title

tensi








 第6回 今村天主堂 





 今村に最初に天主堂ができたのは、明治14年でした。5代目の神父様の本田神父様が煉瓦造りの大きな天主堂に改装しようとお決めになりました。その頃は、木造の古い御堂だったので、ミサも2回に分けてしなければならないような状態だったようです。明治44年に竣工して建設に2年かかりました。今村で、信者さんが発見されてから、45年後でした。 


 今村の本田神父様は、「人が(お祝いで)タイを食べる時にイワシを食べる」というように節約なさり、ヨーロッパの信者さんにも「煉瓦1個分の献金を」と手紙で呼びかけられ、そういうたくさんの信者さんのお力で今村天主堂は建ちました。当時のお金で約3万円かかったそうです。 


 長崎の島にある天主堂を建てた時は、煉瓦を船で運んだり、頭ケ島のように、島にある石で造ったりしましたが、今村は、他の教会と違って筑紫平野の真ん中にあります。まず祖父がした事は、材料を荷車や馬車で運ばなければならないので、たんぼの あぜ道や、途中の木の橋の補強でした。ここは軟弱な地盤でしたので、大変だったようです。他のほとんどの教会は、丘を削ったりして建てましたので、地盤が固かったのですが、ここは大変軟弱な地盤でしたので、教会の基礎にとても苦労したようです。 


 この時期には、祖父は原爆で壊れた旧浦上天主堂にもたびたび行って、建設に加わっています。旧浦上天主堂は、フレノ神父様が、明治14年設計をなさり、明治28年工事が始まり、44年にフレノ神父様がお亡くなりになった後に、エ・ラゲ神父様が1部設計を変更なさって、大正3年に献堂しました。これは今村天主堂の完成の約3ケ月後です。


 旧浦上天主堂には、祖父はその後大正14年に双塔を造りますが、この今村にも、双塔があります。ただ、形が違っていまして、今村の双塔は八角形ですが、浦上天主堂の双塔は方形です。双塔のある教会というのは珍しいそうです。 


 大変大きな工事でしたので、職人さんの衣食住のお世話をする為に、近くに小屋を建てて祖母や叔母や親戚の女の人も総動員でした。信者さん達も全力で労力奉仕をなさいました。「御堂荷役」・・・煉瓦や瓦を荷馬車や大八車で運びました。 


 京都新聞の2000.5.23 によると、「全国赤れんが建築番付」で、東京駅、横浜新港、片倉工業富岡工場(群馬県富岡市)が東の横綱に、大阪中央公会堂、江田島旧海軍兵学校生徒館(広島県江田島町)、今村天主堂(福岡県大刀洗町)が西の横綱になったそうです。こういう記事をご覧になったら、本田神父様、シスターの方々、労力奉仕をなさった信者さんの皆さん、もちろん祖父も、どんなに嬉しいだろうと思います。


 ここは、使った材料の採れたり作ったりした場所がはっきりわかっています。まだこの頃はコンクリートはなかったようで、五島岐宿の火山灰と、筑後川の川砂と、熊本の石灰を混ぜて基礎にしました。煉瓦は、筑後川下流の迎島、瓦は城島、柱は久留米の高良杉、彫刻の石は長崎の西見でした。煉瓦は一片ごとに、本田神父様と、祖父が検品を致しましたが、時には半分以上を返した事もあったそうです。


 写真の資料によりますと、教会の内部・外部ともに建設当時のままだそうです。下の写真はクリックしますと大きくなります。この写真は「makeup」さんにお借りした物です。大刀洗教育委員会による今村天主堂の説明です。