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 第9回 田平天主堂 





 田平町は、長崎県の松浦半島にあり、平戸島に向き合っています。以前はここは広々とした原野でした。明治19年から26年までの3回にわたって、ド・ロ神父様が私財で土地を求められて、15家族70人の外海からの信者さん方を移住させられました。
『狭い田畑を子供達に分けると、いよいよ狭くなる。』
というのが、その理由でした。 ここの土地は、酸性土だったそうですが、中和する石灰が無いので、お芋とカンコロだけが常食だったそうです。ただ海の幸には恵まれていたそうです。


 黒島のラゲ神父様も3家族を移住させられ、五島から自費の信者さん方もいらして、信者さんの数は1000人にもなりました。明治21年には仮御堂が建てられました。明治38年、初代の高岡神父様が、現在の敷地の準備を始められました。


 大正3年、中田神父様が教会建築の準備を始められ、1戸当たり10円から120円の拠出金をなさって、2万円という大変なお金を作られ、大正7年に献堂されました。1人当たり200日分の労力奉仕をなさったそうです。初めての移住者の方が田平にいらしてから、32年という月日が経っていました。


 ここには<ド・ロ神父様>への<謝恩の碑>があるそうです。祖父の話では、この教会の建設のお話を伺った時に、ド・ロ神父様の開拓なさったこの場所に教会を造る事に、運命的なものを感じたそうです。


 天主堂にも名前があるというのは、結城了悟さんの『長崎の天主堂』に書いてありますが、この田平天主堂は「日本ニ十六聖殉教者」だそうです。1597年、長崎・西坂の丘で殉教なさったニ十六聖人にささげられた教会だからなのだそうです。『「教区」から、26人の司祭が出るように』という願いも込められているそうです。1991年に、この教区出身の司祭様は20人だったそうですが、もう願いはかなったでしょうか?


 この教会で、コンサートをなさった方のお話では、
『少し長めで丸みのある残響で、ひとつの音を明瞭に響かせながらも次にくる音を邪魔しないといった風の温かい音。』
なんだそうです。ヨーロッパの石の教会と違って、木や板でできているので、残響が全く違うそうです。


 教会の形は、大曽天主堂とよく似ています。今村天主堂と比べると、直線の構成が 多く、細かい装飾がなされています。ここの煉瓦の使い方には、特徴があります。イギリス積みの変型で、正面、側面、背面で、煉瓦の積み方が違います。また、色の濃いアズキ色の煉瓦を使って、色彩のアクセントにしています。この色の黒い煉瓦は、信者さんのご家庭のナベや釜の煤(すす)を集めて、油に混ぜて塗って色を出したそうです。


 今のステンドグラスは、上の方が、1989年に、ドイツのバルトスさんのお力で新しくなりました。下の方の花模様は、十数年前のアメリカ製だそうです。田平天主堂のステンドグラスは、平戸観光協会に詳しく写真と説明が載っています。


 田平天主堂の近くには、貝殻焼き場が残されています。ここでたくさんの貝殻を焼いて、ある種の粘土を混ぜて、れんがの目地に使いました。これは長崎に古くから伝わる<天川(あまかわ)しっくい>のやり方です。煉瓦は船積みして来たものを、信者さんのお力で運びあげました。幼稚園くらいの小さな子供から大人まで、海岸から500メートルほど離れたこの山の上まで、煉瓦や木材などの資材を運びあげられたそうです。


 ここの2枚のお写真は三沢博昭先生のご好意で『大いなる遺産 長崎の教会』という写真集からお借りしました。写真の著作権は三沢先生にありますので、転載は決してなさらないで下さい。最近の三沢先生の写真展の様子はこちらに、写真集のご本についてはこちらにあります。祖父の教会だけでなく、長崎の古い教会のとても綺麗な写真がたくさん載っています。