長崎の原爆と祖父


2010年8月9日

今年もまた、原爆の日を迎えます。

以前にも書きましたように
当時浦上に事務所もあり
大切な知人がたくさんいらっしゃいましたので
祖父は、原爆の日から、毎日、1週間
朝早くから、夜遅くまで
浦上の町を、知人を捜して歩き回りました。
その後、しばらく、ぼーっとしていたそうです。

何も聞いてはいけないような雰囲気があり
原爆の話を祖父から聞く事はありませんでした。

今は、祖父から、その当時の事を聞いたかもしれない人も
皆、亡くなってしまいました。

原爆の話を聞く事は、とても辛い事ですが
話して下さる方がいるうちに
もっと聞いておかなければと思います。

2009年8月9日

今年も、原爆の日になりました。

祖父の家は、爆心地からはだいぶ離れていますが
家が倒れなかったのは、町内で、祖父の家と
もう一軒だけだったそうです。

お隣の御主人は、出征なさって、帰って来られたら
家中の方が亡くなってしまわれていて、お一人になられた
と聞いております。

祖父の家には、家を無くされた親戚や知り合いの方で
一時は、30人を超える程の方が暮らされていたそうです。

いかに、被害がひどかったかが、推測されます。

被爆地長崎の被害を、広くお知らせするのが
私達の努めでは・・・と思います。

2008年8月9日

今年も、原爆の日を迎えます。

「浦上は、勉強の場だった」
祖父は、そう言っていました。

旧浦上天主堂は
明治28(1895)年から大正3(1914)年に
造られました。

この時期祖父は、明治32年から教会を造り始め
長崎や、佐賀、今村と教会を造り続けていました。
建築の天才と言われたフレノ神父様の造られる
旧浦上天主堂には、しばしば、通ったそうです。

祖父は、昭和13年の水の浦教会から26年の愛野教会まで
教会を造る事ができなかったのですが
旧浦上天主堂の煉瓦を使ったと言われる
鯛の浦教会だけを、昭和21年に造っています。

2007年8月6日

もうすぐ長崎原爆の日です。

長崎市に、原爆資料館があります。
原爆の落下中心地のすぐそばです。

もし、長崎にいらっしゃる事があったら
足を運んで頂けたらと思います。

何があっても、原爆はあってはならないと
心から強く思うと思います。

2006年8月7日

今年も、もうすぐ長崎原爆の日を迎えます。

祖父の建てた教会の、造られた年を見ると
昭和10年頃までは、1年に複数の教会を
造っていましたが
昭和10年の崎津教会の後は
昭和13年の水の浦教会をのぞくと
昭和26年の愛野教会まで、教会を建てる事は
できませんでした。

水の浦教会は、五島という事もあって
なんとか、建築できたと聞いています。

昭和10年に、祖父は56歳
昭和26年には、祖父は72歳になっていました。

昭和10年頃から、どんどん教会を建てにくい
世の中になっていって
戦争が始まると
祖父と一緒に働いて下さっていた方々が出征され
建設に必要な機械などを軍に供出し
原爆で、すべて無くなってしまいました。

最近、もう少し、祖父の建てた教会が見たかったなあと思います。

同時に、戦争や原爆によって受けた被害が
どんなに大きかったかと思います。


2005年8月6日

今年の8月9日は、60回目の長崎原爆の日になります。

私が、初めて原爆について考えたのは
小学校の低学年だった、ある暑い夏の日でした。

父の書庫で、1冊の本が目にとまりました。
「純女学徒受難の記」という名前の本でした。
長崎にある、純心女子学園というカトリックの学校の
生徒さんや、先生方、シスターの方々の
原爆の体験をつづったものでした。

私が今まで読んだ本の中で、1番印象に残った本です。

読みはじめたのは、お昼過ぎで
読み終わった時には、日がもう傾いていて
西日が部屋にさしていた光景が、今でも心に焼き付いています。

長崎にいらした皆さんがそうだと聞いていますが
原爆の後、祖父も、知り合いを捜して
ずっと浦上を歩き回ったそうです。

いろいろな事を見た筈なのですが
祖父は、原爆について、ほとんど話しませんでした。
もっと勇気を出して
原爆の話を聞けばよかったと思っています。


2004年8月9日

今日は、8月9日、59回目の長崎原爆の日です。

長崎市は、この時期大変暑いのですが
今年は、また、1段と厳しい暑さの中で
原爆の日を迎えました。

祖父は、1945年のこの日、長崎市におりました。

「長崎県の歴史」によりますと
当時、長崎市には、三菱長崎造船所がありましたので
原爆の前に、6回もの空襲を受けていたそうです。

祖父は、当時は、建物を建てるのではなく
壊す仕事をしておりました。

いくつかの会社の方々と一緒に、建物を壊して
空襲で火災になった時に、それ以上の延焼をしないように
火災を止める為の広い道のようなものを、作る仕事でした。

祖父は、几帳面な性格ですし、軍の大切な仕事でもありましたので
たとえ、熱があっても、決して休む事はありませんでした。

当時、会社は、浦上にあって
建物を壊す仕事の場所も浦上でしたので
毎日、浦上に通っていました。

8月9日の朝、祖父が、仕事に出かけようとする時に
大変珍しい方が、祖父を訪ねてこられました。
これから遠くに行くので、その前に一目会いに来たという事でした。

当時は、1回別れたら、そのまま、会えなくなる事が多かったので
祖父も、なかなか仕事に出かける事ができなくて
それでも、別れを告げて、浦上に出かけようとしていた時に
午前11時2分、浦上に原爆が落ちました。


原爆で亡くなられた方、今なお、原爆症で苦しんでいる方が
たくさんいらっしゃる事が、とても悲しいです。