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 第16回 浦上天主堂 





 この写真は何か違うと思われた方も多いかと思います。昭和34年に再建された当時の浦上天主堂です。浦上天主堂は、長崎市の浦上にあり、原爆の爆心地から北東に約500mしか離れていません。浦上天主堂のある場所はこちらです。


 この天主堂のお話を長崎原爆の日に致しますのは、長崎の原爆と浦上天主堂は非常に密接な関係があるからです。原爆で、亡くなられたり、今なお、苦しんでおられる方に、心をこめてこのお話を書かせて頂きます。


 旧浦上天主堂は、着工してから、実に31年という月日をかけて完成しましたが、20年あまりで、原爆によって一瞬に壊れてしまいました。
 浦上天主堂のHPによりますと、原爆で、旧浦上天主堂にいらした、お2人の神父様と24人の信者さんが亡くなられ、9000人いらした浦上の信者さんが、2000人になってしまわれたそうです。


 原爆で、浦上の信者さん達は、大変な被害を受けられて、亡くなられたり、家や財産を失われた人もたくさんおられましたが、立ち直ろうと必死で頑張っていらっしゃいました。昭和21年11月に中田司祭様が中心になって、仮聖堂を作られたそうですが、仮聖堂は復員なさった方、引揚げてこられた方などで、5000人に増えた信者さんの為には余りにも狭かったそうです。


 神父様は熱心に御ミサをなさろうとしておられましたが、1日中御ミサをしても、信者の皆さまの御ミサがどうしても終わらない状態でした。そこで当時の神父様は、昭和29年から、3000万円(1戸当り3万円)もの大金を集められました。ご存知のように、浦上地区は、長崎市内でも1番原爆の被害が大きかった所です。従って、浦上地区の信者さんにとって、3000万円ものお金を集められたというのは大変な事です。


 しかしとてもそれでは天主堂は出来ませんので、山口大司教様がアメリカにいらっしゃって、6ヵ月もの間、大変なご苦労をなさって、アメリカ各地の皆さんの献金を集めて帰ってこられました。
 山口大司教様から祖父が浦上天主堂を再建して欲しいというお話を伺い、祖父の長男であり、祖父の後継者である与八郎が設計施工を致しました。与八郎にとって、新しい浦上天守堂は、生涯で1番苦労をした建築です。


 山口大司教様の再建する浦上天主堂へのご希望は、
 1、前と同じ形、大きさである事
 2、今度は壊れないようにコンクリート造りである事
の2つで、とにかく屋根と壁をどうしても作って欲しいという事でした。屋根があれば、雨の日でも、壁があれば、寒い冬の日でも、御ミサができます。与八郎が、一生懸命に計算をして、
『天井もなんとか張れます。』
と祖父を通して申し上げた時の、山口大司教様の大変喜んで下さった顔を祖父は一生忘れないとよく申しておりました。


 設計当時、朝鮮戦争の影響で、鉄の値段が、ひどい日は、1日に倍になるくらい上がっていました。設計をし、必要な建築の材料を確保しないと、天主堂が出来なくなってしまいます。与八郎は、貴重なお金を託されましたので、なんとかして1日も早く設計をしようとしました。ご存知のように、天主堂は柱が極端に少なく、天井は高く、1本の柱にかかる力がものすごく大きいので、設計が大変に難しいそうです。それでも普通は、今までの経験を生かして、柱はだいたいこれくらいの太さという感じで設計ができます。しかし浦上天主堂は、コンクリート造りで、初めての大きさでした。1本の柱にどれくらいの力がかかるのか、見当もつかなかったそうです。柱1本ずつに、細かい構造計算をしなくてはなりません。柱の1本1本から、試行錯誤の連続でした。


 半年の間、与八郎は殆ど眠る暇がありませんでした。今のようにパソコンがあれば、計算が、もっと簡単にできたのではと思いますが、当時は、計算尺と、ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが、手回しの計算機しかありませんでした。与八郎は、昼間は他の仕事をして、夜になると、浦上天主堂の設計をし続けるという毎日でした。与八郎が設計したものを祖父が見て、いろいろとアドバイスをして、また次の夜に設計を続けていました。与八郎が半年間に書いた書類は床に積むと床から1メートルはあったそうです。


 その頃、大司教様は、祖父に与八郎の身体の事を心配して下さって
『眠っていますか?』
とお尋ね下さったそうです。
『ほとんど眠る暇はありません。』
と祖父が申し上げたら、大司教様は
『夜は眠るものですよ。身体が1番大事ですから。』
と優しくおっしゃって下さったので、祖父も与八郎もとても感激したと申しておりました。大司教様だけでなく、そういう暖かくて優しい神父様やシスターの方ががとても多かったそうです。