日本海軍戦史研究コラムbO02(改訂2001.05.31)

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『海軍の軍艦命名法』

皆さんご存じの通り、船には名前が付いています。
当然のことながら軍艦にも名前がありました。
戦艦大和と言えば、知らない人は殆どいないでしょう。
しかし、何故戦艦「大和」なのかを知っている人はいないと思います。
どうして大和という名前が付けられたのでしょうか?

軍艦には、ある規則に則って名前が付けられています。
命名法の基準は、艦種です。
艦種とは、戦艦、巡洋艦、航空母艦などと言った軍艦の種類のことです。
艦艇類別標準が制定され、艦種がしっかりと類別されるようになると、その艦種ごとに命名の規則を定めました。戦艦には「旧国名」から付けられることになりました。
大和、武蔵、陸奥、山城、伊勢などです。
一等(重)巡洋艦には「山名」から、二等(軽)巡洋艦には「川名」からなどなど、命名基準に従って軍艦には名前が付けられていきました。
つまり、軍艦名をみれば、それがどんな艦種の軍艦であるのかが解るのです。
ところが、こうした法則からは外れた名前を持つ軍艦があります。
これにはその軍艦の歴史を物語る事情があるのです。

航空母艦赤城は、航空母艦でありながら「山名」である赤城山が名前の由来になっています。
同じく、航空母艦加賀は、「旧国名」である加賀国(今の石川県)が名前の由来になっています。
時は世界的に軍縮が叫ばれていた大正時代、日本は大軍艦建造計画を立てて、八八艦隊(新造の戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心とした大艦隊)を目標に続々と軍艦を建造していました。
諸外国も、第一次大戦後の軍拡競争の渦中にあり、日本の大造艦計画に触発されてそれに対抗する新鋭艦や隻数を建造し、建艦費は各国の大きな負担となっていました。
多大な災禍をもたらした第一次大戦後の世界は、しかしこれとは逆に厭戦気分が蔓延しており、平和を求めていました。
こうしたことから、自国だけの戦力を減らすのでは戦略的に不利になるが、諸外国がルールを決めて軍縮するならば一石二鳥だと考えたのです。
これが主力艦に制限を加えたワシントン海軍軍縮条約です。
この時、主力艦の保有制限(比率)はアメリカ5、イギリス5、日本3、フランス1.75、イタリア1.75と決められました。
これに従うと、日本は今現在保有する戦艦や巡洋戦艦、そして今建造中の戦艦と巡洋戦艦とを合計すると著しく制限を越えてしまうことになります。
そのため、旧式化した戦艦などは廃艦(解体や標的)にし、建造中のものも一部を除いて中止することにしました。
ところで、条約で制限を加えられたものの中には、まだ制限までに余裕のある艦種もありました。
それが航空母艦でした。(この当時は航空母艦に対する評価が低く、余り重要視されていませんでした)
建造途中の巡洋戦艦赤城と天城が、航空母艦に改装されることになりました。
巡洋戦艦は巡洋艦に準じて「山名」をその艦名としていました。
こうして「山名」を持つ航空母艦赤城が誕生しました。
ところが、折しも関東大震災が起きて、改装途中の天城が損傷してしまいます。
そのため、急遽建造を中止され解体する寸前の戦艦加賀が、その代艦として改装されることになりました。
こうして「旧国名」を持つ航空母艦加賀が誕生したのです。
このように、他艦種からの改装や移籍によって、艦種の命名基準とは異なった艦名が存在します。

上の例と似ているかも知れません。
一等巡洋艦最上は、一等巡洋艦でありながら「川名」をその艦名に持つ軍艦です。
同じワシントン条約で、巡洋艦にも制限が加えられました。
そのなかで、一等と二等を隔てる基準は、排水量(艦の大きさ)とその砲兵装にあります。
日本は、条約でアメリカやイギリスよりも保有量を少なく制限されました。
当然その不当な制限には反発の声があり、条約を破棄すべきだという意見がありましたが、しかし財政を逼迫しているのは本当であり、また国際的な軍縮はなにより全世界の国民の願いでもありました。
そうなると、制限内で許される最大の大きさで最大の砲兵装を持つ巡洋艦を建造することで、それを補おうという考えが、日本の造艦界を支配的に占めたのです。
他艦種でも当然それが求められ、出来るだけ小さい艦に、最大限の戦闘力を装備した軍艦が建造されました。
これが後に様々な問題を引き起こすのですが、この中に巡洋艦最上がありました。
名前は二等巡洋艦の命名基準に従って「川名」であり、排水量と砲兵装は二等巡洋艦の制限内にあることを示しています。
しかし、これは外国に対する見せかけだったのです。
ワシントン条約の期限切れ直後、最上はそれまでの砲兵装(15.5cm主砲)を一等巡洋艦と同じ20.5cm主砲に積み替え、戦力を増強したのでした。(なお、実は航空戦力が著しく脅威になってくると、対空能力が高い15.5cm砲の方がかえって実用的だったという失敗を犯しています)
これは元々一等巡洋艦を補填するために、一等巡洋艦よりも一回り小さい艦に、一等巡洋艦に匹敵する砲兵装を持つ(後に改装をする)軍艦を計画していたのです。
そのため、艦名が「川名」である一等巡洋艦最上が誕生したのです。
同じように最上型の他の3隻(三隈、鈴谷、熊野)や、それに続いて建造された利根型の2隻(利根、筑摩)も「川名」を持つ一等巡洋艦です。
このように、命名基準を逆手にとって、艦種とは異なる命名をされた軍艦が存在します。

それでは最後に、艦名にまつわるお話を二つ紹介します。
潜水母艦という艦種があります。
これは潜水艦を多数積載して、と言うのではなく、潜水艦に対する補給や修理、乗員の休養を行う戦闘艦と言うよりも補給艦に近いものです。(とは言っても巡洋艦に近い艦型をしています)
この潜水母艦に付けられた名前が、迅鯨、長鯨、大鯨というクジラという字を付けられたものです。
なかなか良いセンスかと思います。
もっと建造されれば白鯨とかいう艦が誕生したかも知れませんね。
このような変わった名前を付けた例として、例えば大量に建造された駆逐艦は、その名前だけでも膨大なものとなり、レパートリーも尽きてきます。(このため似たような名前が多くなりました)
その中に、松、梅、杉、竹などといった植物(木)の名前が付けられた一群があります。
これを雑木林級駆逐艦と呼んでいました。
逆に、欧米では人名が付けられている軍艦も存在しましたが、日本には(今現在も)存在しません。
また、潜水艦には「いろは」をもじって、排水量(大きさ)ごとに伊、呂、波という艦名を付け、各艦ごとに番号を振りました。(例えば伊号第八潜水艦などと言い、イ8と略して呼ばれました)

こうした軍艦名は、実は1代限りではなく、引き継がれているものもあります。
例えば戦艦「大和」は実は2代目で、初代「大和」は測量艦(昭和10年に除籍)でした。
この時の同型艦が「武蔵」で、この名前も同じく戦艦「大和」の同型艦に引き継がれています。
普通は退役(除籍)後に新造された軍艦に引き継がれましたが、米軍などでは戦時中の喪失(沈没)によって失われたため、艦名を引き継いだというケースもあります。
ちなみに、例えば「愛宕」という名前は、初代が砲艦(明治37年除籍)、二代目が巡洋戦艦(起工後ワシントン軍縮条約で建造中止)、三代目が一等巡洋艦に受け継がれています。
愛着があるのか、他にも3代目という艦名が存在します。
(一覧表中に同一艦名がある場合は上が初代、次が二代目という感じです。ただ、同一艦種に引き継がれているとは限りません)
知ってどうなるものでもないのですが、ただ軍艦の名前も、また歴史の変動に敏感に左右されるものであるということが分かっていただければ幸いです。
また、これら多数の軍艦に乗船され、戦い、そして亡くなっていった方に心より敬意と哀悼の意を捧げます。

 

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主要参考文献(順不同)
戦艦物語 偕成社
日本海軍艦艇図面集 モデルアート社