title

tensi








 明治41年に、祖父は日本建築学会会員になります。工部大学校(現東京大学工学部)などを卒業したエリート建築家を主とする会員のなかで、祖父は苦労しただろうと思います。講習会に1回も欠かさず通っていたそうですが、当時長崎の五島から何日もかかって上京していました。列車がまだ通ってない所は、歩いて行ったと聞いています。ただ、祖父は自分の子供に対して、非常に教育熱心でした。きちんとした教育を受ける事の重要さを、誰よりもわかっていたからだと思います。


 信者さんが大事に守り、祖父が丁寧に作ったので、今でもたくさんの教会が残っています。信者さんの心のこもったお金で建てる教会ですから、祖父は仕事にはとても厳しかったそうです。祖父の口癖は、建築は基礎が肝心という事でした。基礎は建ててしまえば人の目にはふれません。祖父の建てた天主堂は、長い時を経ても壁に全くひびが入っていません。基礎を大事にしたからだと思います。大浦天主堂の大司教館は、原爆で瓦1枚落ちなかったというのが祖父の自慢でした。長い年月をかかって作られた教会が多いのは、お金がたまるとすこしずつ工事を続けたからです。 


 祖父が1番感動したのは、ある教会の支払いの時に、全部1円札だったのを見た時だそうです。それほど信者さんにとっては、教会は大切な物だったのです。祖父が、最後に五島に行ったのは、祖父の亡くなる1年ほど前だったのですが、その時に、五島の信者さんがきれいな家に住んでいるのを見て、とても喜んだそうです。自分の家よりまず教会をというのが、五島の信者さんのお考えでした。


 祖父の1番の天主堂は、今村天主堂(福岡県)だと言われています。レンガ造りのふたつの鐘塔を持つ、美しい天主堂です。当時いた五島の魚目村から、海上70キロ、陸上105キロ、合わせて175キロもあります。 


 父は祖父の事を、お金を使わないで、綺麗な頑丈な天主堂を造るのが上手だと言っていました。当時はみなさん貧しかったので、天主堂を作る事は経済的にもとても大変でした。そこで手に入りやすい材料を使っていろいろな工夫をして教会を造りました。 


 私達家族が教会を訪れた時にまず感じるのは、お掃除が行き届いていて、とても綺麗にしてある事です。大事に守って下さったたくさんの信者さんに、心から感謝いたします。 


 祖父を支えた祖母も、厳しい人生でした。遠くで教会を建て始めると、長い間留守を守ってきました。近くで建てる時は、毎朝3時半に起きて、20人程の職人さん達の衣食住の面倒をみてきました。祖母も穏やかな性格で、私達に怒った顔を見せた事がありませんでした。 


 『おれの仕事の半分はトサ(祖母)がした。』とよく祖父は言っていました。祖父と祖母は、昭和48年と49年に長崎市から「最長老夫婦」として表彰されました。昭和49年の時で、祖父95歳、祖母84歳、合わせて179歳でした。


 祖父の仕事について、今回いろいろな本を読んだり、HPを見たり、ビデオを見たりして気付いた事は、正確な事がわかり難い事です。原爆で図面など焼けてしまったり、1つの教会の工事が長い期間かかると、年代など資料によって違っています。 


 祖父の仕事に、初めて興味を持って下さったのは、『長崎の天主堂と 九州・山口の西洋館』を書かれた九州大学の太田静六先生でした。昭和37年、祖父が83歳の時で、初めて今村天主堂をご覧になった時です。その4年後の昭和41年に、当時太田先生のところで助手をなさっていた、土田充義先生を中心に、4人で1週間もかかって、今村天主堂の屋根に登ったり、天井裏まで調べられて、実測なさいました。 


 土田充義先生は『近代日本の異色建築家』をはじめ、いろいろな本に祖父の事を書いて下さいました。そして今村天主堂を実測なさった1ヵ月後、祖父が87歳の時に、土田先生は祖父に長崎まで会いにいらして下さいました。 

 

 祖父が91歳の時に、太田静六先生が祖父に長崎まで会いにいらして下さいました。太田静六先生の『長崎の天主堂と 九州・山口の西洋館』が出版されたのは、昭和57年で、祖父は51年に亡くなっていますので、本を見る事はできませんでした。この本には、祖父や、ド・ロ神父様や、祖父の造った教会について大変詳しく載っています。祖父がこの本を見る事ができたらどんなに喜んだだろうと思います。 


 これからHPを更新しながら、教会を造ったたくさんの方々や、祖父の仕事や、祖父の一生を調べていきたいと思っております。 


 亡くなった日の朝も、祖父は自分の造った教会の写真を見ていたそうです。本人は亡くなっても、その作品である教会が残る建築という仕事は、素晴らしいなと心から思います。そして、そういう仕事に携わった祖父を持った事に、とても喜びと幸せを感じます。