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 第1回 大浦天主堂の大司教館と『ド・ロ神父』様 





 有名な大浦天主堂の右側にある、煉瓦造りの建物です。大正4年に出来ました。 大司教館は煉瓦造りの3階建て、日本瓦の大きな建物です。屋根が北側は切妻屋根ですが、南側は寄棟屋根です。大浦天主堂にいらっしゃった時に、見て頂ければと思います。片岡弥吉様の著書によると、ドロ様は、大司教館の構想に2年かかって、祖父と設計するのに、2ヵ月かかったそうです。この建築費のほとんどが、ド・ロ神父様の私費だったそうです。


 この建物は、資料によって名前が違います。司教館、司祭館、大司教館、旧大司教館と、さまざまな呼び方をされています。これは、その時に住んでいらっしゃる神父様によって、名前が違っているようです。
 カトリック長崎大司教区から出された「長崎の教会」によると、ここには、プチジャン司教様、フランスの4人の司教様、早坂司教様、山口大司教様、里脇枢機卿様が お住まいになられたそうです。 「長崎の教会」の呼び方をここでは、使わせて頂いて、大司教館と呼ばせて頂く事に致します。今は『長崎コレジオ』として、神学生の方々が、学んでおられます。


 教会ではありませんが、この大司教館は、祖父が多大な影響を受けた、ドロ様が設計をして、祖父が施工致しました。祖父にとっては、とても大事な建物です。それで、1回目の教会のお話として選びました。祖父はよく、ドロ様の話をとても嬉しそうにしていました。『ドロ様が・・・』と話す時は、祖父が上機嫌の時でした。ドロ様の事を祖父は、その生き方、建築に関する考え方・・・全てにおいて、尊敬しておりました


 神父様は、祖父の事を、『てつ、てつ』と呼んでとても可愛がって下さり、モルタルの塗り方や、煉瓦の使い方など、たくさんの事を教えて下さいました。煉瓦の使い方は、当時工事中だった長崎県庁(これは、東京駅などを造られた辰野金吾様が顧問をなさっていました)の工事現場まで祖父を連れていって下さって、さまざまな事を細かく教えて下さいました。


 この大司教館を造る時には、大きな工事現場でしたので、祖母も、近くに小屋を建てて、親戚の女の人達と一緒に、工事をなさる方々の衣食住のお世話をしました。祖母は、ド・ロ神父様の事を、
 『相手の目を見ながら、ゆっくりとした日本語を話される方で、とても優しい、暖かい方だった。青い目をしておられた。』
と話していました。
 ドルエ神父様のお話によりますと、ド・ロ神父様は、大変冗談の好きな明るい性格の方で、いつも食卓に笑いが絶えなかったそうそうです。


 この大司教館の建設中に、ド・ロ神父様は、祖父を呼んで、いろいろと教えて下さった師でしたのに、お会いする度に、祖父に50銭銀貨を下さったそうです。
 『お前の時間をつぶした。』
というのが、その理由だったそうです。当時、大工さんや、左官さんの日当が、70銭でしたので、50銭は大金でした。ド・ロ神父様の思いやりにあふれた性格をあらわしていると思います。


 ド・ロ神父様とのおつき合いは、神父様が亡くなられる前の3年間くらいでしたが、祖父は多大な影響を受けました。神父様は、この大司教館の工事中の事故で亡くなられました。亡くなる前に神父様は

 『てつ、お前の心が悪くならなければ、将来十分に仕事をやっていける。しっかりやれ』

と言い残されました。この言葉が、生涯祖父を支え続けました。ド・ロ神父様は、この大司教館を造られる前に体調を崩されていて、静養の為に出津から大浦に来られました。この大司教館を建設される時に、祖父にご自分の持っておられる建築の知識の全てを教えた事で、とても喜ばれたそうです。ご自分が亡くなられた後、教会を造る人がいなくなる事を心配なさったのだと思います。


 ドロ様はフランス貴族の出身で、慶応4年に来日なさいました。日本にいらっしゃる前から、建築の知識がおありになったようで、パリに最初の建物である「旅立つ人の保護者なる聖母」という礼拝堂を建てておられます。明治8年、旧ラテン神学校を建てられた時に 材木を持ち上げて、体調を崩されました。印刷、医療、福祉、建築、土木、開墾・・・などあらゆる事に詳しく、また、日本にいらした時に持ってこられた莫大な私財も、外海をはじめ、田平、長崎の信者さんの為に捧げられました。


 ドロ様は明治12年(1879年)39歳の若さで、出津の教会に任命され、遠藤周作先生がこよなく愛した外海地区に、出津天主堂や、大野天主堂を造られました。天主堂建設の時には、信者さんと一緒に泥も運んだり、材木を担いだり、危険な梁に昇るような方でした。ド・ロ神父様は、建設に使う木を選ぶ時には、数日間の食料を持って、ご自分で山に入られて選ばれるお方でした。祖父も、その後の教会の仕事の時には、ド・ロ神父様の教えを守って、自分で山に入って木を選びました。ド・ロ神父様が煉瓦を使われる時には、直接祖父が佐賀の煉瓦工場まで行って、1つ1つ選びました。ド・ロ神父様は、建築の材料にまで、細かく神経を使われる方でした。

 ドロ様の建築物は、実用性と、堅牢さを重視していました。『ド・ロ様壁』いう独特な工法を考えられました。『ド・ロ様壁』は、写真集の大野教会で見る事ができます。


 ドロ様はその後1回も祖国へ帰られる事はありませんでした。ドロ様のロ−マ字で書かれた出納簿の中に

 『鳥はふる巣に帰るといへども、ついに帰らぬおんがの町に、われの心はなぜにかこのようにござりましょうか』

と書いてあったそうです。