毎週更新第十四回 「陸軍盛衰記」 −第一章−


ここからお読みになった人は、事前に日本軍の基礎知識<陸軍>をお読みになることをお薦めします。

また、軍事に特化した進め方になりますので、特に用語解説や組織・制度解説がおろそかになることが多々あります。質問等をお寄せ戴ければ追記、修正いたしますのでご理解戴ければ幸いです。


■■■ 陸軍盛衰記 ■■■

◆第一章(8)◆

これ以降、用語や組織などに難解なものが増えます。もし分からないと感じたらメールあるいは掲示板でお知らせ下さい。出来るだけフォローします。
なお、陸軍に特化した内容であるため、若干歴史的背景を端折っている部分があります。

◇北清事変◇

山東省で、義和団という宗教集団がドイツ人宣教師や中国人キリスト教徒を襲う暴動が発生した。北清事変(義和団事件)である。
義和団は反キリスト教で西洋を敵視し、扶清滅洋をスローガンとしていた。
この暴動は次第に拡大し、直隷省(今の河北省)に範囲を広げながら鉄道や電線を破壊した。
そしてこれらが北京や天津に入り、公使館地区を占拠しドイツ公使や日本大使館員を殺害するに至って、日本を含めた西洋列強は義和団を鎮圧するために出兵を決定した。明治33(1900)年のことである。
日本は閣議で1個混成旅団を派遣することを決定したが、清の西太后は義和団が有利とみて列強各国に宣戦布告をしたため、日本は第五師団(師団長山口素臣中将)他の2万2千人以上(連合国軍約3万6千人の中では最大)を出兵して、8月14日には北京の公使館地区を開放した。
それ以前に清国軍は義和団が連合国軍に対抗できないのを看取って、一転して義和団鎮圧に180度転換した。
また、争乱は満州にまで波及してロシアの租借下にある東清鉄道が破壊され、その保護を名目にロシア軍が満州に侵入した。
なお、北京開放のその際、連合国軍は3日間城内の自由な略奪を許可した。
そのため、物品の強奪を始めとして婦女子への暴行、建造物の破壊などの残虐行為の限りを尽くした。イギリス軍部隊(連合国の総指揮官を出していた)では略奪品の競売をしたという話もあった。
その中にあって、日本は比較的厳格な軍規を保って国際的な信用を得た。しかし一切関わっていないわけではなかった。

最大の問題は国際的なものよりも、国内的な問題であった。
義和団鎮圧の先遣として派遣された部隊が、北京や天津にあった清国の銀塊を発見し、その一部を着服したことが明らかとなった。
そのため、明治34(1901)年4月に第十一師団師団長乃木希典中将は、自ら事実関係の調査をした上で免官を含む幹部の処分を行い、自らも責任をとって休職願い(名目は病気のため)を出した。
ところがこの件が新聞に漏れて衆議院で政治問題化してしまった。
このため2月には憲兵によって第五師団の師団長以下の関係者が強制捜索を受けることになってしまった。
この事件の中心人物と目されたのが、第五師団歩兵第九旅団長の真鍋斌少将であったが、陸軍大臣児玉源太郎の奔走により監督責任を問われての休職で処分が済んだ。
問題は、陸軍創設以来の陸軍指導者が長州閥によって占められていることにあった。
言い換えれば維新の功績がある薩摩や土佐でさえ、将軍は出しても指導者と呼べる人物は出していなかった。
山県、桂、寺内と続く系譜は、しかし桂の右腕として活躍し、今後の累進に必要な実戦経験を得るために出征した真鍋が不祥事に巻き込まれたことで、ついにその地位を埋めることが出来なくなってしまった。(次代は田中義一となるが、真鍋の開けた穴は薩摩藩出身の上原勇作が埋めた)
ちなみに指導者としての地位は棒に振ったものの、真鍋はこの後勲一等功二級に叙されて男爵となるなど、長州閥の恩恵を受けている。

1901年9月、清国と連合国との間で「北京議定書」が交わされ、賠償金の支払いと、天津・塘沽・山海関への駐兵権を得た。
日本は居留民保護を名目に天津に軍隊を駐留させた。これは天津軍(のち支那駐屯軍)と呼ばれ、昭和に入って支那事変の火元となった。

◇ロシアの策動◇

クリミア戦争(1853〜56年)に敗北したロシアは、その後フランスとの友好関係を築き、普仏戦争(1870〜71年)で一時ドイツに接近したものの関係は険悪化して、再びフランスに接近した。
ドイツは、イタリアとオーストリアとの間で三国同盟を締結したため、1894年に露仏同盟が成立する。(のち、これにイギリスが加わって三国協商となって、第一次世界大戦へと至る)
ロシアが狙っていたバルカン半島から目を逸らすため、ドイツは黄禍論(黄色人種が台頭して白色人種に対抗する)を説いて極東に目を向けさせようとしていた。

ロシアが日本に代わって遼東半島の大連・旅順を租借した翌月になる1898(明治31)年4月、ロシア駐日公使ローゼンと西徳二郎外相との間で協定が交わされた。
これは韓国内における日本の商工業活動の優位性を認め、両国は独立国としての韓国に内政干渉を行わないこと、軍事あるいは財政の顧問をおく場合には事前に両国で協議することなどが取り決められた。
極東でのロシアの障害は南下政策で対立を深めるイギリスであり、韓国での優位性を認めて日本を懐柔して遼東半島問題には口を挟ませないように策謀した。
その絶好の機会が北清事変であった。義和団の乱に乗じて宣戦布告した清国が、7月15日に黒竜江対岸のブラゴヴェシチェンスクに砲撃を行ったことを口実として、東清鉄道の保護のためロシア軍が満州へ侵入を開始した。
この際、ブラゴヴェシチェンスクの清国人3000人余りが虐殺(アムールの大虐殺)され、対岸愛琿も占領され住民が虐殺された。
また、連合国軍が北京に入ると、ロシア軍はその隙にチチハル、吉林、奉天など満州全土を瞬く間に占領した。
さらに北満進出の拠点として、ハルビン市の建設を始めた。
日本は韓国の、イギリスは中国本土の権益が脅かされることを危惧した。
1901(明治34)年1月、ロシアは韓国の中立化について提案してきた。
これは韓国への野心がないことを示そうとしたものだが、しかし前年11月からロシアは清国と秘密交渉(満州での権益を認めさせようと)を進めていた。
日本は満州からのロシア軍撤退が完了するまで認められないと提案を突っぱねた。
また、秘密交渉が露見するとイギリスやアメリカとともに強硬に抗議をし、清国にこの密約に応じないように圧力をかけ、結果4月にこの協定を破棄させることに成功した。
だが、ロシアは満州を手放すつもりは無かった。

◇日英同盟◇

ロシアは軍事大国であり、極東ロシア軍だけでも日本の軍事力に匹敵した。
ロシアに対抗するには、特に財政の面からイギリスに接近して同盟を結び、ロシアに対抗しようとする元老山県有朋や小村寿太郎外相らの意見があった。
イギリスは先に述べたように、日本と同様にロシアの南下政策に関して危惧しており、また経済力や世界一の海軍力を誇り、同盟を結ぶことでロシアの後ろにいるフランスも警戒して手を出さないだろうと見ていた。
しかし、一方では伊藤博文や井上馨になどによって、ロシアに接近してロシア協商を結ぼうとする意見もあった。
その理由は日英同盟はロシアを刺激するだけであり、また列強大国のイギリスが日本と同盟を結ぶわけがないと見ていた。
伊藤は欧米外遊(1901年秋)の際、ロシアに寄ってニコライ二世らと会見もしていた。
これに対し、イギリスは積極的に同盟締結を働きかけてきた。
中国での権益を巡る争いで負けたくないイギリスは、アフリカでのドイツやフランスとの権益争いで手が放せないため、遠くアジアでロシアに対するには日本を使うのが有利であると判断していた。
これに応じて、桂太郎首相はロシア協商にはやる伊藤を諫めたが言うことを聞こうとせず、結局12月7日の元老会議で日英同盟を決して日露協商案は破棄された。

日英同盟は軍事同盟であり、日本あるいはイギリスが戦争状態になったときは他方は中立とし、第三国が敵国に味方して参戦した場合には、中立を守る他方も参戦をすることとした。
これにより、フランスはロシアに味方して参戦することが出来なくなった。フランスの軍事力はイギリスに劣っていたからだ。
ただ一番の懸案が韓国問題だった。
この問題では、イギリスは自国に関係のない問題を同盟に盛り込むことで振り回されるのを嫌い、日本の韓国での特権を認めることに難色を示した。
反面、イギリスは中国における権益を日本に認めさせる必要もあった。
そのため双方の利権を認め合うことで合意し、1902(明治35)年1月30日にロンドンで調印式が行われた。
これにより国際社会における日本の地位は向上した。

2月、ロシア外相ラムスドルフは日英同盟に関し軍事協定があることに遺憾の意を述べ、3月には露仏同盟が極東でも有効であることを両国は宣言をして日英同盟に対抗した。
日英同盟がロシアに与えた影響は大きかったが、しかしそれに対抗する実質的なものは無かった。
4月8日、ロシアと清国は満州問題に関して満州還付条約を締結した。
1年半以内にロシア軍隊は三期に分けて撤兵するというもので、第一期の撤兵はその年の10月に完了した。
これを待って、日本は満州進出を企んで清国に日清通商航海条約改訂の交渉を申し出た。
満州におけるロシアの独占的権益は望ましくないとして、他国への開放を求めたのだ。
清国も、ロシアの植民地化を恐れてこれを受け同調した。
しかし、ロシア撤退後に日本やイギリスが入るのは明白で、それによって権益が侵害されることに国内世論は反対した。
案の定、満州還付条約締結1年後の1903(明治36)年4月8日までに、第二期撤兵は行われなかった。
逆に、4月18日にロシアは清国に新たな要求を突きつけた。
その要求は撤兵は従来通り行うが、その他の満州における占領中の独占的権益は、撤兵後も実質的にロシアに帰属することを確認するものであった。
当然日本はイギリスとアメリカとともにこれに対しても強硬に抗議をし、清国にはこの要求を拒絶させた。

さらに5月、満州と韓国国境を流れる鴨緑江の韓国側に工事と称してロシア人が入り込んだ。
これはロシア人が権利を持つ鴨緑江韓国側沿岸地域の森林事業の一環であると説明されていたが、森林会社の社員は偽装したロシアの軍人であった。
この鴨緑江進出事件は満州への日本の進出を防止するためとも取れたが、日本は韓国へのロシアの進入であると捉えた。
撤兵不履行に引き続いてこの事件により、日本はロシアとの戦争を決意した。

◇開戦準備◇

戦争を決意するからには、もちろん勝利することが前提である。
軍事的に見て、極東ロシア軍だけみれば日本はようやく2倍に達する戦力を有してはいた。しかしロシアの軍事力は陸軍だけ見ても日本の6倍に匹敵した。
しかも、それに加えてシベリア鉄道が1906年に完成すると、それを利用して容易に兵器や兵力を補充でき、とても相手になるものではなかった。
戦略としてはシベリア鉄道完成以前に開戦し、先制攻撃をもって極東ロシア軍を撃破して停戦に持ち込むことが精一杯であり、それも動員が鈍くなる冬季に開戦することが必要だった。
兵力動員以上に、日本は情報収集に躍起になった。
兵力に限界があるとともに、これだけの格差が生じると、勝利を得るには正確にロシアの動きなどを計る必要があった。
これには駐露公使館付武官明石元二郎大佐(後の台湾総督)を始めとする在外武官や、情報部の福島安正少将(単騎シベリア横断を成し遂げ国際的に勇名を馳せた)などによる努力もさることながら、同盟国であるイギリスの世界的ネットワークを持つ情報収集能力に寄るところが大きかった。
それでも、戦争の前途は思わしくなかった。
軍事費の調達や停戦調停(国家としてはまだ世界的に見てランクが低いため、対等な交渉には不都合な点が多かった。双方に置かれているのが大使館ではなく公使館であるのはそのためである)は外国に頼らざるを得なかった。
軍事費ではイギリスとアメリカの外債を、調停ではアメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトを頼ることとなった。
無論双方とも満州の権益を得るためであり、そのため日本は満州の各国への開放をアピールしていた。
こうした政府や軍の心配をよそに、国内世論はロシアとの戦争を駆り立て、後押しをした。
その意気込みは軍事的な現実を超越(無視)した過熱ぶりで、東京帝国大学の教授らによる七博士意見書を始めとして、各新聞にも強硬論が蔓延した。
三国干渉の臥薪嘗胆以来のロシアに対する鬱積が爆発したのだ。

こうした中、日本は8月3日にロシアに対して満州と韓国に関する協定の草案を送った。
満州におけるロシアの権益を認める代わりに、韓国での日本の権益を認めるよう求めた満韓交換論である。
これに対するロシア側の対案は10月3日、小村外相に届けられ、6日よりローゼン駐日公使との間で交渉が始まった。
しかしロシア側は韓国への日本の軍事進出を認めないばかりか、満州における権益はロシア側が独占するというものだった。
当然の事ながら交渉は難航し、互いの主張ばかりで平行線をたどった。
それでも、交渉は続けられた。日本政府も、そして軍部も、ロシアとの戦争は出来るだけ回避したいというのが本音であった。
10月30日、小村外相はロシアの朝鮮海峡の自由航行を認めるなどの譲歩をした修正案を手渡した。
これに対し12月11日、ロシアは韓国における日本の軍事的な権利は認められないと回答した。

交渉がほぼ決裂状態になり、日本は具体的な戦争準備に入った。
作戦上、満州での決戦では韓国での軍隊の通過や展開、港湾の使用などが絶対必要であった。
陸軍は韓国の兵站基地化がロシアとの戦争では必要であるとし、山県有朋はロシアとの開戦以前に武力で一気に占領してしまいたいと考えていた。
無論皇帝高宗の意を受けて、保護占領(ロシアの南下を防ぐために韓国に日本軍が進駐する)という形であれば大義名分も立つ。
しかし、皇帝はもちろん韓国政府も親露派で、不可能な希望だった。
また山本権兵衛海軍大臣は、韓国占領を強行すればロシアの参戦を促すのは必至で、準備不足の今はその危険を冒すことは出来ないとして反対した。
これに大山巌参謀総長が同調し、山県の強硬案は退けられた。
この他、国内政情が不安定な清国は、味方にするよりも中立を守らせることとした。
戦争状態になったことで国内が更に争乱状態となり、列強の干渉や権益争い(租借地などを巡る分割競争)が起きて日本の取り分が失われることを恐れたためである。

1904(明治37)年1月、交渉は続けられていたが何ら進展が見られず、ついに2月4日の御前会議においてロシアとの国交断絶が決定された。
6日早朝、東郷平八郎大将率いる連合艦隊は佐世保を出港し、ロシア太平洋艦隊が立て籠もる旅順へ向かった。
同日、日本政府はロシアに国交断絶を通告した。

第一章(9)へ続く

 


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