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「幸せとは」

 幸せとはどのようなことであろうか。幸せとはそれが感じることであるにせよ、感じていることであるにせよ、我々の意識において問題とされることは確かではないだろうか。それは、それが客観的に存在しているにしても主観においてのみ存在するにしても、主観において意識されることによってのみその存在に焦点が当たり得るのではないかということである。つまり、それは主観的、言い換えれば精神的な問題であろうということである。

 それは、全ての主観において捉えられ得る対象において共通の問題であるかもしれない。しかし、このことは幸せにおいてより重要な問題であるように思える。なぜなら、例え幸せが客観的に存在しているとしても、それが幸せという方向で何者かに影響を与えないとするなら、どのような主体にとってもそれは幸せではあり得ないのではないかということである。

 例えば、ある石の存在はどのような方向性であっても、何らかの主体によって何らかの影響を与えられたと意識されれば、その存在は肯定され得るであろう。より具体的には、その石が移動を阻むものとしてであろうと、何らかの道具に使用できるものとしてであろうと、また間接的にその存在によって何らかの影響の原因の一部としてであろうと、それが意識されるとすればその存在はその主体にとって肯定され得るであろう。

 しかし、幸せということは、あくまで幸せというある限定的な方向性での影響を受けた主体の存在(その主体が自己であるにしても、他者であるにしても)を肯定できなければ、それは幸せとして意識されないであろうということである。例えば、自己が幸せから直接影響を与えられないとしても、他者が幸せから幸せという方向で影響を受けたと意識されれば、それは幸せであり得るだろう。逆にそうでなければそれは幸せではないということである。

 更に、幸せとはそれを直接感じる主体にとって何らかのプラスの影響を感じているということは確かであろう。例えば、日本語における「しあわせ(仕合わせ)」とは、めぐり合わせであり、この中で<良い>めぐり合わせが「幸せ」として区分されているということであろう。

 このように、幸せとはある主体にとってプラスのある方向性での影響の意識であり、言い換えればそれはプラスの価値、あるいはそのような価値観で眺めたとき基準よりプラスである状態ということではないだろうか。



 では、このときのプラスの価値を生み出す価値観とはどこから来るのであろうか。価値観とは、精神においてある評価の方向性を生み出すことであり、それはある目的指向性が精神に内在しているということであり、それは何によって引き起こされるのかという疑問である。

 このとき、精神において我々にプラス・マイナスという対極の評価の指針になり得るのは、その根源において快・不快という感覚・感情のみなのではないだろうか。なぜなら、それらは思考の結果などで示されるような二次的評価ではなく、意識に現れる一時的な評価だからである。

 つまり、幸せとは快を指針として評価される価値およびその快状態ということではないだろうか。しかし、一般的に我々は幸せと快を全く同じこととして解釈している訳ではないようにも思える。それは、必ずしも幸せが部分的な快を感じることではなく、より満たされた状態であると一般的に解釈されているように思えるからである。では、それはどのような状態ということであろうか。

 また、幸せ(あるいは快)は指向性であると同時に、指向されることでもあるだろう。それでは、幸せは指向性の向かう先としての目的であるのだろうか。それとも、それは指針としての指向性であり、目的は他にあると言えるのであろうか。それは、例えば我々は幸せになる為に生きているなどと言われることがあるが、そのような解釈の妥当性はあるのだろうかという疑問でもある。



 先ず、前述のように幸せが価値であるとするなら、価値の持つ特徴について考えてみる。それは、私の意見の「価値とは」でも述べたように、絶対性を捉えることの不可能性と基準の必要性ではないだろうか。言い換えれば、価値とは相対的であるということである。もしそうであるとするなら、絶対的な幸せや最高の幸せなどということは語り得ないということになるだろう。

 ただ、このことは逆に言えば幸せは永遠に求め続け得ることであるともいえるのではないだろうか。それは、幸せに行き着くところ(としての絶対性)は無いということである。しかし、だからといって、常に幸せでいることができるであろうか。

 例えば、全てのことが想い通りになる世界を想像してみよう。もちろん、最初のうちは幸せと感じるだろう。しかし、最初から想い通りになることが判っていたら、それが当たり前のことになってしまいすぐにつまらなくなるのではないだろうか。また、最初は自分の想い通りになることを知らなかったとしても、そのような体験を通じて、当然すぐにそのことに気づいてしまうであろう。それでも幸せでいたければ、そのことに気づくような判断力を、無くしてしまわなくければならないことになる。しかし、自分自身で判断することを奪われた状態で、ただ幸福感だけを感じていることに意味があると言えるのだろうか。

 このとき、それ以上に問題なのは、常に幸せである為には常に新たな幸せという指向性を創造しなければならないということではないだろうか。それは、快は永続しないという経験によるものである。その為、常に現状の認識のどこかに(それが自己にあるか、他者にあるかはともかく)不幸を創造することによってのみ、幸せであり続けられる可能性があるのではないだろうか。

 もしこのように捉えるのであれば、幸せとは叶うこと、得られることだけでなく、叶わないこと、得られないことを含んで初めて成立するものであろう。それでも幸せを求め続けようとするなら、自己の現状を不幸と捉えることによって更なる幸せを求め続けるか、常に不幸な他者を作り続けなければならないのではないだろうか。つまり幸せとは何らかの不幸を前提とせざるを得ないのではないかということである。



 そしてこのことは、幸せは快だけによることではないということを示しているのではないだろうか。それはつまり、幸せは快と不快を含むことであり、不幸とのバランスの問題だということである。言い換えれば、幸せとはそのバランスが幸せの方向に傾いているか、不幸の方向に傾いているかという評価の問題でしかないのではないだろうか。そして、これが前述の幸せは単なる部分的快状態ではなく、満たされているという意識ということにつながるのではないだろうか。それは、意識全体として幸せであるということである。

 またこのことは、幸せは不幸を、そして快は不快を前提とするのであり、我々は幸せや快のみを求める為に生きているとは必ずしもいえないのではないということではないだろうか。我々にとって問題なのは、そのようなひとつの指向性の為に生きるのではなく、複数の指向性をどのように統合し、意志決定し行為するのかということだともいえるのではないだろうか。

 なぜなら、指向性とは方向性の指針を示すだけだということである。逆に、もしそれが行動を完全に決定してしまうとすれば、幸・不幸また快・不快によって縛られているだけということであり、それを我々は無駄に感じているということになるのではないだろうか。そして、それは意識ということの存在意義は否定されることであり、能動性としての生が否定されることになるであろう。

 つまり、我々はその主観において、幸せや快の為に生きるのではなく、それらの指向性によって目的を創造し続けることによって、その為に生きることができるのであり、逆に言えば、それが主観における生であるのではないかということである。

2005/4/30

2005/4/30

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