具体的に「これ」というのではないけれど、女装している男なんてどうでしょう。まぁその事情をどう設定するかはとても難しいけど。コメディでもいいんですけどね。 たとえばクリスマスの夜かなんかに仲間たちと悪ふざけで女装するんだけど、それがすごくはまってしまって、どう見ても美女。しかも、その帰り道に、女装姿のままある女性と知り合うわけですよ。で、そのコに一目ぼれしちゃう。でも彼女とは「女同士の友達」になっちゃう。どうにかして「男の自分」を好きになって欲しいんだけど上手くいかない。てな感じの物語とか見てみたいですね。まさに「一粒で二度美味しい」(笑) もしくは同じ設定だけど知り合うのが自分の親友、っていうんでもいいですね。その親友はむかし恋人を亡くしていて「俺はもう恋なんてしない」って言ってるわけ。ところが、女装してる主人公にその親友が惚れちゃう。そうすると親友がやっと昔の苦しみを忘れられるかも、という状況の中で本当のことがなかなか言えない。そんなうちに「お前にも彼女を紹介させてくれよ」てな感じになっていっちゃうとか。まぁこれをハッピーエンドに収めるのは大変そうだけど(^^; ↑戻る |
| Symphonic Album |
| 1stアルバムから順に聴きたいと思っていたのだけれど、在庫がなかったのでまずはこのアルバムから入手。同タイトルのDVDを「MOON」の会場で売っていたので欲しいと思っていたらなんとライブ会場のみでの販売だとか(涙)。 アルバムの中身は、いわゆるスタンダードと言っていいナンバーをオーケストラで歌うという内容。ミュージカルのスタンダード、クラシックに歌詞をつけたもの、ずんこさんのセルフカヴァー?という構成。個人的には「ラ・マンチャの男」の「見果てぬ夢」が入っているのは嬉しい。 ■前置き さて、いきなりだけど、カヴァーアルバムの楽しみ方って何種類かあると思ってます。まずはその話から。 <アーティストとしての主張満載なカヴァーが好き> これは私がロック好きっていうのと、「ただ同じようにカヴァーするだけなら結局オリジナルには勝てない」という考えが根っこにあるためでしょうけれど。 やはりカヴァーアルバムの難しさは聴き手が既にその曲を知っている、ということだと思う。曲に対する前知識もあるし、下手をすると物凄く思い入れのある曲も混ざっていたりするわけで、ただ上手に歌いこなせばいいというものでもない。たとえばアーティスト・トリビュートのアルバムというのが一時期流行ったけれど、ああいうアルバムもカヴァーの難しさを教えてくれたように思う。 ああいうアルバムで結局「いいな」と思えるのは、いわゆる完コピに徹したものか、きちんと作品を消化&昇華して見事に換骨奪胎してみせるかのどちらか。下手に似せようとすればオリジナルには絶対に勝てないし、かといって無闇に破壊してしまったのでは、まさに破壊のための破壊になってしまう。 で、私としては「換骨奪胎」の方により興味があるわけです。どうやって曲を自分の世界に塗り替えるか。それがカヴァーの醍醐味だし、そういうところにアーティストの「業」のようなものが現れてくると思うので。 つまり、カヴァーアルバムで何が面白いって、聴き馴染んだはずの曲の中に、どれだけアーティストの世界観が反映されたのか、ってことだと思っている。 <でも純粋に歌を楽しむのも悪くない> ただ、もう一方で別の考え方もある。既にスタンダードであるがゆえに、その歌が本来持っていたテーマ性とかメッセージ性が非常に希薄になっているという特徴を生かす考え方。 つまり未発表の曲、新曲であれば、聴く側はどうしても全体に目が行かざるを得ない。歌詞の意味を考えたり、アーティスト自身が作詞に携わっていればなお、そこに意味を求めてしまう。私はそういう聴き方嫌いじゃないけれど、「音楽そのもの」だけを楽しむということからは少し外れているようにも思う。 たとえば、サルティンバンコや"O"で有名なシルク・ド・ソレイユは音楽を非常に効果的に使うのだけど、そこで歌われる「言葉」は無国籍言語なのだ。つまり歌ってはいるけれど、意味が奪われている。これはどこの国の人がそのショーを見ても言葉のイメージに縛られることなくステージを楽しむということに絶大な効果をあげているわけです。 で、話を戻すと。そういう意味でカヴァーアルバムって、曲が既にスタンダードであるために、純粋に「歌声」を楽しむことができるのではないでしょうか。 ■ここから本番 で、このアルバムは、おそらく後者だろうと思う。ここに収録された楽曲は、一部を除けばまさにスタンダードといえるナンバーばかりで(歌詞が目新しいものもあるけれど)、聴いていると素直にヴォーカリスト・姿月あさとの魅力を感じられる。 このアルバムでのずんこさんは「歌うことを楽しんでる」って気がする。だから聴いていると自分も何となく楽しい気がするし、なんか気分すっきり爽やかって感じになる。で、その歌うことの楽しさを、聴き手にも「どうぞリラックスして楽しんでくださいね」という仕上がりになってるんだと思う。 でもって、こういうアルバムをライブでやるととっても楽しいというのは容易に想像できる。スタンダード・ナンバーのコンサートって演じる側と、見る側がいつもより近距離になるような気がするわけです。 つまりスタンダード、っていうことは曲によっては演じる人も、聴く人も、まだそういう立場に分かれる以前から知っている曲だという可能性は凄く高くなります。それは何を意味するか。演じ手と聴き手が共有している記憶の時計がより昔に戻るってことになります。「あぁ、ずんこさんもこの曲好きだったんだ!私も子供の頃よく聴いたな」って思えることって、かなり幸せじゃないでしょうか? たとえばこの秋にてっぺーちゃんはシングルのカップリング曲に「炎の宝物(ルパン三世カリオストロの城・主題歌)」を選びました。これなんて私が小学生の時の曲ですから、てっぺーちゃんもまだ普通の青年だった時代です。そうするとなんか憧れの人の感性と、自分の中にも同じような感覚があるのかも、と思うと嬉しいじゃないですか。そういう意味で、このアルバムはかなり楽しい。 ただ(ちょっと厳しいかも知れないけど、これ、私のテイストなんで許してください) ここでのずんこさんは凄く素直に歌っていて、しかし素直すぎるがゆえに引っかかるものが少ないような気もするですよ。とはいえ、これは凄く難しい問題をはらんでいて、奇を衒った歌い方にすれば目立ちはしても、今度はイヤミになってしまうわけで簡単に「歌い方」ということで切り捨ててしまっていい話でもありません。 それでも私はやっぱもう一歩先を求めちゃう。だって「MOON」でずんこさんの表現力を目の当たりにしちゃいましたからね。まぁこれは完全に個人的な嗜好で話をしているので、あくまで私の求めるものだということ前提に話をさせていただきますが。 私が求めたいのは、楽しく歌うことの上に、ずんこさんの歌の世界そのものに対するスピリットを見せて欲しいということ。それも生半可なものじゃなくて全力投球の。極端な話、ずんこさんの魅力が出ていれば、上手く歌えてなくても構わない。アルバムでの歌は一言で言うと「綺麗すぎる」。もっとエモーショナルでいいと思うんですよ。ずんこさんは淡白な面がありそうだけど、こういう場面では思い切りアーティストエゴを出して欲しいという気がするわけです。 けど一方で、この数日、何人かのファンの方と話をさせていただいた結果、ずんこさんという人は良くも悪くもマイペースで無欲な人なんだな、ということ。けれどステージに上ることで、真のパフォーマーとして目覚めるという一種シャーマンのような人であるということ。自分の表現力の深奥に余り自覚的でない等々。色々伺いました。 それらを考え合わせると、スタジオ録音という環境はずんこさんの本来持っているパワーを引き出すまでに至らないのかもしれない、という気もします。そう考えてみれば、CDの中にいるずんこさんと、ステージいるずんこさんの放つ光量の違いというのも頷けます。あの見ていて、聴いていてゾクゾク背筋が震えるような感覚を生み出すためにはステージという「場」が必要なのかもしれません。 これは先に「Actor or Actress」で私が考えた「舞台に立ってこそ真の輝きを放つ人だ」ということと一致していますよね。 DVDは見ていないので想像で書くしかありませんが、このSymphonic Albumをライブで行った映像のほうがはるかに良いんじゃないでしょうか。それはちょうど、水族館の狭い水槽から広い大海へ解き放たれたイルカのような違いがあるように思えてなりません。 ※ご覧になった方、証言求む! ただずんこさん自身が、海に出るまでは自分のポテンシャルに気付いていないというところが(^^; 彼女らしくもあり、しかしだからこそレコーディング・アーティストではないんだろうなぁという気がします。 そうそう、思い出しちゃったので書きます。ずんこさんとは直接には全然関係ない人物を引き合いに出しますが。あの西郷隆盛を坂本竜馬が評した言葉って結構ずんこさんにも当てはまっているような気がするんですよ。 「西郷というやつは、わからぬやつでした。釣り鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。もし、バカなら大きなバカで、利口なら大きな利口だろうと思います。」 あ、もちろんずんこさんが馬鹿だって言ってるわけじゃなくて(笑)。つまり叩く人(CDの場合はプロデューサーかな)の能力次第でいくらでも大きな音を出す人だと思うんですね。鐘は自分自身で鳴ることはしなくても、叩く人次第でどんなに大きな音でも、どんなに美しい音でも紡ぎだせるわけで。ずんこさんのパーソナリティを人づてに伺う限り、すごくそういう気がします。そういう意味で、おそらく普通のアーティスト以上に、ずんこさんにとってプロデューサーって大事なんじゃないでしょうか。ずんこさんが信頼できて、ずんこさんが安心できて、でもずんこさんを甘やかさないで、ずんこさんの秘めた力を極限まで引っ張り出せる人。そういう人に出会えたら、きっと凄いことになるんじゃないかな(てっぺーちゃんが、そういう立場になってくれたら、それはかなり嬉しいかも)。 次回作ではてっぺーちゃんの右腕・金子隆博氏がプロデュースということで、ぜひ、大きな撞木になってずんこさんから大きな音を、美しい音を引き出して欲しいですね。綺麗に歌うだけじゃなくて、ステージに立つときのあのオーラとか気をCDに焼き付けることに成功してくれたら、こんなにうれしいことはありません。かつ、かなり期待してます。 あ、だいぶSymphonic Albumの話から逸れちゃいました。でも、私の言いたいことは分かっていただけましたよね。簡単に言っちゃうと「姿月あさとはまだまだこんなもんじゃないはずだ!」ということです。私としては期待が大きいだけに(かつその期待に応えられる人だと思っているので)、ちょっと辛目のコメントになってしまいましたが、愛があるゆえですから。ずんこさんファンの皆様、怒らないでね(^^; ■曲コメント 内容がカヴァー中心なので個別曲全部にレビューはつけませんけど、気になった曲、気に入った曲について簡単に触れておきます。 見果てぬ夢<THE INPOSSIBLE DREAM> これは、個人的に非常に思い入れのある作品です。まだ小学生の頃に連れて行ってもらった幸四郎の「ラ・マンチャの男」は私の心を鷲づかみにしてしまったので。それゆえにこのテーマは凄く個人的に好きな曲でもあります。 で、このアルバムに収録されたバージョンなのだけど、できれば歌詞は舞台で歌われているオリジナル(英語か、幸四郎バージョン)だとなお嬉しかったというのが正直な気持ち。この歌に込められたものはゆるがせに出来ないメッセージだと思うだけに、歌詞は変えて欲しくなかったなぁ。たしかに女性が歌うにしては固い言葉が多いのだけれど、解釈次第でそれは解決できると思う。まぁひょっとすると著作権の関係とか難しい話があるのかもしれないけど。 こちらのずんこさんバージョンはオリジナルが夢に殉じる情熱を悲壮感すら漂うほどに感じさせるのと較べると、もう少し穏やかな印象とでもいうのかな。柔らかな感じがしますね。歌い方もとても女性的だと思うし、春の陽射しのような雰囲気を感じます。なので、これはこれでいいと思います。でもやっぱ、思い入れには敵わないと申しますか(^^; 力強くオリジナルを歌うずんこさんを見たいなぁ・・・というのが本音ですね。 (オリジナル日本語詞) 夢はみのり難く 敵は多数(あまた)なりとも 胸に悲しみを秘めて 我は勇みて行かん 道は極め難く 腕は疲れ果つとも 遠き星をめざして 我は歩み続けん これこそ我が宿命(さだめ) 汚れ果てし この世から 正しきを救うために 如何に望み薄く遥かなりとも やがていつの日にか光満ちて 永遠(とわ)の眠りに就くそのときまで たとえ傷つくとも 力ふり絞りて 我は歩み続けん あの星の許へ 星に願いを<WHEN YOU WISH UPON A STAR> ピノキオも好きな映画の一つ。特に映画の中でゼペット爺さんの作る時計たちはどれもギミックに凝っていてしかも可愛らしいのがいい。そんな愛らしい映画から生まれた名曲がこれ。自分の中ではベストはサッチモの歌ったバージョン。これはもう揺るがない魅力を持っていると思う。また、昔テレビ番組でてっぺーちゃんが歌ったバージョンも忘れがたいものがある。と、いうわけで出だしから好きな曲が続く。 で、このずんこさんバージョン。個人的には英語の歌詞が大好きなので、オリジナルのまま歌ってもらうのが一番嬉しかったりするわけだが、今回は訳詞になっている。この歌の日本語詞もいくつかあるようだけれど、ここでのバージョンも悪くない。またオーケストラの音と、あさとさんの声質も響き合っていい雰囲気になっている。 雨に歌えば<SINGIN'IN THE RAIN> これまた大好きなミュージカルからのナンバー。ジーン・ケリーが雨の中で歌い踊る場面は余りに有名。で、結局あのオリジナルに敵うものなし、というのが現状でしょう。以前、舞台も見に行ったけれど(誰だかも忘れた(^^;)やっぱり映画のほうが好きだった記憶がある。 で、ここまで聴いてきてつくづく思ったのは、やっぱミュージカルの舞台でずんこさんには歌って欲しいということ。まぁミュージカルナンバーが続くからこそ、そう思ったわけだけれど。歌には歌のドラマがあって、特にこうしたミュージカルのナンバーには一曲一曲に風景や物語が綴られているから、余計にそう思うのだろう。 だから、もしステージをやるにしても、多少時間は掛かっても一曲ごとに衣装を変えちゃうとか、ミュージカルの名場面集的な組み方をしてみるとか色々な試みをしてみてほしい気がする。たとえばこの曲を歌うときは明るい色(イエローがかったクリームとか舞台で映えそう)のスーツ、片手に傘、舞台にはガス灯が一本、といった演出装置で、ダンス場面を織り交ぜて見せて欲しいと思うし。そんな想像を広げたくなる一曲にしあがっていると思います。 I LOVE YOU これは高校生だった頃の自分を思い出すし、それだけに強力な思い入れがある。ずんこさんは同じ年齢なので、それなりにリアルタイムで尾崎豊を見ている可能性があるけど。でも15歳で入団したのであれば、意外とリアルタイムでは聴いてない可能性もあるかな。で、この曲(と、いうか尾崎豊の曲)は、もうオリジナルしかありえないような曲だと思う。オリジナルの尾崎豊の歌声には切迫したような、もうこれ以上どこにも行き場がないような、キリキリと胸を締め付けられるような感覚がある。けっして甘いラブソングではないのだ。で、もうこうなると完全に個人的な嗜好の世界で、誰が歌ってくれてもオリジナルに軍配を上げてしまうことになる。これは仕方ない。 で、ずんこさんの歌うI LOVE YOUを素直に聞くと、とても暖かい感じがする。尾崎はむしろ真冬に、他に何もない部屋の中で、二人きりで肩を寄せ合っているような感覚。ある意味、とっても脆い感覚であるのに較べて、ずんこさんは相手を包み込むような強さを感じる。それはきっとずんこさんの中にある芯の強さなんだろうと思う。だから、なんというのかなぁ、ずんこさんの場合は、私のイメージするI LOVE YOUとは明らかに違う曲なんだけど、ずんこさんらしさは随所に出ているんだと思う。 だからね、たぶん「大きな愛に包まれたい」っていう人にとってはこのずんこさんバージョンはすごく喜ばれるんじゃないかと思います。そういう意味では、これは立派にずんこさんのI LOVE YOUとして独立してるんでしょうね。 まぁ個人的には尾崎がone and onlyなんですが(^^; エトピリカ このアルバムの中から1曲選べ、と言われたらこれ。とにかく葉加瀬太郎の美しいメロディと、それに載せられた歌詞がいい。この歌詞のスケール感こそが、ずんこさんのスケール感なのだという気がする。ご本人がどのように思われているかは分かりませんが、ずんこさんって、かなり懐は広いですね、きっと。なんというべきか言葉がうまくみつからないのだけれど、ずんこさんには空間的・時間的広がりの感じられる曲が合っているような気がするですよ。 繰り返しになってしまうけれど、I LOVE YOUは、いわば本来が1対1で歌われる歌で、尾崎の場合はコンサートでもたとえ相手が大勢いても、一人一人に対するように歌っていた。それが彼のコミュニケーションだったし、だからこそ彼に自分を投影したり、彼の行き方を追いかけるファンが生まれたのだと思う。 でも、ずんこさんの表現は、どちらかといえば1対多のコミュニケーションのような気がするわけです。ファンをみ〜んな両腕に抱きしめちゃうような感覚とでも言いましょうか。 まぁこれは音楽を通して何を見ようとしているのかというアーティストの本質的な部分にも関わってくるんでしょうけど。基本的に1対1のコミュニケーションを求めるタイプの人は、そうやって誰かと繋がっていないと壊れちゃうタイプの表現者だと思われます。 一方のずんこさんのようなタイプは、自分のために表現する。そのための妥協はしない。でも、誰かに誉められたいとか、助けて欲しいとかいう感覚は、たぶんないのだと思います。最終的にずんこさんを評価できるのはずんこさん本人だけでしょう。それが彼女の表現に大きなスケール感を与えているんだと思います。 と、ちょっと話が広がりすぎました(^^; ともかく、この「エトピリカ」はずんこさんの美質が十分に生かされている名曲だといっていいですよね。リピートしたくなる曲です。 ↑戻る |
| SHIZUKI THE FIRST |
| 1. All by myself 2. Happy Talk 3. 観覧車 4. She can't stop dancing 5. 月の雫 6. Believer ■プロデュースに関する不満 ん〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜。どうしよう。どう書けばいいんだ。 いいですか、みなさん。私、いまや姿月あさとのかなりファンだと思います。あのMOONで魅せられて以来、かなり熱に浮かされたようになってます。でも、ここは自分に正直に一音楽ファンとして書かせていただきます。 このアルバムのプロデュースをした人たちは本当にずんこさんに惚れこんでくれたのか?これが一番感じたことなんです。 私はプロデューサーの仕事っていうのはアーティストのしたいようにさせてあげることじゃないと思うんですね。アーティスト自身すらも気付いていない、忘れかけている魅力を引き出して、時には心に掛かったカギを開けて、そしてそのアーティストの最大限の魅力をお客さんに見せることだと思うんですよ。それにはプロデューサー自身がアーティストにとことん惚れこんでいないといけないと思うんですね。芝居でも、その期間だけは相手役に心底惚れぬかないといけないのと同じです。 もし、そういう気持ちでこのアルバムをプロデュースしたなら、もっともっと魅力的な作品に仕上がったと思うんですよ。 この感想の殆どはずんこさんへ、というよりはプロデュースへの注文になりますが、書きます。 まずサウンドの作り方。姿月あさとのヴォーカルの魅力をどこまで引き出そうとしているのか凄く疑問です。殆どが打ち込み系の薄い音作りになってしまっていて、音楽ファンとして非常に悲しい音なんですよ、これは。一応ロックからクラシックまで幅広く聴いていて、CDも1000枚程度は持っていますが、それらの中でもかなりチープな音作りに分類されてしまうと思います。 せっかくの曲も、これでは生命を吹き込むことができません。 私の感触ですが、ずんこさんは相手が高いレベルでくれば、どんどん自分も高め上げていけるタイプだと思うんです。だから、もしこのレコーディングに(少なくともレコーディングスタッフとしてクレジットされて恥ずかしくないレベルの)一流と呼べるミュージシャン達を呼んでいたら、それだけでもアルバムのクオリティは全然違っていたと思います。二流の人なら、三流のバックで引き立てるなんて手段もありますけど、一流の人の相手ができるのは、やはり一流の人だけなんですよ。同じ人が歌っていても生身のミュージシャン相手と、カラオケでは全然違ってしまうのは誰にでも分かるたとえでしょう。 で、この作りから感じられるのは、ゼロから姿月あさとの魅力を訴えかけていこうという意気込みではなくて、宝塚時代からのあさとファンが買ってくれるだろう、というプロデュースの「甘え」なんですね。もちろん、ずんこさんは宝塚を出て、初めての仕事で意気込みも十分だったと思うし、そう信じて仕事をされたと思います。でも、私は残念ながらここのプロデューサーの愛情を感じられなかったんです。 ■ずんこさん さて、作り手に対する不満はこのくらいにして(^^; このアルバムの中のずんこさんは苦しんでますね。ヴォーカルスタイルも色々な形でアプローチしているし、中には「ちょっと苦しいのかな」という曲もあったりして。でも、このステップは必要なステップだと思います。なんていうのかな、次の段階へ進むための儀式みたいなものだと思うんですね。 宝塚という過去(本当はこれも大いなる財産なんだけど)と、どう折り合いをつけていくか。今まで応援してくれた人たちにどう応えていくのか。これからどうしていくのか。数限りない逡巡と葛藤があったと思うし、すごく手探りだったと思うんですね。 とはいっても、綺麗にまとまっているよりも、こういう「素顔」が見えるアルバムって私は嫌いじゃないです。色々なところにアーティストの闘いの跡が見えるっていうのは、それはそれで作品として面白いし、そういう面が見えるのは案外、ファンにとっては嬉しいときもあるんですよね。まぁ御本人としては「もっと出来たはずなのに」といった悔しさもあるかもしれませんが。 で、私はずんこさんがそういう、とても真摯な態度でレコーディングに臨んだんだろうな、ということが伝わってくるのが、このアルバムのいいところだろうと思うわけです。すごく「人間的」な感じがあるというかね。少なくともずんこさん自身はゼロから出発したいと願っている様子が見えるし、その姿を今までのファンにも、そして新しいファンにも好きになって欲しいって考えてらしたんじゃないでしょうか。 ちなみに、このアルバムの中に「月の雫」があるのは本当に光り輝く宝石を見つけたような気持ちになれます。これは間違いなく名曲ですね。まぁ「MOON」バージョンが一番いいと思ってますけども(^^; ■これから ちょっと話を「MOON」に振ります。 たぶん、てっぺーちゃんは過去の作品を色々見た結果、私が書いたようなことを感じたんじゃないかと思うんですよ。 と、いうのもてっぺーちゃん自身が一時期「米米クラブ」に凄く縛られていた時期があったから。それを米米クラブも誇るべき自分のキャリアであり、米米がなければ今の自分はないんだ、というフラットな気持ちで「浪漫飛行」が歌えるようになったのはつい最近のことだと思ってるんです。それまでは歌っていても、どこか他人行儀な感覚が残ってましたから。 で、そういう紆余曲折を経てきたてっぺーちゃんだからこそ、これまでのずんこさんの作品を見て「この才能に遠回りをさせちゃいけない」って思ったに違いない・・・と思うんですね。 だってずんこさんが魅力的なのは、彼女が「元・宝塚トップ」だからではなくて、「姿月あさとが姿月あさとだから」ですからね。 過去から積み上げてきたすべてが今のずんこさんの魅力につながっているわけで、退団したからといって変にそれを意識して、何かを封印したりする必要は全くない。歌が男役的な要素を要求しているなら低い声で朗々とうたえばいいし、明るいポップスを要求しているなら女性らしい優しさで歌い上げればいいわけですから。 それを変に封印しようとすると不自然になっちゃうと思うんですよ。自分の中から出てくるものであればフタをする必要はなくて、まぁ神戸でご本人も仰ってましたけど「男役とか女役とか関係なくて、自分が良いと思えるものをやっていきたい」というのが正解だと思うんです。 私は、石井ファンの口からいうのもなんですが、そういう封印を解いたのが「MOON DANCER」であり「MOON」であったと思います。ヴォーカルスタイルも、変なこだわりをすてて、伸び伸びと歌っているずんこさんの何と魅力的なことでしょう。これこそが誰をも引きつけるパワーですよね。 やっぱねぇ、もう書いたことですから沢山は書きませんけど、これからは何やってもいいと思います。禁じ手はなし。そして、その秘めた力をどんどん放射して、まさに姿月あさと、その人の魅力でどんどん突き進んでいってほしいと思います。 ■で、結局 このアルバムは、姿月あさとの最初の一歩を記す記念碑だと思いますね。ちょっと大変だったけど、でも、いい思い出だね、というような位置付けになるんじゃないでしょうか。もちろん、これも一つの財産としてとっておけばいいんだと思います。 でも、もしできることなら、この先に機会があれば何らかの形で、この曲たちに新しい命を吹き込んであげて欲しいですね。曲自体が悪いわけでは決してないので。ライブアルバムでもいいし、セルフカヴァーでもいいけれど是非、お願いしたいです。 でもね、最後に書いてきますけどアーティストの理想的な姿って「一番良かったのはいつですか?」「勿論、今です」ということだと思うんですよ。そういう意味では、間違いなくずんこさんは歌い手として去年より今年、昨日よりも明日、明日よりも来年という歩みを続けている。それが私にはとても嬉しいです。 3rdアルバムでの金子さんの手腕に、大いに期待したいところです。てっぺーちゃんも曲、書いてくれないかなぁ・・・。 ↑戻る |
| Sonata |
| 2002年初夏、MOONでずんこさんに出会って以来、心待ちにしていたアルバムが発売された。 プロデューサーはてっぺーちゃんの片腕のような存在であり、義弟でもあり(^^;、そしてかけがえのない仲間である「金子隆博」。これは、てっぺーちゃんファンとして、嬉しくもあり、一方で心配でもあった。「金子さんならずんこさんの魅力を余すことなく引き出してくれるに違いない」と思ったり「でもひょっとして1stミニアルバムみたいになっちゃったらどうしよう」とか・・・。なんとも言えない気分で発売を待っていた。そんなアルバムである。発売日の前日、レコード店に駆けつけ即購入した。 さて。果たして、アルバムは思わず頬ずりしたくなるくらい(笑)ステキな、想像できなかったほどの仕上がりでした。これは間違いなく姿月あさとというシンガーのマスターピースとなるアルバムだし、またポップミュージックとしても非常に優秀なアルバムだと思います。ずんこさん自身はインタビューで「ポップスは聴かない」と仰ってますが、それはいわゆる(私は死ぬほど嫌いな表現ですが)J-POPと呼ばれる大量生産&大量消費されるマスプロダクトのことなのだと思います。だって、このアルバムは間違いなく非常に優秀なポップミュージックだと思うので。 というか余り「ジャンル」という線引きは意味がないというのが真実なのでしょう。ご本人は「ヒーリング」という言葉を使われましたが、こういう「言葉」で括る必要なんて全くないほどに「音」が説得力をもっているアルバムなのですから。もともと「音楽」というものの本質が、どんな形にせよ、広く捉えればすべて「癒し」に繋がるものという考え方もできますし。それに「音で楽しむ、音を楽しむ、音で楽になる、楽しく音を奏でる・・・」まさに「音楽」。そういうずんこさんの音楽を愛おしむ心がダイレクトに伝わってくるアルバムを目の前にして、色々と理屈を述べる必要なないような気もします。 まぁそれでも「レビュー」と謳っているので、私は書きますけど(^^; ともかく、もう少し具体的に書いていきたいと思います。 とにかくこのアルバムの最大の成功要因はずんこさんの歌の魅力を見事に引き出した点にあると思います。伸びやかで、穏やかで、柔らかくて、優しくて、まるみがあって、羽根のように身軽で、けれど芯が通った強さがある。それらをしなやかに包み込んだ凛とした響きに、素直に身を委ねてしまえる心地よさ。本当にずんこさんという人の歌声の魅力だけでなく、その歌声の中からずんこさんの魅力的な「人となり」までが胸に届いてくるように思えます。 くしくもインタビューでずんこさんが語っていましたが、プロデューサーである金子氏と「どんな音楽が好きなのか」「どんな音楽を理想としているのか」というところから話し合いを始めた、という丁寧なプロセスがなければこういうアルバムは絶対に生まれなかったでしょう。それはずんこさんが金子さんを信頼したからだろうし、金子さんもまたアーティスト姿月あさとに惚れたからこそ出来たことだと思います。 こういう幸運な出会いというのは、なかなか難しくて、例えばアーティスト自身がセルフプロデュースしたから最高のものが出来るわけでもなく、本当に難しいことだと思うんですよ。まぁセルフがいい人もいます、もちろん。ただイメージを持っていることと、作れるっていうのはまた違っていて、つまりプロデューサーはアーティストの持っているイメージを形にしてあげる仕事でもあり、更にはもっと多くのものを引き出すという仕事だと考えるわけです。で、言葉でいうのは簡単でも、それは本当に出来ることってのは簡単ではなくて。だからね、今回ずんこさんは本当に幸運というか運命的な出会いだったんだなぁ、と改めて思うわけです。ずんこさん自身も「石井さんとの出会いは大きい」という意味のことを言ってくれていますしし。 ※ちなみにてっぺーちゃんにとっても、ずんこさんとの出会いは大きかったと思ってます。 で、もう少し音作りとかにも話を踏み込んで見たいと思います。 以前のアルバムに対して「音がチープ」と言った私ですが、今回はそんなことはカケラも申しません。実に心地よい、でも聞き流せてしまう心地よさでは全然ない音だと思います。 それは、この心地よさの裏側にあるのがアーティストの真摯な態度であり、ミュージシャン達のキリッと引き締った緊張感があるからだと思います。つまり、単に楽譜どおり演奏して、トラックダウンして・・・というような「お仕事」的なプロセスから誕生した音ではないということです。アーティスト姿月あさとと、一つのものを作り上げていこうとする意志。それでいて決してその共同作業は馴れ合いではなく、アーティスト同士の真剣勝負でもある。そういう最も理想的な状態からしか出てこない、そんな音なのではないでしょうか。 だから、こんなに優しい音作りがされているにも関わらず、決して環境音楽に堕してしまわないのでしょう。こういう音作りの怖さは、もし、ここに強い意志が通っていなかったら、単なる「聴きやすい=聞き流しに出来る」音楽になってしまう可能性があるということです。 けれど、このアルバムはそんなことは微塵もありません。聴き手の耳に、そして心の中に、それこそ「暖簾をノックして」入ってくるように(笑)、柔らかに、しかし確実に届いてくる音になっています。 ヘンな喩えですけれど、「北風と太陽」とでもいいましょうか。すごく心地よく、心の扉を開かれるような感触があるのです。人にたとえれば、凄く聞き上手な人っていますよね。逆に「どうしたの?どうしたの?」と心配してるのか、面白がってるのか分からない人も。 そういう意味で、このアルバムって「凄く聞き上手なアルバム」なんじゃないでしょうか。一曲一曲が語りかけてくる音楽は、決して聴き手の耳をこじ開けてくるのではなくて、ただずんこさんがニッコリと微笑んで向かい側にいてくれるような、そんな安心感があるような気がするんですね。聴き手は、そこで曲の中に自由なイメージを思い浮かべていることができる。決して「さぁ、私が癒してあげますよ」というのでは決してない、と。ずんこさんは、そこに微笑んでいるだけ。その微笑に聴き手は自由なイメージを投影して、自ら癒されていくような、そんな関係なんじゃないかと思えます。 うちの母が「想い」を聴いてもらした言葉。「聖母の歌う子守唄のよう」という表現にも、それは現れているような気がします。余りスピリチュアルな方向へ話を持っていってもしょーもないですが、やはりそこには宗教的寛容とでもいいたくなるイメージがあります。 だからこの音楽を単に「ヒーリングミュージック」と括るのは(ずんこさんはそういう言葉を使ってましたけど)足りていない気がします。あえて強引にいえば「あなたを抱きしめてくれる音楽」とでも言えば、私のイメージがつたわるでしょうか。 それでは、とりあえず曲単位の話に移りましょう。 01. prologue 真っ直ぐな地平線と、頭上に広がる限りない星空。ぽっかりと浮かぶ月。その冴え渡った星空と大地の境目が紫色に染まり、いままさに夜が明けようとしている。そんな一日の始まり、物語の始まり、旅の始まりを感じさせるオープニング。思い浮かぶイメージは映像だけでなく、夜明け前のシンと冷えた、けれど心地よく引き締った空気や温度まで感じさせる。ここから何かが始まろうとしている。そんな気持ちにさせてくれる。 02. 夢想遊泳 MOONでテーマモチーフとして流れていたMOONISTをずんこさんが気に入っててっぺーちゃんに歌詞をつけてもらったという曲。 非常に幻想的で、ヨーロッパ的な色調と、ヨーロッパ的な暗さのイメージがコラージュのように目の前に広がっていく不思議な曲に仕上がっている。歌詞も、特定の意味を伝えようというものではなく、断片的な映像のイメージをランダムにつなぎ合わせることで不思議な世界を作り上げている。 偶然というには出来すぎだけれど、シルク・ドゥ・ソレイユの作り出す、単に明るいだけではない「サァカス」のイメージが二重写しに見えてくるような気がする。 これが実質的な一曲目に来ているというのは、ここから展開されていく世界も、一曲一曲は違っているのに、トータルな作品として見たときに不思議なほど調和感というか、統一感が生まれてくるということを象徴しているようにも思える。 ずんこさんの歌声も、空中を漂うかのような浮遊感があって、この曲の不思議な感覚を見事に生み出している。 これを聴いているとずんこさんが「歌詞は”あー”でもいいんだ」ということの意味が少しわかる気がする。言葉はもちろん意味を伝えるために発達したものだけれど、一方で音楽の中に響く純粋な「音」として捉えることもできる。楽器の音色と同じように、そのメロディ、その雰囲気を表すための最適な「音」の連続が歌詞なのだと捉えることも不可能ではないはずだ。そういう意味で、この曲は「歌詞の意味」に縛られることのない自由度を持っていると言えるかも知れない。 03. 鼓動〜月の雫 ずんこさんの美しいクラシカルコーラスが聞ける「鼓動」を序章とした新しい「月の雫」。これはもう素晴らしいリ・プロダクションだと言える。 鼓動の喚起するイメージは、まさに何かの誕生を感じさせる。ずんこさんの声が響くたびに、新しい光の輪が広がるような感覚がある。僕のイメージは水面に雨粒の輪が次々と花を咲かせるように、深く蒼い水面に月から光の雫がこぼれ落ちてきて。光の輪を次々と咲かせていくような。それが、やがて水面も、空間さえも淡い光に包まれた空間に変えてゆく。そんな感覚である。 ここに流れる桑野聖氏のヴァイオリンがとても美しい。イメージが加速していくような、始まりの予感をどんどん膨らませていくような演奏といえる。 そして鼓動から月の雫へ。光のカーテンの向こうに凛として、涼しく、姿月あさとの姿が浮かび上がってくる。 MOONでの力強い歌声も魅力的だったが、ここでの歌声は深みを増して、直線的な強さではなく、しなやかさで曲を包み込んでいる。 以前は、おそらくずんこさんはこの歌を自分のこととして歌っていたと思う。これは推論でしかないけれど「FIRST」の頃はまだ、やはり振り切れていない思いがあって、それがこの歌に、強い意志を感じさせるようなイメージを与えていたのだと思う。MOONでは役柄としてこの歌を捉えれば、あの力強さは納得できる。あの月の雫は「アサート」のものだったのだから。 けれど、この月の雫でのずんこさんは間違いなく、以前のずんこさんとは違っているような気がする。なんと言えば自分のイメージが伝わるのか、なかなか思い浮かばないのだけど・・・。たぶん、レビューの最初に書いた「あなたを抱きしめてくれる」っていう感じが一番近いのかもしれない。ずんこさん自身が突き進んでいくというのではなくて、優しくあなたの手を取って、力強く一歩を踏み出そうとするような「優しい強さ」とでも言えるイメージがある。「さぁ、行きましょう!」と呼びかけられているような感覚である。ここにある強さは個人の強さというより、誰かを守れる強さだという気がする。そしてともに旅立っていこうというような非常に前向きなエネルギーが感じられる。しかもずんこさんのスタンスはあくまでナチュラルで中立的な感じなのだ。これはもう新曲といっても差し支えあるまい。 04. ガラスの月 MOON DANCER(姿月版)に収録されていたが、本アルバムのために新たにミックスしなおされているようだ。全体にエコーが抑えられ、より落ち着いた雰囲気の音作りがされているためアルバムのトーンにしっくりと馴染んでいる。ずんこさんのヴォーカルも、より柔らか味を増したように聴こえる(歌いなおしはしてないと思う)。 月の雫が月から舞い降りた天使だとすれば、こちらは月の光に舞い歌う精霊とでもいう雰囲気がある。優しい月明かりの下を一歩一歩確かめるように、前を見つめて歩いているずんこさんが思い浮かぶような気がする。 月の雫ではリードをしていたずんこさんが、ここで歩くペースを聴き手とあわせたような、自分の世界に入ってきた聴き手と手をつないで歩き始めたような印象がある。ちょうどずんこさんがホストになって、世界を連れ歩いてくれているような気分になれるのではないだろうか。 05. 水を得た私 なんとポエトリー・リーディングである。行ったことはないけれど、バリの美しい浜辺と、その限りなく透き通るような海と、そこに柔らかく陽射しが差し込んできている水中のようなイメージを抱いた。やや低いトーンの落ち着いた声は、不思議な安らぎ感を湛えている。時に女性のようであり、時に男性のようであり、セクシュアリティを離れた不思議な感覚。大抵の場合、こういう作品は聴いていて背中がムズムズしたりするものなのだが、この作品に限ってそれがない。こんな不思議は始めて。詞だけみているときと較べて、ずんこさんの声を通したときのほうが遥かに「自然体」を感じる。何の衒いもなく、ただあるままに言葉を胸の中から発しているような、そんなイメージである。 06. Nero e Bianco 情熱的なナンバー。スペインの青い空と、真っ赤なドレスに身を包んだずんこさんのイメージが鮮明に頭の中に焼きつくような仕上がり。 それにしても不思議なのは歌詞だけ読むと、ある種のエロティシズムさえ漂うような情熱的な歌詞であるにも関わらず、耳から入ってくる印象は実に透明感のある「熱」であるように思う。これは身の裡に秘めた炎のような気がする。 ラブソングにありがちな「愛して欲しい」「愛しています」と押し付けてくるような煩さが一切感じられない。これは結構画期的なことで、こういう風に歌を解釈できる人は実は少ない。大抵は見返りを要求する印象が付きまとうことが多く、一見「振り向いてもらえなくても」といった内容の歌詞のものでも、結局は「こんなに愛してるんだからいつかは見返りがあるはず」というニュアンスになっていることが多い。 ところが、ここでのずんこさんの情熱は全く押し付けがましくない。つまり、これはずんこさんが歌の中に「見返り」を期待するような気持ちを持ち込んでいない証拠だろうと思う。こんなことは普通の人には出来ないんだが、本当に気配すらない。ただ、無心に「情熱」というエネルギーのみが歌に宿っているように感じる。つまり歌の中に個人的なスケールを持ち込んでいないということだろう。この人は音楽そのものになろうとでもいうのだろうか。姿月あさとという人は、とんでもない人だ。そう思わせる一曲。 07. 想い この一曲は大切な曲で、てっぺーちゃんのファンならみんなが愛している一曲だろうと思う。そういう曲だけに、実際に耳にするまでの期待と不安が複雑に入り混じった感情は、容易に説明しがたいものがある。しかしながら、姿月あさとは、そういう心配を必要とする歌い手ではなかった。 歌いだしのヴォーカルの優しさ、柔らかさ、穏やかさはいったいなんだろう。まるで心を柔らかい羽根で包み込まれたような暖かな気持ちは、ちょっと形容しがたい。まさに「優しく抱きしめられているような」気持ちになってくる。 てっぺーちゃんの「想い」には、てっぺーちゃん自身の純粋な気持ちが込められていて、少なくとも当時はまだ完全には吹っ切れていない米米クラブから旅立っていく自分を鼓舞するような、強い意志が感じられる。その個人的な思いが純化された結果、楽曲としての普遍性を逆に獲得している。 一方、このずんこさんの歌う「想い」は非常にスケール感が大きい。母なる大地のような温かさと、寛容さが感じられる。歌詞は一人称で歌われているのにも関わらず、むしろ、この歌の中に描かれている世界は聴いている自分を包んでくれるような感覚があるのだ。 これはひょっとすると歌に接した時期の違いもあるかもしれない。てっぺーちゃんは解散直後にこの歌を歌い、ずんこさんは退団2年後にこれを歌っている。おそらく、ずんこさんはこの歌の中で歌われている通り、真っ直ぐに前を見詰めている。だから、このようなスケール感が生まれたのだと思う。てっぺーちゃんも、これは絶対に作り手冥利につきていると思う。 そしてこの2つの作品が、それぞれにてっぺーちゃんの世界、ずんこさんの世界を表現することに成功していて、同じ楽曲でありながら、全く別の作品に仕上がっている点も素晴らしいと思う。ある意味、これは究極のカヴァーである。同じ楽曲から全く違う作品が生まれることがあるという、これは音楽の奇跡だ。 08. La voix du ciel, la voix de l'ocean −空の声、海の声− 美しいピアノの旋律と、ずんこさんのスキャットで構成された曲。インタビューでの「あー」だけでも感情を表現したい、という言葉通り、ここには言葉はない。 けれども、曲のタイトルどおりに、不思議なまでにイメージを喚起される。ここで僕の瞼の裏に浮かぶのは淡いブルーと、ピンクの入り混じったような夕刻を間近に複雑で美しい色合いを見せる空と、そこに刷毛で撫でたような薄い雲。それは空行く女神の広げたマントのようでもある。深い海の底から水面へと浮かび上がってくる水泡。日が沈みはじめ空には星たちが姿を見せ始める。その輝きを水面に揺らしながら、静かにうねる海。そんな映像である。 ずんこさんの心にはどんな映像が見えているのだろう。 09. berangkat −ブランカ− THE BOOMの曲である。ひところBOOMは大好きでよく聴いていた。これもそんな一曲のうちの一つ。アレンジ面ではオリジナルに近く、音の作りは聞き比べてはいないが、印象という点では非常に似ている。 ところが、これが不思議なもので、宮沢和史が歌っていたオリジナルとは全く違う作品に仕上がっている。ヴォーカルが違うんだから当たり前、と思うかもしれないが、そんなことはない。これは「想い」でも書いたが、ずんこさんが曲を自分のものとして消化している証拠だろう。 ここからはずんこさんのバリに対する(もっと大きく捉えて全てのものに、とも言えるかも)とても自然で素直な愛を感じる。何の気負いも衒いもなく、自然にわいてくる感謝の念のようなウェーブがあるように思う。誰かに対して「〜しましょう」というようなメッセージすらない。ただ、自然や人や動物たちに対する素直に「ありがとう」と言っているようなずんこさんの柔らかい笑顔のイメージである。 ここまで書いてきてまた同じことを書いてしまうが、本当に見事なまでにこのアルバムの全編にわたって姿月あさとは「自然体のままの自分」でありつづけている。メッセージ性のある歌においてさえ、それは彼女一人のものであって、誰に対してもそれを押し付けるような思いがない。そして、実はそういう態度こそが強力なメッセージにもなるのだと気付く。人間というのは不思議なもので「〜しろ」「〜はいいことなんだかろやりましょう」と言ったメッセージには素直になれない部分がある。少なくとも日本人にはそんな気質があるように思う。 けれど、目の前で実に素直にステキな振る舞いを見せられると「〜しろ」と命じられるより遥かに心に沁みてくるものだ。たとえば僕はそれなりに宗教心のようなものを持っている人間だとは思うけれど、それを誰かから押し付けられるのは我慢ならない。けれど、会社の人にいるのだけど、非常に敬虔なクリスチャンで、その人がステキな生き方をしている姿を見ると、素直に「いいな」と思える。 ここでのずんこさんにも、そんなイメージがある。凄くステキな人を見て「あの人はなんであんなにステキなんだろう」と思って、その人が自然を始めとしたあらゆるものに素直に愛と感謝を捧げているのを見れば、それはどんなメッセージよりも自分の心に響いてくるように思う。 つまりは、ずんこさんの歌がステキに聞こえるのは、彼女がステキな生き方をしていて、しかもそれをごくごく自然に表現しているからなのだ。誰にも押し付けない。強制しない。自分の信じる一番大事なことを素直に大切にする。ずんこさんが光り輝いて見えるのは当たり前だ。 10. Beautiful day 既発売シングルからの収録。シングルバージョンは聴いていないのでアレンジやミックスが変わっているかは分からない。が、アルバムのトーンに非常によく溶け込んでいるし、佳曲というべき楽曲である。 こうして聴いてくると、ずんこさんが決めたという曲順も実に見事。「Nero e Bianco」で天頂に達した太陽が徐々に光を変えながら、再び夜に近づいていく。この曲はそんな日没の風景を想起させる。曲の始まりではまだ太陽の名残が水平線にあり、その境界線は薄紫に染まっている。それが徐々に夜の帳が降りてきて、いつしか頭上には小さな星たちと、まるで空を切り抜いたかのような月が輝いている。森も海も川も動物達も、そして人も、みな優しい夜の闇のなかで眠りにつく。そんな安らぐ時間の訪れを感じさせる。一日の時間が流れ、そしてまた明日がやってくる予感とともに幕が下りる、そんな楽曲である。 この歌を聴いていると、姿月あさとという人が、一日一日、一時間、一分、一秒という時間の流れをとても大切に生きているんだということが理屈ではなくて、実感として伝わってくる。どんなことに対しても、それを感謝の想いで包み込んで、明日へのエネルギーにすることができる。そんな、しなやかな強さを感じないではいられない。 当然、人間だからパーフェクトということはないにしても、そうやって日々の中に起きてくる良いことも悪いことも、みんな一日一日の思い出の中に置いていくことは、出来そうでなかなか出来ない。この歌は、そんなふうに、一日を大切にしながら、でもそこに立ち止まることはないという、実はとても潔い強さも併せ持った歌なのではないだろうか。 11. MOON DANCER by MOONSTONES 言わずと知れたMOONのテーマ曲。曲調もテイストもアルバム全編の中では間違いなく異なっているし、テーマも違うのに、違和感なくラストに収まっているのは不思議な気分だ。 ちょうど10曲目までが「Sonata」というタイトルのオムニバスフィルムだとすれば、これはエンドクレジットに流れるエンディングテーマという位置付になるからだろうか。目を閉じると、本当に黒いスクリーンの上に「主演 姿月あさと」から始まるスタッフロールが流れていくような映像が思い浮かんでしまう。そして同時に、上演されてきたすべての楽曲のイメージが頭の中をフラッシュバックしていくような感覚である。そういう意味でまさに絶妙の曲順で、これ以外の場所のどこに入れてもアルバムの、ここまでのトータルなイメージは生まれなかったに違いない。 そして、姿月あさと、石井達也、金子隆博というアーティストの運命の出会いがこの楽曲にあったことを思えばてっぺーちゃんファンとして、そして姿月あさとのファン(新人(^^;)としても感慨深い。アルバムのエンディングを聴きながら、すべてはここから始まったんだな、という思いも湧いてくる。 アルバムを通して感じることは、姿月あさとという人が、驚くほど自分に正直で、しかも後ろを振り返って戻れもしない場所のことを悔やむような人ではないということ。すべてを、自分を前へ進めるためのエネルギーに変えていける人だということ。そして、そうあることを幸せに感じることの出来る人なのだと思う。 そういうずんこさんのエネルギーがこのアルバムを生み出す原動力であると思うし、その舵取りを見事にやってのけた金子さんのプロデュースにも拍手を送りたい。このアルバムは姿月あさとの新しい一歩を示す記念碑的な作品になったというばかりではなく、将来にわたって愛されつづけるアルバムになったことは疑いがない。 エンドロールが流れて、幕が閉まる。ステージのライトを浴びて、柔らかな笑みを浮かべる姿月あさとに、僕は精一杯、心からの拍手を贈ろう。 ↑戻る |
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| THE PRAYER 〜私だけの輪舞が誕生する〜 |
| 2003.12.24 ル・テアトル銀座 私にとって初の、ずんこさんの手による、ずんこさんのコンサート。期待と不安の入り混じった、ワクワクした気持ちで会場に向かいました。ずんこさんのファンの方たちは大絶賛のコンサートであるのは、ちょこちょこ耳に入ってきていました。 でも天邪鬼な私は逆に、そういう声を聞けば聞くほど「自分みたいな遅れて来たファンが本当について行けるのかな?」なんて思ってしまうのでした。なんといっても石井さんの手が一切入っていない状態でずんこさんを見るのは初めてなわけで、そこにはどうしても小さな不安はあったんですね。 しかも21日の石井さんのコンサートで私はかなり「う〜ん・・・」となっていたので余計にびくびくしていたのかもしれません。 まぁとにかく。普通の姿月ファンとは違うメンタリティで開演を待っていた、というのは間違いないでしょう。 さて。 結果から言えば、本当に素晴らしいショー&コンサートでした。「THE PRAYER」というタイトル以外にこのコンサートを形容する言葉はないでしょうね。まさに「祈り」にも似た、いや、「祈り」そのものと言っていいほどの、美しくも心地よい緊張感に包まれた、濃密な時間を過ごしたのでした。 その至福の二時間。もうこれ以上言葉を費やす必要もないのですが、まぁ言葉で書きまくるのが私の「売り」(?)なんで(^^; 書きます。 ■第一部:心に響いてきたこと 『その声は 凛と気高く 澄み渡り 私の胸を震わせる』 どう書いていけばいいのかよく分からないんですが、まずは私が第一部から感じ取ったことを、恥ずかし〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ポエム調で書いてみましょう。別名「単なるあらすじ」という説もあるが(笑)でもね、そう感じてしまったんだからしょうがないですよね。わっはっは(照れ)。 天使の降臨 開かれたパンドラの箱 暗闇が現われ 天使は羽根を失い地上に落ちた 光を闇が侵食してゆく 二つに引き裂かれた魂の叫びは、やがて大きな闇に飲み込まれ いつしか天使は黒衣をまとい 闇と血の盟約を結ばんとする しかし杯に満たされていたのは赤い葡萄酒 それは神の血 闇を祓う聖なるもの そして壊れたパンドラの箱の片隅にうずくまっていたもの それは 希望という名の 小さな光 「人」となった天使は 自らの胸に宿る光を見た 「人」は ついに白き衣をまとう 光が溢れ 闇に心を閉ざしていたものたちは 自らもまた白き衣をまとうものであることを知った いま高らかに歌は鳴り響き それは祈りとなって 天に届く そして 人々は 羽根のない天使となった もうねぇ。こんなこと書いてる自分はきっと後ですごく照れると思うんですけどね。でも本当にそういう気持ちになれてしまったんですよねぇ・・・。ただ皆さんが同じ感想を持ったなどとは思いません。 と、いうのもずんちゃん(もう今回はこう書かせてください!)の表現したものは、一つのストーリーであるとともに、観客の数と同じだけのイメージを生み出す「鏡」でもあったと思うんですね。 あそこに表現された光と闇、善と悪、白と黒の世界は決して一つの解釈の上にあるものではありませんでした。あのステージと向き合うことはずんちゃんの世界を見ると同時に、自分と向き合うことでもあったように思います。 これは私の考えですが。結局どんな表現も、自分の目と耳以外では見聞きできないわけで、つまり、表現を見る、という行為は「自分のものの見方を知る」場でもあるはずなんです。ただ、その表現されたものが凄く局所的な見方だけを見るものに強制するようなものでは、それは出来ない。「あ、これは自分とは違う」っていうのは分かりますけどね。でも「自分と向き合う」っていうことはない。 今回のステージは、そういう意味でも物凄く昇華された高度なものだったと思うわけです。ずんちゃんの描いた世界の持つ「広がり」はちょっと尋常じゃないものだったと思います。しかも、やはりあの世界は「姿月あさと」にしか表現できないものになっていました。誰にも真似できないほどに「姿月あさとの世界」なのに、それを見る人の心の中にはそれこそ星の数ほどのイメージを生み出していたはずです。 時期が近接していたのでどうしても石井さんの話題とリンクしてしまうのですが。 あちらのステージでは、まさに局所的なものの見方しかできない演出、構成、MCでした。感動した人もいるかもしれませんが、私の感想はレビューした通りです。 中二日で見た両者のステージのあまりの差の大きさに、私は呆然としてしまいました。そのくらい、石井さんのステージにはガッカリしたし、ずんちゃんのステージには感動したのです。もし石井さんも、このずんちゃんのステージと同じくらいのものを見せてくれていたら、と思うと・・・・ ま、それはさておき。 科白もない。説明なんて全然ない。最小限のナレーションと、歌、ダンス。これによって私たちの胸に届けられたもの。それは第一部の上演時間80分間で語れる言葉の何倍にも匹敵するものでした。 多くの曲を聴いたはずなのに、まるで全部で一曲の長い叙事詩を見たような気がしているのは、けっして私だけではないはずです。それは、初めから終わりまで、ずんこさんがステージに姿を見せていないときでさえ、やはりステージにはずんこさんの「歌(意志)」があり、全体を一つの世界にまとめあげていたからでしょう。 もうね・・・。この感動はこれ以上語れる言葉がありませんよ。本当に。 とにかく私は何度も見ていて「THE PRAYER」というタイトルなんて関係ないところで「祈り」というキーワードが胸の中に浮かんでは消えました。 私は「祈り」というのは決して宗教と直接に結びつくものではないと思っています。それは、自分自身と、自分を取り囲むすべてに対する感謝なのだろうと。それが「祈り」の本質だと思うわけです。 ずんちゃんの歌声は澄み渡り、凛として、気高くて、力強くて、優しく、そして聴いている者の心の中にも「祈り」にも似た気持ちを抱かせてくれるものだったと思います。 本当に、一年の終わりに素晴らしい舞台に巡りあえたことを、私も感謝したいと思います。 ■第一部:歌について え〜と、一応「歌」そのものについても書かせてください。 とにかく今回ワクワクしちゃったのは魅惑の低音から、至福の高音までを生かした幅広い選曲。 特に「Torn Apart」の低音から突き上げてくるような歌声には鳥肌ビリビリきちゃいました、マジで。このtornというのはtear(引き裂く)の過去分詞形なわけですが、tear(引き裂く)とtear(涙)が同じスペル、というのも私にはすごく感じるところがありました。まさに引き裂かれた魂の叫び、という感じだったわけです。ずんちゃんの歌声も。「とーなーぱっ!」が耳から離れませんです。はい。 それから「夢想遊泳」もアルバムよりキーが低く直して合ったのがまた魅力的でしたね。個人的にかなりハマりました。高音で歌っていたときよりも幻想感というか、影の魅力が出たような感じでしたよね。光がやみに侵食されていって、その境界線がどんどん曖昧になっていく不安感とか、非現実感がとてもよく出ていたと思います。 あと「この星に愛を♪」っていうのもフェイバリットですね。まさに「祈り」というべき澄んだ歌声で「こんな声が出せる人がいるのか」っていう驚きもありました。 とにかくどの歌も非常に素晴らしいものだったんですが、特筆すべきは、その歌の「表情」の豊かさでしょう。アーティストファイルで書かせてもらったことが、そのまま目の前に答えとしてある、っていう感じでしたね。一つ一つの曲に、ずんちゃんの「演技」が反映されていて、見ていて「これこそがシアターコンサートだっ!」と心の中で叫んでしまいました。 歌舞伎を例に出しますけど。「鏡獅子」という一時間ほどの舞踊があります。これを勘九郎さんが踊ると、まるで「踊り」という名の神に奉仕している巫女のように見えてくるんですね。「踊り」そのものが勘九郎という人の身体を使っている、というような。不思議な陶酔感があるわけです。 ずんちゃんを見ていると、ちょうどそれと同じというか。自らの意志で歌い、踊りながらも、そこには「歌そのもの」「踊りそのもの」の化身が現われたかのような存在感があるように思えるんですね。 そういうわけで本当に大満足な第一部なのでした。 たとえこのまま幕が降りても、私は納得できたでしょうね。そのくらいの充実感が身体を支配した舞台でした。 ■第二部:素顔のずんちゃんはキュートでチャーミング♪ 大工の・・・もとい、第九のメロディとともにペンライトふりふりで始まる第二部。う〜ん、こちらはとっても明るいノリでした。あのペンライト、仕組み的には石井さん考案のピーストルと同じと見ました。でもこっちのほうが使い途あるかもね(^^; で、思いのほかの骨太なサウンドに支えられた「ロック版第九」で緞帳オープン!ずんちゃんの歌声が明るく高らかに響きます。 そして、なんといっても輝くような笑顔。うんうん。さっきの気合の入った表情もビリビリときましたけど、やっぱり男性の私にはこの笑顔がたまりません(^.^) でも、こんな感想は妻には言えないですけどね。「ずんちゃん、カワイイ!」なんてねぇ(笑) でもって、この日、会場を訪れていた桂由美先生のドレスをまとったずんちゃんのスーッとした美しさにはもうメロメロでございます。 と、いうわけで第二部はシアトリカルな雰囲気が一転、ずんちゃんのお部屋に招かれているような暖かいコンサートです。 そして、やはりずんちゃんといえば、そのトークでしょう!ここまで天然なキャラクターとさっきまでのあの人が同じ人なんですからねぇ・・・。しかし、このギャップがまたたまらないわけで、もう私、すっかり姿月あさとファンですよねぇ。 「今日は バンドを 美女ばかり 集めてみました・・・・。あたしも・・・ドゥァッハッハ」 くぅ〜〜〜〜。これを見て「かわいい」と思ってる私は間違いなくファンです。参ったなぁ、もう。 「みなさん、今日はクリスマスイブですね。こんなところにいらしてていいんですか」 みんな力強くうなづいてますね。はい。当然でしょう。 「少しずつ男性の方も増えてきたな、と」 初参加させていただきました!でも「男性が女性を連れてくる」というパターンは少ないのではないか、と心の中で思っていたのでした。実際、どうなんでしょうね。 でも、一度見たら、次は奥さんや恋人を誘ってくるよね。あ、いやいや、結婚しているなら知らず、恋人同士はマズイですね。間違いなくずんちゃんに奪われてしまします(^^; さて、本日はイブ、ということで「ホワイトクリスマス」をずんちゃんの指揮(ペンライト)で合唱。とおっしゃるのだけど、あんなにステキな歌声を聞いちゃったら自分では歌えないですよ。 それにしてもこの指揮棒の振り方が最高でした。こんなに「笑い」の取れる人だったんですね・・・。と考えてみればずんちゃんは「大阪人」。やはりそこには「笑いのDNA」が流れているとしか思えません。 そしてHEAL THE WORLD。もとはマイケル・ジャクソンが歌ったものですが、ずんちゃんの作った歌詞と、澄んだ歌声でまったく別のものに生まれ変わってました。マイケルのはとりあえずライブラリから削除しようというような曲ですが(^^;、ずんちゃんバージョンは、これはもうスタンダードナンバーと言っていいでしょう。本当に美しい歌になってました。 MCを聞いていても、歌を聴いていてもつくづく思いますけど。ずんちゃんって本当に「自分を飾らない素直な人」なんだなぁと思います。だからこそ、歌が澄み切った美しさを湛えているのでしょうね。 そして本編最後は「祈り」。ファンの方の間ではもう十分に浸透している曲のようで、曲紹介での拍手も多かったみたい。とにかく、これは静謐な美しさですね。なんていうのかな。源泉のような透明感。清冽な空気。静謐な佇まい。けれど、大きな力強さも秘めている。そういう歌声を聴かせていただきました。たとえ「祈り」というタイトルを言われなくても、これは「祈り」なのだと分かったでしょう。そのくらい純度が高い。 さて、最後は「聖しこの夜」です。ワンコーラスはずんちゃんの天上の歌声で。そしてずんちゃんの「指導」で「みんなで歌いましょう」だったわけですが。これが最高でした。 歌唱指導の第一声 「キヨシ!」 声を出して笑わないようにするのは結構大変でした。だって前川清の声援みたいだったんです(ごめんなさい)。これが見事に私の笑いのツボにはまりまして。いや、もちろんこれは「きーよーしー こーのよーるー♪」の歌詞なんですけどね。普通は「きよしこのよる」って一気に言いますよね。やはりここにも「笑いのDNA」を感じないわけにはいきません。 そんなわけで、聖なる響きがホールを満たす中、私一人は笑いの渦に耐えていたのでした。あぁ・・・・これを懺悔せずして何を懺悔する。 そして最後の最後までみんなの拍手に応えてカーテンコールしてくれたずんちゃんはやはり素敵な女性でした。おかしかったのは最後に客席の前の方が「アンコール」って言ったのかな?そしたらずんちゃんが「いま歌ったじゃない(^^;」って突っ込んでいたのが暖か〜い雰囲気でねぇ・・・。これじゃあファンの人が離れられないわけよ。 と、冷静にレポできなくなってる自分が言っても説得力に欠けますけど。 とにかく!これほど一年を締めくくるのに相応しい時間を過ごせたのは、本当に幸せでした。もうこのまま大晦日になっちゃえばいいのになぁ! ↑戻る |