旧大司教館
長崎コレジオの三階の窓から 15名の新入生

 2001年4月、小神学校等から長崎コレジオに15名が入学した。急遽倉庫として使用していた三階を改造して神学生の勉強部屋と寝室になった。
 天窓と思える高いところに錆びついた窓があり脚立を使って登ると素晴らしい長崎の景観を垣間見ることができる。
 稲佐山、長崎港、海星学園、活水大学、当然大浦天主堂、大浦教会は目の前にある。
旧大司教館
大司教館
(三段目の写真)


〒850−0931
長崎市南山手5−3


大浦天主堂の隣


 文久3年(1863)長崎へ来た最初のパリ外国宣教会のフューレ師によって、大浦天主堂の建立に先立ち、同年7月木造二階建の最初の司祭館が建築された。
 慶応元年(1865)3月17日には、落成したばかりの大浦天王堂で、歴史文久3年(1863)長崎へ来た最初のパリ外国宣教会のフューレ師によって、大浦天主堂の建立に先立ち、同年7月木造二階建の最初の司祭館が建築された。
 慶応元年(1865)3月17日には、落成したばかりの大浦天王堂で、歴史的なプチジャン師とキリシタンとの出会いがあった。
同年12月、この司祭館の屋根裏に秘密の神学校を開設『無原罪の御孕りの間』と名付け、浦上出身の高木源太郎ら三名が最初の神学生として入学した

 その後5年間に27名の神学生と石版見習工5名がここで学びプチジャン、ローカニュー、クザン、ポアリエなどの各師が教育に当った。
 慶応3年(1867)7月浦上四番崩れが始まり、10名の神学生はマレー半島のピナンに、13名の神学生は上海に避難した。熱病のため尊い神学生の生命が現地で失われ、明治5年(1872)神学生たちは横浜に引き揚げ勉学を続けた。 
これらの神学生のうち、明治15年(1882)プチジャン司教の手によって深掘達右衛門、高木源太郎、有安浪倉の 3人の司祭がキリシタン復活後の最初の司祭として叙階された。 いずれもこの司祭館神学校で学んだ生徒である。
 慶応4年(1868)長崎についた同会のド・ロ師は、この司祭館に最初の仕事場である印刷所を置いた。
この印刷所は明治8年(1875)神学校が建設されて、そこに移転するまで置かれていて、日本最初の石版印刷教会暦や最初の冊子本として聖務日課が発行された。
 その後プチジャン版と呼ばれる宗教書が次々と出された。 現在の司教館は、明治44年(1911)10 月クザン司教の司教銀祝の記念事業として、建築後50年を経過して老朽していたため改築工事が行われた。
病気療養のため出津主任司祭のまま大浦に移ったド・ロ師は司祭館の改築を自分の最後の仕事として設計・監督を自ら引き受け、工事には鉄川与助があたった。
 ド・ロ師はこの建築費の殆どを自費で賄った。ド・ロ師は大正3年(1914)11月6日、完成間近な建築現場で足場から転落、それがもとでかねてからの持病が悪化し、翌7日74歳で帰天した。
 慶応2年(1866)プチジャン司教からフランス人司教四代、早坂久之助司教、山口愛次郎大司教、里脇浅次郎枢機卿の日本人司教がここに住まっていた。
 現在は、長崎コレジオとして98年から神学生が四年間をここで過ごして大神学校へ行く。百年以上前、司祭館神学校としてキリシタン復活後の最初の司祭を生み出したこの地で新たな歴史を刻もうとしている。 

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