毎週更新第七回 「陸軍盛衰記」 −第一章−


ここからお読みになった人は、事前に日本軍の基礎知識<陸軍>をお読みになることをお薦めします。

また、軍事に特化した進め方になりますので、特に用語解説や組織・制度解説がおろそかになることが多々あります。質問等をお寄せ戴ければ追記、修正いたしますのでご理解戴ければ幸いです。


■■■ 陸軍盛衰記 ■■■

◆第一章(1)◆

これ以降、用語や組織などに難解なものが増えます。もし分からないと感じたらメールあるいは掲示板でお知らせ下さい。出来るだけフォローします。
なお、陸軍に特化した内容であるため、若干歴史的背景を端折っている部分があります。

◇統一国軍に向けて◇

新政府軍(官軍)とは言っても、実際には各藩軍の連合体であって、国軍(政府軍)ではなかった。統治に関しての改革(藩の取扱いなど)以前に、戊辰戦争か終結した今、安定した政府という政治組織を維持するには、統一した国軍の創設が待望された。
戊辰戦争で実戦部隊を率い名をあげた参謀(実際には指揮官)らとは異なり、軍制家大村益次郎は来るべき統一国軍の構想を次のように示した。

1,国軍の戦闘員(兵員)は士族(武士)からではなく、国民全体からもとめる一般義務兵役制(徴兵制と民兵制)から成り立つものとする。
2,編制や教育を統一し、幹部の人事異動を可能にさせる。
3,軍事専門教育を施す幹部養成機関(士官学校)を設置する。
4,軍事に関する科学技術の研究、ならびに工業生産の機関を設置する。

こうした考えを示した者は兵部大輔の大村を除いていなかった。特に士族の存在を否定する1と2は、強硬な反発を招いた。また、そのために京都に造兵廠(弾薬などを製造する工場)設置の下見に訪れた際、徴兵制に反対する不平士族により襲撃され、その時の傷が元で死亡してしまった。
そのため、その後を山田顕義(長州出身。大村の元で兵部大丞を務める)、さらに山県有朋(長州出身)が継ぎ、軍制改革を続行させた。
国軍の創設は急務であった。

◇近衛兵と廃藩置県◇

国としては固有の兵力を持たなかったが、天皇の警護の目的を持って主に長州藩の藩兵からなる少数の親兵があった。大村の構想した常備軍は、しかし促成で出来るものではなかったから、当面の天皇直属の軍隊としては、これを中心としたものが都合が良かった。
山県の献策により(西郷が主張したとも言われる。詳細調査中)、明治4(1871)年、薩摩藩、長州藩、土佐藩から藩兵を集めて御親兵を設置した。人員は1万人(これは公称で、実際は8千人)で、これが翌年には近衛兵と改称する。(>近衛兵

中央集権国家を目指す明治新政府は、大政奉還で幕府から政権を奪うと、更に藩から領地と領民を返還させた。(版籍奉還) しかし、藩体制はそのまま残されたので(藩主も藩知事として残った)財政や内政が破綻あるいは崩壊した藩などでは混乱を招き、反政府活動が活発になっていた。
そのため、一気に中央集権化を進めるため、大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛らは秘密裏に準備を進めた。その背景には近衛兵の戦力があった。
明治4(1871)年7月14日、廃藩置県が断行され、藩知事(藩主)は免職の上住居を東京に定められ(地元での影響力を排除)、藩は全廃の上3府302県に置き換えられ、政府に任命された県令(県知事)が赴任した。制度上、地方に反乱の中心となる地方政府は消滅した。また、当然のように藩の軍隊も解散した。
特に混乱が起きなかったものの、藩主(大名)を中心とする士族には大打撃だった。領地からの収入が無くなったからだ。
さらに、四民平等化や散髪・脱刀令、田畑勝手作りの許可令が出されると、士族の特権は徐々に失われていった。

◇徴兵令◇

廃藩置県によって、士族の様々な特権は消滅した。しかし、その中でも士族にとっての最大の喪失が徴兵令にあった。
徴兵令は学制令、地租改正に並ぶ明治維新における3大改革の一つである。
諸外国がそうであったように、また大村が想定したとおり、国軍は全ての国民から作られる必要があった。藩などの地方組織や、士族といった特定の地元や人間によってその活動の思想(軍事行動の目的)が定められてはいけない。統一した中央集権国家の国軍としての大前提である。
それだけに士族からの反対は強硬だった。大村が襲われた理由も、この徴兵令にあった。
軍事権とは、それだけで国政を左右させられるほど重要で、かつ強大さがあった。それだけに士族にとっての存在意義(支配者として既得権益を有する特権)があった。
反対理由は、徴兵令による国民(その大多数は農民)が精強さにかけるところにあった。士気の高さやその義務感は、その資質(軍事的素養)のある士族でしか維持できないという言い分である。教育水準が士族に比べて低いのは当然のことであったが、実際は士族それ自体の既得権益を失うことを恐れたからだ。
農民も負担が増えることを理由に反対した。(農民一揆も多発し、軍が鎮圧のために出動している)
しかし、大村の跡を継いだ山県は、明治6(1873)年1月、徴兵令を布告した。これにより士族の実質的な特権は消滅した。(実際には実益を失った秩録公債、その後の金録公債といった秩録処分や、士族の魂とされる権威や形式を失った帯刀禁止令があった)
しかし、国民皆兵とは言っても実際には多くの免役条項があって、そちらの方が問題だった。
そのため段階的に数度の改正を行って一応の国民皆兵を実現したのは、明治22(1889)年の徴兵令の全面改正(法律の第一号)によってである。

なお、先に述べた3大改革は、岩倉使節団が訪欧中に行われている。
この岩倉使節団は、不平等条約の改正など重大な用件と、親善や情報収集を兼ねたもので、全権岩倉具視の他、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などが参加した。その際、不在中に重大な改革を勝手に行わないように約定書を作っていた。
このことが、政府内に新たな亀裂を生んだ。
(これ以前、大久保利通は有司専制、一部官僚による独裁制を作るため木戸や板垣の排除を狙っていたことや、廃藩置県を秘密裏に進めたこともあって政府内に対立があった)

◇初期の軍事組織◇

近衛兵が設置されるとほぼ同じくして、それまでの兵部省は陸軍省と海軍省に分離した。
実は、設立当初の日本軍は厳密にシビリアンコントロールが守られていた。
兵部省長官(兵部卿)は、軍人のトップとして当然職業軍人(現代風に言えば武官、制服組)ではあったが、閣僚(参議)ではなかった。
陸軍省、海軍省となっても、その長官(陸軍卿、海軍卿)は閣僚(参議)ではなかった。
のち、参議が卿を兼ねる(征韓論による参議の大量辞職による。次回参照)ことになっても、陸軍卿の山県は参議を兼ねることが許されなかった。
これは戊辰戦争などの内乱が軍事による政権抗争であったことも含めて、政治と軍事を完全に分離されていたからだが、実はこれが後の統帥権問題や、政府による軍への干渉が及ばないなどの問題ともなった。法の不備である。

また、廃藩置県以後は旧藩兵を再組織化した鎮台が置かれてた。(>鎮台
士族が中心とはいえ、明治政府(実際の国軍の最高指揮権である統帥権は明治天皇が掌握)と言う単一政府による国軍が誕生した。
そしてその後、徴兵令によって鎮台が改められ、ここに日本陸軍が正式に創設されたのである。
しかし、鎮台は徴兵軍隊(兵役にある短期間服役)、近衛兵は士族軍隊(職業軍人で長期服役)と、未だ国軍は統一されてはいなかった。
しかも、当時の近衛将校団は士族軍隊を論を強硬に主張する勢力でもあった。
このことが後に問題となる。

 

近衛兵

創設時は天皇の警護隊で親兵と言ったが、後に近衛兵と改称。創設の経緯から士族の軍隊としての趣が強いが、徴兵令以降は全国から優秀な兵士を選抜して近衛兵に充てた。
宮城(皇居)と天皇一族を守るのが本来の目的だが、国軍の最精鋭として出征もしている。

創設時に薩摩、長州、土佐各藩から藩兵を集めたが、その時の抽出兵力と人員は次の通り。

薩摩藩 歩兵4大隊、砲兵4隊
長州藩 歩兵3大隊
土佐藩 歩兵2大隊、砲兵2隊、騎兵2小隊
総人員 6,275人(歩兵5,649人、砲兵539人、騎兵87人)

近衛兵は明治5(1872)年に聯隊編制となり、歩兵2聯隊、騎兵1大隊、砲兵2小隊、工兵1小隊、輜重兵1隊となった。
また、明治21(1888)年には師団編制となって近衛師団となる。
なお、終戦時(昭和20年)には近衛第一、第二、第三師団の3個師団となり、それぞれ東京(皇居守護)、千葉(米軍上陸の主攻重要地区配備)、インドネシア・スマトラ島(産油重要地区配備)に配置された。

鎮台

幕府がフランスから軍事を学んだのを引き継ぎ、初期の軍制はフランス軍を模した。
鎮台制はフランスの治安警察軍に倣ったものである。(無論国内の治安維持のため)
親兵設置と同時に東山道(石巻)と西海(小倉)に置かれたのが最初(鎮台の名称は以前にも使われている)で、これらも藩兵から徴集した。
廃藩置県以降は東京(歩兵9大隊)、大阪(歩兵5大隊)、東北(歩兵1大隊)、西海(歩兵2大隊)の4鎮台となったが、徴兵令施行まではこれも旧藩兵(士族)をその補充源にしていた。
徴兵制施行(これもフランスに倣った)に伴って、徴兵事務を執り行う軍管に新たに設置されたものが下の表である。

徴兵令施行以降の鎮台(1873年/明治6年)とその編制
第一軍区(東京鎮台) 本営<東京> 分営<佐倉><新潟> 歩兵第一、第二、第三聯隊
第二軍区(仙台鎮台) 本営<仙台> 分営<青森> 歩兵第四、第五聯隊
第三軍区(名古屋鎮台) 本営<名古屋> 分営<金沢> 歩兵第六、第七聯隊
第四軍区(大阪鎮台) 本営<大阪> 分営<大津><姫路> 歩兵第八、第九、第十聯隊
第五軍区(広島鎮台) 本営<広島> 分営<丸亀> 歩兵第十一、第十二聯隊
第六軍区(熊本鎮台) 本営<熊本> 分営<小倉> 歩兵第十三、第十四聯隊

東京にはこの他に近衛兵(明治7年)が、北海道には屯田兵(明治7年)があった。

なお、この当時の総兵力は、歩兵14個聯隊、騎兵3個大隊、砲兵18個小隊、海岸砲兵9隊、工兵10個小隊、輜重兵6隊などの、総計約3万6千人。

各聯隊所在地には師管が置かれ、1師管が1聯隊の兵員徴募を行った。(後年の聯隊区)
明治12(1879)年、鎮台指揮官(これ以降鎮台司令官と呼称。以前は鎮台司令長官)は聯隊を編合した旅団を指揮する旅団長に(なお、西南戦争時の旅団とは異なる)、またこれら旅団を指揮するために東部、中部、西部の監軍中将が師団長となる。(実際には編成されなかった)
のち国の軍に対する要求が変化したため、明治21(1888)年にドイツを模範とした師団制(外征軍)へ移行した。

第一章(2)へ続く

 


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