毎週更新第九回 「陸軍盛衰記」 −第一章−


ここからお読みになった人は、事前に日本軍の基礎知識<陸軍>をお読みになることをお薦めします。

また、軍事に特化した進め方になりますので、特に用語解説や組織・制度解説がおろそかになることが多々あります。質問等をお寄せ戴ければ追記、修正いたしますのでご理解戴ければ幸いです。


■■■ 陸軍盛衰記 ■■■

◆第一章(3)◆

これ以降、用語や組織などに難解なものが増えます。もし分からないと感じたらメールあるいは掲示板でお知らせ下さい。出来るだけフォローします。
なお、陸軍に特化した内容であるため、若干歴史的背景を端折っている部分があります。

◇国民皆兵◇

それまで、戦いを本分とする人々は武士(士族)だった。
しかし、近代国家における軍備は、志願と徴兵とに関わらず一般国民を主体としたものが必要であることは既に説明した。
ところが、未だ国民にはおおよそ軍人としての気風、軍紀が欠如していた。職業倫理とも言うべきこれらは、戦場における軍人の本分としてだけでなく、平時からその職務の重大性や、一般生活においての軍や軍人に対する観念の醸成が必要であった。

西南戦争後、論功行賞の不平や緊縮財政における減俸(西南戦争における多大な戦費を補うため、紙幣を発行したためインフレを起こした)に不満を持った近衛砲兵の下士官兵の一部が、上官を殺害し天皇に直訴を計るという竹橋事件が起こった。
これに驚いた陸軍当局は、すぐさま軍人訓戒を出して軍人としての準拠すべき軍紀などを示した。ところが、明治14(1881)年には北海道開拓使官有物払い下げに関する再議を求めて、陸軍中将や少将らが相次いで天皇に意見をするという上奏事件が起こった。
こうした軍人の政治関与が問題となり、明治天皇は翌明治15年に、軍人の本分を諭す軍人勅諭を出した。
これには軍は天皇が親率(自ら率いる)することを明確にして、
一、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
一、軍人は礼儀を正しくすべし
一、軍人は武勇を尊ぶべし
一、軍人は信儀を重んずべし
一、軍人は質素を旨とすべし
という軍人としての徳目を示した。
また、世論に惑わず政治に拘わらずにただただ一途に己が本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し、という死生観を訓した。

◇参謀本部◇

前章で既に述べたとおり、江戸幕府は建軍に関してフランスをその規範としていた。そうした関係から、明治政府もフランスに倣って軍制を作った。服制や教練などもそうであるし、なにより治安警察軍である鎮台制も、フランスに倣ったものである。
これも先に述べたが、明治初期の陸軍は厳格にシビリアンコントロールを維持していた。しかし、軍隊指揮権に関する問題は、文官に任せてはおけないと言う軍の意志があった。(この辺りは現在とは正反対である。これは組織的問題であって、現在のように統制の取れた命令系統が完成されていないからである。政府は軍の戦闘指揮と同時に外交も行わなければならず、軍の作戦指導をする統帥部が必要であった)
兵部省が陸海軍省に分離した際、陸軍省内に第六局が置かれた。これは陸軍卿の幕僚組織(参謀)であった。しかしこれはすぐ廃止され、外局として参謀局が置かれた。こちらは征討大都督(天皇の名代である総司令官)の幕僚組織である。(違いが分からない人は流して良い)
この参謀局は、西南戦争の翌年明治11(1878)年に独立し、官衙(かんが。役所のこと)となり、参謀本部となった。初代本部長は山県有朋である。軍隊指揮権を文官に任せることに反対した張の本人である。(参謀本部の独立に関しては桂太郎によるもの)
この参謀本部は、ドイツ(実際は連邦最大のプロイセン陸軍)を規範としたもので、本来は傭兵軍に対する補給などを計画する兵站本部を指す。しかし、日本では軍令に関する業務を専門的に行う役所を指す。少し難しいが日本軍の軍隊組織としての特徴とも言える所なので説明する。

陸軍省は、その本来の業務を軍政とした。軍政とは軍事行政のことで、他省庁との兼ね合いから重複する、あるいは話し合いによって定める必要のある(閣議などでの交渉が必要とされる)予算や、その配分と決算などの経理、そして人事の管理と教育に関するものを言う。
参謀本部はそれ以外の、特に軍事行動に関係する全ての事柄が担当である。それを軍令という。(高級将校(いわゆる将軍と呼ばれる将星たち)は軍政勤務、軍令勤務のどちらかに偏重した経歴を持つ者がいる。これは組織閥の一面を持つ。無論平均的に経験した者、あるいは実戦(前線)勤務しかしていない者もいた)
軍令の具体的なところは、国が戦争を決したときに対応できるよう戦争計画を立て、戦力を育成、整備することにある。無論戦争中の戦略や作戦指導も担当する。(これを統帥という。後述)これは際限のない部隊の増設や兵器の開発、いわゆる軍拡に陥りやすいことを意味する。そのために予算や管理することで国家としてのバランスを保つ必要がある。それが軍政の専門業務である。
ところが、このどちらにも属さない、逆に言えばどちらの職分であるとも言える事項が存在した。それを軍政軍令事項と言い、お互いに話し合って決めることとした。(この問題は後年重大事件に発展するので注目)
また、軍隊を指揮すると言った単純なものから、戦略や戦術に根ざした指揮運用の研究、情報の収集と解析などを専門的に行っている。

◇統帥権独立◇

明治22(1889)年、大日本帝国憲法が発布された。
この中に、次の事柄が明記された。
・ 第十一条「天皇は陸海軍を統帥す」
・ 第十二条「天皇は陸海軍の編制及常備兵額を定む」
この二つの軍事大権は、上を軍令大権(統帥大権)、下を軍制大権(編成大権)と呼び、非常に重大な意味を持った。(大権とは強大な権力のことを言い、天皇ただ一人が有する)
本来、国政に関することは天皇を補弼(天皇に進言するなどして裁可を受け、それらを実行するとともにその全責任も負う)する国務大臣の職責だが、こと軍事に関しては天皇直卒であるから国政の干渉を受けないと解釈が出来るものであった。
軍令大権では、軍部大臣(国政に参画する)の補弼なくして、参謀総長(軍令部長)が帷幄上奏(国政外の統帥に関する事項を、閣議を経ずに直接天皇に進言したりすること)が可能であることを示す。また、軍制大権では軍部大臣の職責にも関連する混成事項があり、軍部大臣にも帷幄上奏が出来ることを示した。
これを統帥権の独立と言い、本来は国政から統帥を分離するものであった。(前述)
ところが、これが後に重大問題を起こし、軍部の独走を容易にした。

こうした軍(統帥)の独立性や軍人の立場を特殊化したことにより、このことが軍人の優位性を高めることとなった要因の一つともなった。

◇陸海軍の対立(1)◇

統帥権の独立から、軍令を掌握する機関として参謀本部が独立した。
しかし、海軍はまだこの時、軍令も海軍省の所管となっていた。(実際に軍令を管掌する海軍省軍事部は、実に明治17年まで無かった)
明治19(1886)年、参謀本部は陸海軍の統合軍令機関となり、皇族の参謀総長(本部長を改称)と、参謀本部陸軍部と参謀本部海軍部(もと海軍省軍事部)とになった。(明治21年には参謀総長は参軍、参謀本部陸軍部・海軍部はそれぞれ陸軍参謀本部、海軍参謀本部へと改称)

そもそも、江戸時代においては海防論を中心とした海主陸従であったが、国内の争乱からか陸主海従となった。
また、士族中心に作られた経緯もあって、軍関係者の登用も、長州、薩摩が中心となった。その関係上、中心人物の出身藩からの登用が多くなった。このため、陸軍卿山県有朋率いる陸の長閥と、海軍卿西郷従道率いる海の薩閥となった。(これは明治末期、大正まで続く)
兵部省から陸海軍省に分離した際の理由は、単に業務が繁雑となり、海軍側が築地に本部を置いていたこともあっての不便からであった。
しかし、藩閥の対抗意識があったことに疑いはなかった。陸軍内の薩摩藩出身者は、分離を喜んで同意したという。
元来、費用の分配などを巡って陸海の争いは他国でも珍しくもないが、以上の理由から特に陸海軍には対抗意識があった。
また、作戦指導は海軍独自のものであって、陸軍の指図を受けないと言う反抗もあった。
それが、軍令を独立した陸軍が、海軍の軍令を参謀本部に取り込んだことで表面化した。
明治22(1889)年、陸海統合の軍令機関は消滅し、陸軍の参謀本部と、海軍大臣の指揮下に海軍参謀部(海軍参謀本部の案は陸軍に反対され実現できなかった)との分立となった。
しかし、陸海軍の作戦を調整が必要であることは理解され、戦時にのみ大本営を設置することとした。
国政から統帥が分離した後、統帥が更に二分されることになった。
この問題と対立は事あるごとに表面化し、様々な弊害を後々まで及ぼしていく。

◇外征軍隊への転換◇

参謀本部が参軍となった明治21(1888)年に軍制改革が行われた。
その一つが先に述べた統帥機構の強化。
そして徴兵令の改正。(これは戦時動員編制の整備を進めたもので、西南戦争では兵員の不足を補うために士族から募集した壮兵などに頼らざるを得なかった)
そして、それまでのフランス式からドイツ式に改められた軍制である。
それ以前、朝鮮や沖縄に絡む清との対立が悪化し、陸軍は軍備拡張を進めて鎮台設立時に比べて一躍2倍の兵力を整備した。
また、鎮台は歩兵2個聯隊からなる旅団を編成した。
これを背景とし、陸軍を国内治安軍から外征軍に転換した。
すなわち、それまでの鎮台は支援や後方勤務の部隊を含まなかったが、師団は独自の後方部隊を持つ単位(戦略単位)として外征することが出来るものだった。
6個の鎮台は、それぞれ6個の師団となった。(師団の編成については日本軍の基礎知識<編制と編成編その1>を参照)
さらに、近衛兵もその後師団へ改編された。
また、この時ようやく全軍(現役、予備役を問わず)に統一装備が実現した。それまでは、費用や整備上の問題から一挙に全部隊に新鋭兵器などを装備することが出来ずにいたが、国産兵器の開発や生産が一応の水準に達したことを示していた。

明治26(1893)年の陸軍は、近衛および第一〜第六師団(歩兵14個旅団28個聯隊、騎兵7個大隊、野戦砲兵7個聯隊、工兵7個大隊、輜重兵7個大隊が隷属)、対馬警備隊や屯田兵隊などの諸隊の常備兵力6万3千人。これが戦時動員されると、後方部隊を含めて22万人となった。

 

第一章(4)へ続く

 


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