毎週更新第八回 「陸軍盛衰記」 −第一章−


ここからお読みになった人は、事前に日本軍の基礎知識<陸軍>をお読みになることをお薦めします。

また、軍事に特化した進め方になりますので、特に用語解説や組織・制度解説がおろそかになることが多々あります。質問等をお寄せ戴ければ追記、修正いたしますのでご理解戴ければ幸いです。


■■■ 陸軍盛衰記 ■■■

◆第一章(2)◆

これ以降、用語や組織などに難解なものが増えます。もし分からないと感じたらメールあるいは掲示板でお知らせ下さい。出来るだけフォローします。
なお、陸軍に特化した内容であるため、若干歴史的背景を端折っている部分があります。

◇征韓論◇

征韓論とは黒船来航以来の考え方で、吉田松陰曰く「列強の圧力により領土を失った場合、その代償を朝鮮や満州(現在の中国東北部。以降この補足説明は省略。本来は満洲が正しい)に求める」というもので、木戸孝允、勝海舟など信奉者は多かった。
日本が戦争の道を歩んでいく理由の一つとしても重要な点である。

明治維新後の対外政策は複雑な経緯をたどる。
日本は、列強との間に不平等な条約を結ぶと、その代償を求めるように近隣のアジア諸国に不平等条約を結ぶように強硬に求めた。
これには幕末の攘夷思想もあった。日本が侵略者となることこそ、日本を列強からの侵略から防ぐことになる。帝国主義の現れだった。また、士族の不満や農民の不満を外にそらせる意味もあった。
しかし、朝鮮に求めた条約は拒否された。また、清との交渉(日本全権伊達宗城、清国全権李鴻章)も抵抗にあって対等条約となった。(明治4(1871)年の日清修好条規締結)
しかも、それが平等になったため国内から不満が出、また列強も同盟条約ではないのかとの疑惑から批准が遅れたりもしている。(明治6(1873)年に副島種臣が批准書を交換)

戊辰戦争によってその思想はなくなったかに見えた征韓論だったが、理由をすげ替えて復活した。
朝鮮の条約拒否を始めとする反日・侮日に対する懲罰的意味合いである。これは言いがかりに近いもので、実際には先に述べた不平・不満をそらす目的であった。
明治6(1873)年夏、閣議で征韓について話し合われた。
その際、どのような口実で攻めるかについては西郷が、自分を使節として送り、要求が拒絶され自分が殺されれば口実となると主張した。(使節には当初は副島種臣が有力視された)
そして、その熱心な主張により使節は西郷でほぼ決定した。

ところで、岩倉使節団に参加していた大久保利通は、一行よりも早く帰国していた。
その理由は、有司専制を進める大久保の勢力下にある大蔵省と、政敵である江藤新平の司法省を始めとする他省とのトラブルである。
そのため、官制改革が行われて大蔵省の権限が縮小されるとともに、薩長の影響力を排除するために大久保の代理などを務めた井上馨や渋沢栄一が辞職されられたりもした。(残った大隈重信も非常に苦しい立場になったという)
こうした中、自分の参加しない会議において望まない征韓論が沸き起こり、西郷が使節にほぼ決定されたことに、大久保は反対であった。国内の体制強化と富国強兵が先決で、今はまだ海外進出には早いと見ていた。
大久保はそこで、最終的に決定権を持つ太政大臣三条実美と、右大臣岩倉具視に工作をし、たとえ多数決で征韓や西郷の使節就任が決まったにしても、この二人が反対すれば、明治天皇の裁可にも影響を与えることが出来る。
明治6(1873)年10月14日の閣議において、征韓派(西郷、板垣、江藤、副島ら)と反征韓派(大久保、大隈ら)は始めから激しく対立した。この日には決せず、更に翌日も話し合いが行われたがそれでも結論は出なかった。
そこで、三条と岩倉(当時左大臣に人は置かれていなかった)の二人の判断に委ねられた。大久保の狙い通りであった。
しかし、三条の裁決は西郷を使節にするというものだった。後に二人は大久保に謝罪することになったが、三条は心労で病気で寝込んでしまう。
そこで大久保は岩倉を三条の代行にして征韓派に対し、天皇に裁可を求めるときに岩倉の意見を付すことを告げ(無論激しく反対された)、明治天皇から征韓と西郷の使節就任を取りやめるようにし向けることに成功する。

敗北した征韓派は次々と辞職した。特に9人の参議のうち、西郷、板垣、江藤、副島の4人が中央政界から離れることとなった。
文官からももちろん辞職者は出たが、まだ組織的に小さい海軍よりも、陸軍への影響は大きく、西郷隆盛(この当時唯一の陸軍大将)、桐野利秋(日本陸軍で最初に将官となった。陸軍少将)を始めとする近衛将校から大量辞職者が出た。
明治天皇自ら慰留に務めたにもかかわらず、である。
しかし、そんな影響をものともせず、この明治6年の政変によって考えを違える西郷だけでなく、政敵江藤をも追い出した大久保は、大隈重信を大蔵卿、伊藤博文を工部卿、勝海舟を海軍卿にするなどして体制を固め、且つ参議を兼ねさせ影響力を高めた。
自分自身も内務省を新設して内務卿となり、独裁(有司専制)を確立させた。

◇士族反乱◇

中央を退いた西郷を除く参議は、自由民権運動を開始した。
この一連の征韓論決裂の影響は、それまでの士族の特権が無くなったことと合わせて、より一層各地で反乱の兆しが見られるようになった。
また、地租改正と徴兵令の影響による農民一揆も多発して世相が荒れた。

明治7(1874)年、修好条規批准時に以前台湾に漂着した琉球(八重山)島民が原住民に殺害されたことに対し、副島は責任を追及したが、台湾は統治外であると言い逃れをした。
そのため国内に台湾出兵の声が上がり、西郷従道(隆盛の弟で陸軍中将。後海軍に転身して海軍大将)に出兵を命じた。
これはアメリカやイギリスの反発を招いて政府は中止を決定するが、西郷は独断で出兵をして台湾を制圧する。(征台の役)
これに対し清国は抗議をしてきたため、大久保が全権となって交渉し、台湾出兵を承認させ撤兵した。(この時清国との間で曖昧だった琉球を日本の帰属とした)

台湾出兵は、琉球を帰属させたことと台湾に影響力を残したことで、西郷を始めとする旧薩摩士族に対する懐柔策でもあった。(大久保は征韓に反対しながらも征台には賛成をしている。無論、国内の不満をそらせる意味合いもあった。)
しかし、このことが更に反発を招いた。
対外政策では征韓を押さえながら征台を行ったり、また千島・樺太交換条約によって樺太をロシアに譲ったこと(対ロシア政策による。詳細は後)に不満が出ていたのである。
また、下野した江藤は征韓派である佐賀征韓党(佐賀士族)と、士族の特権復活を主張する憂国党に推され、官僚独裁打破を掲げて1万人を率いて決起した。
これは反乱を予想してすぐ政府軍が対応したため、佐賀県庁をを占拠するもすぐ鎮圧されたが、このことが更に士族の反乱を助長させてしまう。(江藤は敗北後西郷や板垣を訪ねるも決起を拒絶され、その後政府軍に捕らわれて処刑されている)

明治9(1876)年、地租改正による重税に耐えかねて農民一揆が多発した。
また、この年の帯刀禁止令、秩禄処分によって士族は完全に(実質的にも形式的にも)その特権的身分を失った。
旧来の保守的思想を持つ敬神党は、以前からも政府の欧化政策に反対していたが、帯刀禁止令に過剰に反発を強め、士族の中心となった太田黒伴雄を始めとする神主たちにより、10月24日に信託を受けたとして決起した。この約170名ほどの反乱部隊は熊本城にある鎮台を襲撃して、鎮台司令長官種田政明陸軍少将と県令安岡良亮らを殺害したが翌日鎮圧された。(神風連の乱)
続く27日、神風連の乱に呼応して福岡秋月(現在の甘木市)の藩士宮崎車之助率いる秋月藩士約250名が蜂起した。(秋月の乱)
28日には萩で前原一誠が約200名とともに蜂起した。(萩の乱)
宮崎らはしかし、前原らと合流しようと萩へ向かう途中、小倉分営の政府軍に阻まれ壊滅する。
また、山口県庁に襲撃に向かった前原らも、広島鎮台の政府軍に阻まれた。
前原は、この動きに呼応して西郷が起つのを期待した。しかし西郷にその気はなく、結局の所鎮圧されて前原は処刑された。

◇対外政策◇

日本が明治維新以降に、積極的に列強諸国と接し、また強硬に近隣のアジア諸国と交渉を始めたのは、既に述べたように列強諸国の植民地化や権益の独占を防ぐためであった。
(また、これまでも言ったように国内問題よりも国外の問題を喧伝して、鬱積する不満をそらせる目的も大きかった)
いわゆる拡張政策、あるいは帝国主義といった明確な対外政策を日本がとっていたとは言い難いが、列強のアジア進出の動きに敏感に反応をし、対策やそれよりも先んじてアジア進出を目論んだとしても不思議はない。
特に強国と言われた清が、アヘン戦争と太平天国の乱によって徐々に半植民地化されていく事実が、幕末の強硬な攘夷思想を呼んだのである。

特に日本が注意をしたのは、朝鮮に影響力を持つ清と、そして南下政策をとるロシアだった。
榎本武揚(海軍中将、特命全権公使)による千島・樺太交換条約には、ロシアの目を朝鮮から逸らそうという思惑があった。しかし、これは時間稼ぎにしかならなかった。
また、清国との修好条規から征台の役に到るいざこざは、わだかまりを残した。
清を宗主国とする朝鮮(大院君)は、日本の修好条約提議(明治元年)を拒否するなど、鎖国政策をとって通商を求める列強とトラブルを起こした。
しかし息子高宗の妃一族(閔氏)が権勢を握ると、外交政策が軟化した。
征韓論を始めとする日本の対朝鮮政策は、これを日本の勢力下に置くことに集約されている。
これを好機と捉えた日本は、軍艦雲揚をソウルの目と鼻の先にある要衝江華島に接近し、朝鮮軍の砲撃を誘発した。そして朝鮮はまんまと砲撃をした。これに直ちに応戦すると砲台を破壊し、近隣の永宗島に上陸して朝鮮人を殺害した。
飲料水補給が接近した名目だったが、これは挑発行為に他ならなかった。しかし、この報に日本の世論は朝鮮の非道に激高した。
日本全権黒田清隆と井上馨は明治9(1876)年2月26日、軍艦6隻を率いて武力で開国を迫り、外交に疎い朝鮮に不平等条約を認めさせた。翌年日朝修好条規(江華島条約)を締結する。
これにより朝鮮は鎖国政策を捨て、門戸開放を行った。

◇西南戦争◇

幕末から戊辰戦争を経て明治新政府においても西郷隆盛の存在は大きかったが、それは征韓論に破れて下野(鹿児島へ帰郷)しても変わらなかった。
征韓論に破れて下野した他の面々はもちろん、また反乱を起こした不平士族も西郷に対する期待は大きかった。反政府(これは大久保の独裁体制に対する不満とも言える)の象徴的存在であった。無論政府からも復職の誘いがあった。
しかし、当の本人にはそんな気はなかった。
帰郷した西郷は私学校を設立し、陸軍を辞した桐野利秋、篠原国幹、村田新八らによって軍事教育が行われた。それとは別に賞典学校(戊申戦争時の功労金で設立)ではエリート教育が行われていた。
これは将来的に国のために役立つ人材を養成するのが目的だった。
しかし鹿児島では、県令の大山綱良(元奥羽鎮撫総督府参謀)のもと、下野した人間を県の要職に付けたり、私学校に公費で援助をしたり、また秩禄処分をしないなど政府の意向に従わないところがあった。
そして、私学校でもそうした状況において、西郷の思惑を外れて反政府色が強まっていった。

明治10(1877)年1月29日、陸軍火薬庫において、政府は鹿児島との取り決めを無視して武器・弾薬を運び出そうとした。これは事前に通告する、そして持ち出しは昼間というのを完全に無視した形となった。
私学校生徒はこの報に激怒し、弾薬庫を襲撃して武器・弾薬を押収する事件となった。(それ以前に政府が西郷の暗殺を目論んでいたという真偽不明の事件があり、反発を強めていた)
西郷は驚愕した。政府の徴発行為に乗ってしまったからだった。
また大久保は密かにほくそ笑んだ。鹿児島への不満を持つ木戸孝允から強硬に討伐するように迫られていたこともあって、鹿児島士族はいずれ討伐しなくてはならないと考えていたからだ。
2月5日の幹部会議では穏健派を押さえて強硬派が多数を占め、決起を促した。西郷は死を覚悟して大雪の降る15日、1万3千人を率いて挙兵、北上を開始した。
また、九州各地の不平士族や反政府団体(民権派)も西郷軍に合流を始めた。高知の板垣退助(立志社)や和歌山の陸奥宗光(後の外務大臣)なども決起の動きはあったが、こちらは政府の素早い動きで押さえられてしまった。しかしこの戦いの成否では大規模な反乱も必至だった。
政府は19日、征討総督に有栖川宮熾仁親王、征討参軍山県有朋陸軍中将、川村純義海軍中将が任命された。そして第一旅団(司令長官野津鎮雄少将)、第二旅団(司令長官三好重臣少将)、第三旅団(司令長官三浦梧樓少将)が動員された。
さらに、西郷(大将)、桐野(少将)、篠原(少将)の官位を剥奪した。また、西郷は明治維新の功労者として贈られた正三位の官位も剥奪されている。

22日、戦略的要衝の熊本城を巡って、熊本鎮台兵と西郷軍との間に本格的戦闘が起こった。火力(砲撃力)が少ないことを顧みず、西郷軍は熊本城を強襲するも、守備隊は強固に守りきった。徴兵による鎮台兵を見くびったのか、白兵戦に有利であるはずの士族軍隊が、陣地戦で戦っただけでなく、立て籠もる鎮台兵に対して包囲作戦をとった。熊本城には1ヶ月分の食料しかなく、長期的には政府軍が不利であった。しかし、西郷軍は有利である機動力さえも捨ててしまった。
政府軍はこれに対し、当然包囲を突破しようと試みた。しかし、熊本城へ増援を送るための重要な交通路である熊本城北20キロにある田原坂は西郷軍に厳重に押さえられていた。ここでは士族軍隊と徴兵軍隊の差が如実に現れていた。薩摩示現流の抜刀隊に、農民や町民による兵士では太刀打ちが出来なかった。
個人の戦闘能力では明らかに劣る政府軍は、田原坂への正面攻撃を避け、側面からの攻撃に重点を置いた。そしてその要である田原坂の南にある観測点横平山の奪取を、政府軍巡査抜刀隊に決行させることにした。
巡査抜刀隊は、西郷軍の抜刀隊と唯一渡り合える最精鋭部隊で、さらに旧会津藩士が意図的に抜擢されていた。戊辰戦争で敵対し、そして破れた恨みを晴らそうというものを利用したものだった。
3月15日、政府軍は横平山に猛攻をかけた。巡査抜刀隊は、西郷軍抜刀隊と激しく白兵戦を演じ、双方にかなりの死傷者が出たが、守る西郷軍の陣地を突き崩すことに成功してここを占領した。
一方、海軍の保有する11隻の軍艦をフル回転して、2月26日に海上機動によって福岡に上陸した増援軍は、20日には田原坂を圧迫した。さらに横平山から出撃した部隊による奇襲を受け、この戦争最大の激戦の後、ついに田原坂を守る西郷軍を撃破した。またこの戦いで篠原国幹が戦死した。
さらに、山県の後任黒田清隆自ら率いる部隊が、長崎からの海上機動により4月19日に八代へ上陸、熊本城は開放され、また鹿児島が占領された。
戦線が拡大したことによって戦力が不足し、第四旅団(司令長曾我祐凖少将)だけでなく、北海道の屯田兵からなる別動第二旅団を含む5個別動旅団、警視庁の警官からなる新撰旅団も動員している。
敗れた西郷軍は、政府軍の猛追撃を受けながら都城にまで後退、8月17日には勝利が望めないと判断して軍を解散させた。
そして包囲する政府軍の隙をついて鹿児島へ戻り、残った300名ほどとともに鹿児島北の城山に立て籠もった。
政府軍は5万でこれを包囲、3週間後の9月24日に総攻撃を開始し、西郷は負傷して自刃、その他の幹部も自刃するか戦死した。
この7ヶ月の戦いで、政府軍約6万人、西郷軍約3万人が参加し、政府側に約7千人弱、西郷軍側に約6千人の戦死者が出た。(数字には諸説ある)
これにより士族の武力による反乱は無くなった。苦戦はしたが、徴兵軍隊が士族軍隊を打ち破った効果は大きく、その後の反政府闘争は言論による争い(自由民権運動)となった。
ちなみに、この戦争による軍需ブームは国内の資本主義経済に活性を与え、特に輸送業、新聞業、医薬品業が発達、発展した。
さらに、戦争による副次的効果として、軍事技術の発達が上げられる。戦争は良くないこととされるが、この戦争によって技術革新や経済発展が飛躍的に行われることを見逃してはならない。
この戦いにおいて、軽気球、水雷、ロケット弾などの多くの新兵器が開発されるなど軍事技術が高まり、それに伴い軍需産業も発展した。

なお、西郷隆盛は戦後も人気が衰えず、明治22(1889)年2月11日の大日本帝国憲法発布と同時に勅令が出されて名誉回復した。また、明治31(1898)年には生前の徳を偲んで上野公園に銅像が建てられている。

第一章(3)へ続く

 


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