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「努力とは」

 努力とは何であろうか。努力とは努力することであり、何らかの行動に関わるものであるのは確かであろう。そしてそれは、勉強する・運動する・創作する・作業するなどというような具体的な行動を表わすのではなく、そのような行動の何らかの仕方を表わすものであろう。つまりその(何気ない)普通の行動に対して何らかの方向での違いとして捉えられるものということであろう。

 では、その違いとは何であろうか。一般的に努力とは、諦めずに一生懸命頑張ることのような意味で捉えられるのではないだろうか。つまりそれは、その行動に対して何らかの抵抗(行動しにくさ)のようなものがあることを前提としているということであろう。そして、その抵抗に逆らってなお行動していることを捉えて努力していると言われるのであろう。例えば、遊びや趣味などをどれだけ頑張っても、必ずしもそれが努力と言われないのは、その行動に抵抗があるとは判断されない為ではないだろうか。

 また遊びや趣味などの場合、必ずしも努力と言われないということは、努力と言われ得る可能性のある行動というものにも限定があるということであろう。では、努力となり得る行動とはどのようなものであろうか。それは、その行動自体が何らかの正の評価を受けている場合に限り、それを何らかの抵抗に逆らって行ったときにそれが努力になり得ると言えるのではないだろうか。つまり、遊びや趣味などは一般的に必ずしもそのような評価を受けていないということであろう。

 ただし、行動の主体にとっては、遊びや趣味なども当然正の評価を持つ行動であろう。そうだとすれば、それを評価するのは行動の主体以外ということになるであろう。つまり、努力ということには、他者あるいは一般的な評価というようなものが入り込まざるを得ないということであろう。


 そして次に問題になるのが、努力が何らかの抵抗を前提とするということは、その抵抗とは何かということと、その抵抗は何にとっての抵抗かということであろう。

 ではまず、努力と言った場合のその行動に対する抵抗とは何であろうか。実際的に行動を規制するのは様々な環境もあるであろう。しかし、努力といった場合は、環境による必然的な制約があるという状況自体が問題なのではなく、その困難な状況に対しての精神的な抵抗(例えばきついとかいう不快感)を乗り越えて行動する(し続ける)ということを意味するのではないだろうか。

 例えば、環境が完全にその行動を規定してしまうような状況では、それは必然的行動であって努力のしようがないであろう。つまり努力するということは、行動の選択の余地が存在するという前提の中で、行動の主体がそれをしよう(し続けよう)という意志を持つ(持ち続ける)ことによって、その行動を選択する(し続ける)ことができるかどうかという精神的な抵抗が問題となるのであろう。そしてそれは、この抵抗の尺度は客観的なものではなく、主観的なものであろうということである。

 また、その抵抗は何にとっての抵抗なのか、つまりそれを抵抗と判断する主体は何かという問題はどうであろうか。当然、本来これはその行動をする主体ということであろう。しかし、努力というのは自分の行動に対する評価というよりも、通常は他人の行動に向けられる評価であることの方が多いのではないだろうか。

 またそれよりも、先ほど述べたように努力かどうかの評価を受ける行動自体が、努力と判断するに足りるものかどうかを判断するのが行動の主体ではなく、他者あるいは一般の評価であるということになるのであるなら、努力は主体以外の評価を問題にせざるを得ないことになるであろう。

 だが、他人の行動をそれが努力かどうか判断する場合、行動の主体が感じる抵抗と判断する他者の感じる抵抗が同じものであり得るのかという問題が起こるのではないだろうか。また、この他者の抵抗に対する判断が、個人の評価であるのか一般的な評価であるのかという問題もあるであろう。

 この評価が個人のものであれば、他者が抵抗として評価したものに対抗してなされた行動を努力と判断しているだけであり、その行動の主体がそれを抵抗として感じているかどうかには必ずしも関係ないであろう。つまり、この場合は行動の主体からすれば、他人の一方的な(勝手な)評価でしかないということであろう。

 また、これが一般的な評価であった場合はどうであろうか。もし、その行動に対する絶対的な抵抗というものがあるとすれば、行動の主体にとっての抵抗(努力)と他者のそれは同じものになるかもしれない。しかし、努力というときの抵抗を主観的(精神的)なものとすると、そのような絶対的な抵抗というのを想定するのは難しいように思える。もし、そのように考えるなら、個人による評価の場合と同じように、それは行動の主体とは必ずしも関係のない評価ということになるであろう。

 また、この一般的評価がその行動の主体の属する集団における一般的な評価(例えば、社会通念や常識と言われるようなものなど)であるならば、その主体もそのような評価に影響を受けている可能性は大きいが、この場合もそれらの評価が必ずしも全く同じとは言えないであろう。

 では、行動の主体にとっての努力とは何であろうか。それは当然客観的抵抗ではなく、主観的な抵抗に対抗するものであり、つまりそれは他人の評価としての努力とは本来関係ないものであろう。では、主体にとっての抵抗とはどのように捉えられるのであろうか。


 行動するということは、その行動を喚起させる動因としての目的(意志)という促進力があるということであろう。そして同時にその行動を阻害する抵抗(これは外界からのものと、その主体の内界からのものが考えられるだろう)があるのが普通であろう。そして、それらの葛藤の結果として何らかの行動が行なわれるのであろう。

 このとき、結果的に初期の目的が抵抗になり、初期の抵抗が目的になること(一般的に消極的選択「仕方なく〜する」と言われるようなこと)もあるであろう。しかし、実際に行動が行なわれたということは、結果的になされたその行動を促進する動因(意志)が選択されたということであり、抵抗は常に(結果的に)乗り越えられたものであるということになるのではないだろうか。もしそれを努力というのであれば、主体にとって自己の全ての(正の評価をした)行動は常に努力ということになってしまうかもしれない。つまり、どのような行動の選択もその行動の主体にとっては、常に「〜したい」ことなのであり、このとき努力という評価は必ずしも意味を持たないのではないだろうか。(他人に努力しているように思われたいという場合は別であろうが。)

 このように行動の主体にとって問題なのは、その行動に対する抵抗ではなく促進力としての目的(意志)であり、それが何処にあるのか、あるいはそれを何処に想定するかという選択なのではないだろうか。そして行動の主体にとっては、その目的をどのような方法で達成するかということが問題であり、それが努力であるかどうかということが問題なのではないのではないだろうか。


 また、行動ということについて考えたとき、その行動決定において問題となるのは、上述のように目的(意志)であるとすると、つまり行動決定とは意志決定であるとすると、その目的(意志)の達成・未達成としての行動の結果というものに当然関心が寄せられるであろう。だがこのとき、もしその目的をある一定方向の評価に対する優劣(二元的評価)に求めるのであれば、結果としては必ず勝者(成功)と敗者(失敗)が生じることだけは確かであろう。そして、その結果の原因を何に(例えば努力や才能や運などに)見出すにしても、また自分が結果的に勝者になるにしても敗者になるにしても、そのことは自覚しておく必要があるのではないだろうか。

 それは、行動において二元的評価(優劣)を求めたとき、結果というのが完全に予測不可能だ(あるいは思い通りにならない)とすると、常に自分が敗者になる可能性を(もちろん勝者になる可能性も)秘めているということである。だが、逆にもし完全に予測が可能だとすれば、完全に決定論的世界であるということであり(「(自由)意志とは」でも述べたように)主体の意志は存在しないということになってしまうであろう。つまり、世界が予測不可能(あるいは思い通りにならない)からこそ自由意志や世界が意味を持ち得るのであると言えるのではないだろうか。

 またこのことは、勝者(成功)は常に敗者(失敗)の存在によって始めて勝者(成功)になり得ているとも言えるであろう。つまり、敗者がいるからこそ勝者いうものが生まれるのであり、失敗の可能性があるからこそ成功ということに意味があるのであろうということである。

 その為、もしそれ(二元的価値)を求めるのであれば、例えばより多くの評価(価値)を見出すことができること、あるいはより多くの評価(価値)を認め得ることなどが、自分にとっても他者にとっても利益になることであるかもしれない。(もちろん全ての評価を否定する、あるいは求めないというのもひとつの理想かもしれない。ただ、この方向は意志というものも否定する方向ではあるだろう。)また、必ずしもそのような評価だけに囚われないこと、あるいは常に新たな目標を喚起し続けるような目標の設定ということもひとつの道であるのかもしれない。


 つまり、努力とは他者に対する評価、あるいは他者から自分に対する評価として(あるいは客観的に自分を捉えたときの自分に対する評価として)意味を持つのであろう。それはその評価者にとっては、できないあるいはできにくいことができる能力という意味で、行動における意志の強さなどとして結果的に評価されるもののひとつでしかないのではないだろうか。

2001/9/1

<*この文章に対するご意見が「私の意見に対するご意見」のコーナーにあります。>

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