聖フランシスコ・ザビエル(St.Francis.Xavier)




 聖フランシスコ・ザビエルは、St.Francis.Xavierと書きます、姓は、スペイン語では、「ハビエル」「ザヴィエル」、バスク語では、「シャビエル」となどと発音するそうですが、日本では、「ザビエル」と教科書にも載っていますので、ザビエルという呼び方を使わせて頂きます。

 1543年(天文12年)3人のポルトガル人が種子島に着いて、鉄砲を伝えました。その後、ポルトガルの商船は、九州各地の港に来ました。中国の生糸や絹織物などを輸入して、日本からは、武器や蒔絵や銀などを輸出していました。

 6年後の1549年に、聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸して、キリスト教の伝導が始まりました。これが、日本とキリスト教の出会いです。

 聖フランシスコ・ザビエルは、ナバラ王国ハビエル城で、ナバラ王国の首相フアン・デ・ハッスーの6人兄弟の末子として生まれました。お母様は、マリア・デ・アスピルクエタというお名前です。ナバラ王国は、スペイン北部ピレネー山脈のふもとにあります。

 ナバラ王国は、フランスでも、スペインでもありませんでしたが、1512年、聖フランシスコ・ザビエルが6歳の時に、スペインとフランスの戦いが始まりました。ナバラ王国はフランス側に参戦しましたが、敗れて、700年続いたナバラ王国は滅びました。その心労で、聖フランシスコ・ザビエルが、9歳の時、お父様が亡くなられます。

 聖フランシスコ・ザビエルは、19歳の時、パリ大学に入学しました。「キリシタンの文学」によると、ザビエルの入学した聖バルバラ学院では、学生は、4時起床、6時にミサ聖祭、8時から10時まで授業、討論、復習、11時に昼食、午後は3時から5時まで授業、6時に夕食、8時にお祈り、9時消灯という決まりでした。その後、日本で、聖職者を養成する為に作られたセミナリオなども、こういう風な厳しい時間割が決められたそうです。

 その後、ザビエルは、イグナチオ・デ・ロヨラと知り合います。1534年8月15日、聖フランシスコ・ザビエルが28歳の時、パリのモンマルトルの丘で、ロヨラを中心に、7名で、のちに『イエズス会』となるグループを作り、「清貧」「貞潔」「聖地巡礼」の誓願を立てます。

参考文献:ザビエルの旅
日本史小百科 キリシタン
人物海の日本史 天下人と南蛮船
総合日本史図表
キリシタンの文学