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 私にとって、このHPを作る事は、祖父と再び会う事でした。 



 私が祖父と暮らしたのは、私が中学2年の時から祖父が亡くなる少し前までですので、10年位でしょうか?祖父が80才を過ぎてからです。いつも穏やかでニコニコしていて、怒った祖父の記憶は全くありません。 


 神父様とよくお会いしていたので、とてもお洒落でした。山高帽に眼鏡をかけて、帽子をかぶっていました。夏でもいつも黒の三つ揃えの洋服を着て、ベストのポケットから懐中時計を出して見ていました。ハイカラな事が好きで、ワインやフランス料理も好きでした。ナイフやフォークも使うのが上手で、会話に時々英語などの外国語が混じっていました。工事現場が大好きで、父に会社を任せた後も、毎日1人で電車に乗って、現場回りを何時間もするのが日課でした。人一倍健康と友人に恵まれていました。 


 このHPを作る為に、いろいろなHPを見たり、祖父について書いて下さった本を読んだり、テレビで取り上げて下さった時のビデオを見たり、新聞の切り抜きを見たりしていますと、祖父が歩んできた道の険しさを、今更のように感じます。しかしそれ以上に、祖父が教会を作る為に、いろいろな事を教えて下さったたくさんの方々に恵まれた、とても幸せな生涯であったという事も感じます。 


 あれは何年前になるでしょうか?私は、ヨーロッパのとある大きな教会で、たまたま御ミサをしている所に出会いました。ステンドグラスからもれる柔らかな光の中で、ハモンドオルガンと賛美歌が流れていて、私はキリスト教徒ではありませんが、なんともいえない不思議な感動を覚えました。祖父が、教会に魅せられた気持ちが、初めてしみじみと実感できました。 


 祖父は明治12年、長崎県五島で生まれました。祖父は、大変きちょうめんな性格で、学校に行くにも毎日歩数をはかっていたそうです。有川小学校の高等科に進んでからは、船で学校まで、通っていたそうですが、漕ぎ手はほとんど祖父で、風雨の強い日には、山道を片道6キロ以上歩いて通ったそうです。祖父の体力は、そういう生活の中で、自然に鍛えられたのだと思います。 


 祖父が、曾祖父(祖父の父)の元で、大工の修業を始めたのは、15歳頃で、17歳くらいには、普通の家は建てられるようになっていたそうです。祖父と、教会との出会いは、祖父が20歳の時で、ペルー神父様のご指導を受けて、野原棟梁のもとで、曽根天主堂を造った時でした。初めて西洋建築に出会った祖父は、どんなに驚いただろうと思います。 


 祖父は、小学校の高等科しか出ていません。教会といえば、リブ・ヴォールト天井(柳天井ともいいます)と、ステンドグラスを思い浮かべる方が多いかと思います。コンピューターが発達した今日でも、柳天井の構造計算は大変難しいものだそうです。微分、積分、力学など、たくさんの事を学ばなければならなかったのですが、祖父は本からと、いろいろな師との出会いによって、少しずつ力をつけていきました。 


 家族の者はみんな、祖父はいつ眠るのかなと言っていました。それ程たくさんの事を学ばなければ、教会は建たなかったのだと思います。たくさんの現場をかけもちしていましたので、移動はいつも夜汽車でした。また、歩くのが大変早く、一緒に行動をしていた山本さんの話では、祖父が70歳を過ぎても、祖父の歩く早さは早く、一緒に歩くのはとても大変だったそうです。 


 祖父の造った天主堂は、1つも同じ形がありません。構造も、煉瓦造り、木造、コンクリート、石造りとさまざまですし、天井も、リブ・ヴォールト天井、折上天井と、いろいろなものがあります。バロック風のも、ロマネスク風のもあります。祖父は、神父様が持っていらっしゃるたくさんの天主堂の写真を見て、今度はこういう感じの天主堂を造ろうと、いろいろ夢を膨らませていました。 


 祖父は、やはりヨーロッパに行って、たくさんの教会を見ようとしました。ところが途中の上海で、当時、東洋一の天主堂の建築に参加しているうちに、第1次世界大戦が始まったので、そのまま帰国しました。その時の天主堂は、教会としては使われていませんが、まだあるそうです。 


 祖父の父以外の初めての師との出会いは、野原(野崎ともいわれています)棟梁でした。野原棟梁は、当時ペール(ペルー?)神父のもとで、曽根天主堂を造っていました。祖父はペール神父に、柳天井と幾何学を学びました。そして翌年、祖父が初めて設計・施工した冷水天主堂を建てます。 


 その次の出会いが、ド・ロ神父様です。長崎県外海を中心に活躍したフランス貴族出身の神父は、祖父を『てつ』と呼んで可愛がってくれて、モルタルの塗り方、レンガの使い方など、さまざまな事を祖父に教えて下さいました。
 『てつ お前の心が 悪くなければ 仕事はできる』
 これが神父様の教えでした。ド・ロ神父様は、遠藤周作先生がこよなく愛した外海地区に、煉瓦造りの出津天主堂や大野天主堂を建てた方です。大正4年に完成した大浦天主堂の大司教館は、ド・ロ神父様が設計し、祖父が施工しました。
 『教会は、50年、100年もたせる必要がある。その為には土台をしっかりしなければ』
 というのが、ド・ロ神父様の教えでした。 


 その次に、祖父が影響を受けたのは、旧浦上天主堂を建てたフレノー神父様でした。神父様は、図面を引かず頭の中にある構想だけで天主堂を建てる天才でした。のちに祖父は、浦上天主堂の双塔を建てます。これが原爆で壊れてしまったのはとても残念です。 


 最近、三沢博昭先生の写真集『大いなる遺産 長崎の教会』という本が、智書房から出版されました。祖父の教会は行くのが大変なものもあって、まだ私が実際に見ていない教会がたくさんあります。この写真集で、行った事の無い教会を見る事が出来ました。ステンドグラスの写真が特に綺麗で幻想的です。このHPには、三沢先生から特別に掲載のお許しを頂きましたので、たくさんの三沢先生のお写真があります。ステンドグラスや煉瓦は、その頃なかなか手に入らなかったので、祖父は輸入したり、特別に作って貰ったり、とても苦労しました。その事を思うと特に感慨深いものがあります。


 三沢博昭先生の写真集『大いなる遺産 長崎の教会』の中に、川上秀人先生が、建築物としての教会や、教会の歴史について書いておられます。このHPの中で、教会の天井の名前や、構造や、煉瓦の事や、現在の状態など、いろいろ引用させて頂きました。教会について、もっと専門的にお知りになりたい方は、読んで頂けたらと思います。