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 第14回 崎津天主堂 





 熊本県の天草下島の南西端の、天草灘に面して美しい断崖の続く海岸線が深く入りこんだ羊角湾の奥にあります。昭和10年に建てられました。「西海の天主堂」で、結城了悟神父様は、
「山から崎津を眺めると、天主堂は海に浮かぶ船のように見える。」
と書いていらっしゃいます。教会の場所はこちらです。写真はこちらにあります。


 手取、紐差、大江、崎津と祖父は4つ、コンクリートで天主堂を造っていますが、崎津天主堂は、後ろは木造で、正面がコンクリート造りだそうです。リブ・ヴォールト天井で、ゴシック風の塔があります。サライによると、九州で畳敷きの教会はここだけだそうですが、最近の写真には、椅子が置いてあるようです。


 「日本の教会堂」の児島昭雄先生によると、天草に初めての宣教師のアルメイダ神父様がいらしたのは、1566年で、やがて天草全島にキリスト教が広まりました。1569年には、崎津に教会が建てられました。秀吉の禁教令により、天草の乱が起こり、その後、天草下島の大江、崎津、今富などで、密かに信仰が守られてきたそうです。


 明治初年にフェリエ神父様が崎津にいらっしゃいました。太田靜六先生のご本によると、明治6年に禁教がとけてまもなく御堂が建てられ、明治21年には、初期の木造天主堂が建てられたそうです。3回目に建てられたのが、この天主堂です。その敷地は、庄屋屋敷の後だそうです。その時には、ハルブ神父様がいらしたそうですが、この天主堂も、大江のガルニエ神父様が兼任されていた時代が長かったそうです。


 ハルブ神父様の碑が近くにあります。ここには、「オーグスチン・ハルブ神父の生涯」として
「1864年、フランス・スエズに生まれ、1927年(昭和2年)司祭として崎津に来た時は、すでに63歳で、終戦の年の1月、81歳で、この地で亡くなった。」
と書いてあるそうです。ハルブ神父様が崎津に来た翌年、桑原武夫様とここで会ったそうです。


 「天主堂物語」の雑賀先生によると、崎津天主堂の回りの家は、仏教の方の家だそうです。明治18年に建てられた、今の天主堂の前の天主堂は、神社の本殿の、1段下がった所に並んで建っていて、お墓も、仏教の方と、キリスト教の方のお墓が並んでいるそうで、こういう例は珍しいそうです。


 長崎と天草の結びつきは古く、1864年にフランスのフューレ神父様やプチジャン神父様のもとで、最初の大浦天主堂が造られた時も、施工は、天草出身の小山秀之進様でした。また、大浦天主堂の改修をしたのも、天草出身の丸山佐吉様で、天草石や、天草の石仏師の手で、浦上天主堂の聖者像なども造られました。
「旧藩時代は、天草は長崎奉行所の直轄地で、廃藩置県で、天草が熊本県になってからは、長崎との結びつきが弱くなった。」
と越中哲也さんは書いています。


 司馬遼太郎先生の「街道をゆく 17」が島原・天草の諸道です。その中にも、天草の景色も人情も肥前(長崎県など)の風土が似合うと書いてあります。島原・天草の諸道の最後のところに、崎津天主堂の事が書いてあって、
「正面の祭壇のある場所で、厳しい踏絵が毎年行われた。」
とあります。


 この写真は、「norika」さんにお借りしました。著作権は「norika」さんにありますので無断で転載なさらないで下さい。