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 第10回 旧浦上天主堂 





 浦上天主堂は、祖父、与助の長男与八郎と、2代にわたってご縁がありました。祖父は、旧浦上天主堂の2つの塔を造りました。与八郎は原爆で壊れた浦上天主堂を再建致しました。旧浦上天主堂が原爆で壊れてしまったのは、本当に残念です。以前の浦上天主堂は煉瓦造りでした。浦上に行った事のある方はご存知だと思いますが、小高い丘の上にあって、かなり遠くから見えます。原爆の爆心地からは、本当にほんの少しの距離しかありません。


 慶応元年、大浦天主堂で、250年にわたる弾圧に耐えて信仰を守られてきた信者さんが発見されました。この時にプチジャン神父様に会われた信者さんが、浦上の信者さん数人でした。このニュースは世界中のキリスト教の信者さんに伝えられ、大きな感動を呼び、浦上に天主堂を建てようという声が、国内外からおこりました。キリスト教の御堂は、禁教時代にも浦上にはいくつかありました。


 明治12年始めに、最初の浦上天主堂が建てられました。この時はプアリエ(ポアリエ)神父様の設計でした。ただ、200人しか入れませんでした。その後、明治13年に今の場所をお買いになって、フレノ神父様が、明治14年設計をなさり、明治28年工事が始まり、神父様の私財と信者さんの労働奉仕で、工事は続けられました。完成すれば東洋一という大聖堂でした。この時、ド・ロ神父様がフレノ神父様に物心両面の援助をなさいました。祖父もたびたび旧浦上天主堂の現場に行って、ド・ロ神父様やフレノ神父様にいろいろと教えて頂きました。


  フレノ神父様が、旧浦上天主堂を造られた明治14年から、44年までと言いますと、祖父が次々に煉瓦造りの教会を建てた時です。32年の曽根、41年の堂崎、独立してからの41年の野首、43年の青砂ケ浦、その後も、45年の楠原、大正元年の山田、2年の今村、5年の大曽、7年の田平と、造っています。私の推測ですが、旧浦上天主堂で学んだのは、教会造りの技術もですが、何があっても教会を造るというフレノ神父様や皆様の熱意だったと思います。左の写真が旧浦上、右が今村です。


 旧浦上天主堂を建てた頃の事をご存知のシスターの方に伺った話なのですが、1日の厳しいお仕事を終わられて
『これで煉瓦1枚分の献金ができる。』
と喜ばれるような信者さんのお力の集まったものが、旧浦上天主堂です。


 昼間は、信者さん方は畑にいらしているので、夕方からフレノ神父様は、募金にでかけられて、帰りは提灯の灯りでお帰りになられていました。そのお金で石や煉瓦をお買いになって、信者さん達が丘の上の工事現場に運ばれて工事を続けるような毎日でした。フレノ神父様は、今の浦上天主堂の正面の十字架の下に立つ<悲しみの聖母>と<使徒聖ヨハネ>もお作りになられたそうです。大変な天才で、頭の中にある設計図だけで天主堂を作られる方でした。


 44年1月ににフレノ神父様が過労でお倒れになって、お亡くなりになってしまわれました。64歳でした。亡くなられた時に、フレノ神父様は大変粗末な夜具におやすみになっておられたそうです。それくらい、質素な生活をなさって、浦上天主堂の建設に全てをかけておられました。フレノ神父様は、明治6年、26歳のお若さで、フランスから長崎にいらしてから、全生涯を長崎の信者さんに捧げられましたが、特に後半の明治21年から44年までは、浦上の信者さんの為に全てを捧げられました。明治21年には、浦上には5000人の信者さんがおられたそうです。


 フレノ神父様は、中央に大きなドームを持つ、石と煉瓦のロマネスク風の天主堂を建てようと思っていらしたのですが、その後にエ・ラゲ神父様が、上部を木造瓦葺に1部設計を変更なさって、大正3年に献堂なさいました。起工以来20年の月日がかかりました。その後、大正14年に祖父が双塔を造りました。双塔には、フランス製の、左には小鐘、右には、大鐘がつり下げられ、大小2つの鐘が同時に鳴り響いたそうです。


 旧浦上天主堂は、着工してから、実に31年という月日をかけて完成しましたけれど、完成からわずか20年あまりで、原爆によって一瞬のうちに壊れてしまいました。フレノ神父様や、信者の皆様のご苦労を思うと、何とも言いようの無い気持ちになります。
 原爆の時に、旧浦上天主堂では、お2人の神父様と24人の信者さんが亡くなられ、大変な数の浦上の信者さんが亡くなられました。


 左は、双塔、真ん中は、原爆で落ちた大鐘(再建された右塔で今も鐘の音を響かせているそうです。)右は爆風で吹き飛ばされた双塔の左塔鐘楼です。


 「長崎の天主堂」の中で、パチェコ・ディエゴ先生は
『復活の喜びのうちに建てられた東洋の1番美しい天主堂は、信者と共になくなった。その犠牲は必要でなかった。人間の愚かさによって壊された天主堂のかつての美しさは「戦争はしてはいけない」と強く私達に伝えている。』
と書いておられます。


 浦上天主堂のHPによりますと、9000人いらした浦上の信者さんが、原爆で2000人になってしまわれたそうです。ここと次のページの写真は、浦上天主堂のHPからお借り致しました。著作権は浦上天主堂にありますので、転載はなさらないで下さい。浦上天主堂のHPは、こちらです。「浦上小教区変遷史」にもっと詳しいお話とたくさんの写真があります。