戦争と戦史を学ぶこと

戦争学は一般常識!?

戦争学とは、そのものズバリ戦争について学ぶことです。

日本人にとって、戦争学とはかなり特殊な学問だと思われがちですが、世界的に見るとそれは逆です。

文芸春秋刊「戦争学」(松村 劭著)では、たとえて戦争を病気と比喩しています。

病気を研究することが病気の蔓延を防止し、病気を予防できる。

日本人が戦争や戦史というものから疎遠になってしまった最大の理由は、大東亜戦争にあることには疑問の余地がありません。

戦後の日本国憲法第9条で戦争の放棄を唱っていることが、その潜在的根拠になっているとも言えます。

加えて、戦争や戦史について学ぶことが、平和に反することかのように思われている節があります。学問とすれば外道と言うことでしょうか。

危機管理が叫ばれて久しい世の中ですが、何か起きてから準備をしたのでは遅すぎます。レベルは違えど国も個人もこのことには隔たりはありません。

明日英語のテストがある。

あなたは英語が好きですか? 私は嫌いでした。嫌いですが、テストは私の好き嫌いに関わらず行われます。

あなたは予習をする方ですか? 私はほとんどしたことがありません。どの範囲が出るのか、問題の予想も見当がつきません。

さて、テストの結果はどうでしょう? 私は良い点数をとったことがありません。それ以前の勉強を怠っていたからです。

上の文章で戦争学の必要性がわからなかった人、あなたは何か起きたときには自分を悔やむより、人や物に責任を転嫁する人のようです。勉学とは人間が成長すること、であると私は思います。知識の集積と、知識の活用は全く異なります。

戦争学の必要性はわかっても、それがどう重要であるのか。

軍事(戦争と軍隊)について知らない人間が総理大臣になったとしたらどうなるのか。それは野球をしたこともなければ好きでもない人が、野球部の監督として甲子園で采配を振るうことに似ています。この場合、素人の監督が下手に口を出すことがいかに危険であるか想像に難くないし、また黙って任せてしまうことが、逆に部員が勝手に行動したり、ルールに反したりすることに注意したり、気づいたりすることもできないことになります。

誤った知識は、それを反面教師として使わないようにすべきです。そして、それはみんな普通のこととしています。もしそれを知らなければ、誤った判断や行為をしてしまうかもしれない。

外国では、みな戦争学をそうした見地から見ています。そして、日本はそれに対して少し警戒し過ぎています。

知ってからそれを判断するのはあなたです。あなたは、戦争が何であるかを知らずに、またあの戦争で何があったかを知らずに、安易に戦争は悪であるとか、戦争を無くすべきだとか言ってませんか。

 


まず始めに…。
なぜこういった文章をわざわざ掲載しなくてはいけないのか。
私はこういったこと(まるで言い訳のような事前確認)について常に疑問を抱いている。
それは私が思想的にも、政治的にも、中立でありたいと考え、中立であるべく努めようとするのとは裏腹に、否定的な考えを持つ人からは、一部を意図的に抜き出して非常に危険な思想であり、そういった考えを日常的に持ち、また実行をする反社会的な人物で有るかのように思われるからである。
特に日本では、戦史研究をしているといえば、何でそんなことを、といった顔で見られるのが自然であり、変わった人、あるいは危ない人という印象を与えるであろうことは何ら不思議なことではない。
これは被害妄想ではない。なぜなら戦争や戦史を学ぶ上では、時に日本人の一般常識から外れた見解が出ることも普通だからである。
戦争概念の肯定。軍隊の存在の必然。軍人の戦場での殺人に対する褒賞。
今日、戦後民主主義教育を受けてきた一般的な人たちに、拒絶的な反応が現れるのは当然であろう。
だからまず、それらについての世界的常識について少し記述してみた。
稚拙で、完成された文章とはとても言えないが、これからも修正を繰り返し、万人が無用であることを願いつつも、必要であると認めていただけるように努めたいと思う。
最後に、私は戦争がこの世界から永遠に追放されることを願ってやまないが、それらが絶対に不可能であることを承知したうえで、これらの知識を持って最善な戦争を追放することへの追求の一助になることを強く望んでいる。
また、付け加えるならば、日本と日本国内だけが平和であっても、その周りが存在する限りにおいて、戦争学が社会学の一つとして必要であることはいうまでもない。
周辺国の軍事的脅威や、日本国内の治安を見る上では、とても平和であるとも思えないのだが。(1999/7/18)

戦争 〜通念上の概念〜
【戦争】 国と国とが兵器によって戦うこと。対義語:平和(三省堂 例解新国語辞典より)
手近な辞書を引いてみたところ、こんな風に紹介されている。
辞書によると戦争とは国と国とが、とある。戦争とは軍隊が戦うものではなく、国同士が戦うものなのだ。国というものには前線も後方もない。政治家も軍人も、市民もない。いわば戦争という状況下に、国が存在する。戦争の状態論がそれである。平和というのは戦争でないだけである、というのがその論旨だ。
また、平和とはただ漠然とそこにあるものではなく、作りだし、守るものである。その反面、それを壊し、攻めるものが戦争といえる。
戦争は悪であるかのように言われている。だが、正義の名を借りて、今でも世界のどこかで、戦火が絶えず続いている。戦争は悪である。してはいけないものである。なくさなくてはいけないものである。しかしそれは、戦争の本質をとらえなければ永遠に叶わない願いである。犯罪が、有史以来果てしなく人類とともに歩んできたことを良く知っておくことである。病気は、その原因を究明しなくては根絶できないことを良く知っておくことである。そして、それでも実際に戦争をなくすことはできない。また平和を長続きさせているようでも、その不満的内圧が高まることは戦争を誘発することを知っておくべきである。そして、戦争が避けられなくなったとき、再び戦争の惨禍を免れる方策を作り出すことこそ、あの戦争と戦争の犠牲者を無駄にしない非常に歴史的重要な出来事であると記憶されることを強く、強く望んでいる。
戦争 〜国際法上の戦争〜
個人としての戦争観は、それぞれの自由であるといって差し支えない。だが、国として、軍隊として、作戦や規律といった枠のある組織的活動において、個人の主張は許されていない。戦闘行動として破壊や殺人が許されているのはそのためである。
しかし、戦争だからといって何事も許されてはいけない。また、それは国や軍隊などによって異なってはいけない。そうした理由から国際法は作られた、といわれている。
現在における国際法上の戦争は、国連憲章によってその概念、及び武力の行使が違法であるとされ、否定されている。
これによってこれから学ぶ上では次の二つの考え方を持たなくてはならない。
一つ目は戦争が違法化されたにもかかわらず、現在でも戦火が絶えていない。このことにより、戦争の抑止と、その対処のためにも、違法とした戦争そのものについて研究されなくてはならない、ということである。
二つ目はこれから学ぶ戦史には、その当時の国際状況と国際法に照らして学ばなければならないということである。現在の状況や現代の常識という物差しで当時を測ることはできない。価値観や倫理観、道徳観などは、今では非常識であることが常識であることを承知しなくてはならない、ということである。

軍隊 〜世界の常識と自衛隊〜
平和な時代にいると、軍隊の存在とはただ単に金がかかるものでしかないように思われる。いっそのこと平和なときには無くして、何かあったときにまた作ればいいのではないか。
少し極端なようだが、軍隊が何であるのかわからない人たちにすれば、これはなかなか信憑性があると言われるかもしれない。
だが、こんな愚かしい考えもないだろう。
まず、戦争とは交通事故と一緒である。こちらがいくら気をつけていても、相手が存在する以上、こちらができることは限られている。軍隊の重要性はそこにある。核兵器の保有が戦争の抑止となるという考え方は、兵器である核兵器とは矛盾する。だが、そのことによって、戦争を仕掛けられる可能性が低下する。逆に、軍隊を保有しなければ、その国に対する物理的(その理由が何であれ、国際社会からは非難されるという障害は排除できない)障害はない。故に軍隊が存在することは戦争のためであるのに、その戦争を抑止するという矛盾した存在でもある。
また、スポーツをしている人からすれば、その成果が常日頃からの練習や訓練から得られることも理解できるはずだ。試合がないからと言って、練習をしないのでは必要なときにその力を十分に発揮することは出来ない。
ところで、自衛隊はなんなのであろうか。外国からの評価は、「軍隊」としか見られていない。
例え憲法で保有が禁止されようとも、専守防衛だなどと言ってはみても、軍隊であることに違いは無いのだ。

軍人 〜特殊な道徳律〜
軍人とは、一般に軍隊に属している人を指す。
ここでは、特にその詳細について解説するのではなく、国際的な常識として、軍人という特殊な立場にいる人たちについての説明である。
かなり誤解されている向きがあるが、軍人が、戦闘中において、敵対する人間を殺傷することは違法ではない。むしろ、彼らが英雄と称されたり、勲章等をもって褒賞されることは往々にしてある。それは国家や軍隊の別を問わない。
また、軍命令に違反することは罪になる。敵前逃亡は重罪で、その場で銃殺されることもある。たとえそれが国際法に違反したとしても、その場の命令を拒否することは認められていないのが軍隊である。

戦争学 〜タブーとされた学問〜
戦争学がなぜ一般的な学問として認識されないのか。それは、日本のこれまでの行い(歴史や経験)に寄るところが多い。
戦争学とは、戦争のために必要な学問だと思われているという誤解があるのも確かだ。
しかし、ならガン研究はガンを蔓延させるために研究されているのだろうか。
刑法は、法で規定されていない犯罪を見つけてそれを行使するために学ばれるのだろうか。
触れなければ、あるいは知らなければ、そうした災禍から免れるかと言えば、それは全くと言って良いほどあり得ない話だ。
むしろ、知らなかったが故に、災禍を招くことはこれまでの歴史で数多く証明されている。
戦争学の本質的な部分は、多くの人間に戦争の概念を認知させることにあると思う。その最たる理由は、戦争を防ぐことと、誤った選択をしないと言うことだ。
戦争が起きないようその戦争がいかなるものなのかを知っておくことが戦争の抑止に繋がる。また、全ての人間、全ての分野の人間が戦争についての知識を得ていれば、行動や判断に過ちを生じることが少なくなる。
義務教育が、国民に一律最低の知識を学ばせようとするのは、共通した知識を持つことで政治や経済、あらゆる生活活動を数多くの人間が苦も無く認識、理解することが出来るようにである。
しかるに、私が今学校教育において、あの戦争がいかに悲惨で、多くの犠牲者を出し、悲劇と悲しみを生み出したかだけを学ばせることは片手落ちだと痛切に感じるのは、それではあの戦争はまるで意味も理由も無く行われた行動であり、日本の戦争行動が全て悪で、連合国(おもにアメリカ)の戦争行動が全て善であるかのように、戦争そのものの概念を誤りかねないことに危惧するからである。
また、人の生き死にが関わる問題は、全て感情論で済まされてもいけない。それでは、本質的な部分での生き死にの問題が軽視、あるいは無視される恐れがある。特攻隊で死んでいった若者は、それが悲劇でしかなかったことを伝えるために犠牲になったわけではない。
戦争学を平和学とすることが出来るか否かは学んでいる人間の心構え次第だ。本当に戦争に反対し、そして無くしたいと思うのならば、私は戦争学を学ぶことは決して誤った道ではないとここに断言する。

このページは

文春新書019 「戦争学」 松村 劭 著 (文芸春秋)

「真実の太平洋戦争」 奥宮 正武 著 (PHP文庫)

を参考文献として、東亜戦史研究部が、一部を引用、あるいは再構成を加え、新たに書き下ろしたものです。

また、書いている本人は日々知識の更新をして、納得のいくまで書き直していきます。