大山教会  絶えざる御助けの聖母
大山聖堂
山奥の教会が見えたときは、声が詰まるほど感動しました。
住 所
〒850−0964
長崎市大山町566−1
рO95−878−4093
交 通
長崎バス 戸町バイパス 大山入口下車 徒歩45分 車10分
主日ミサ
土19:30 日8:30
司 祭
ヨゼフ  三村誠一師
沿 革

大山カトリック教会のはじまり

 大山にキリシタン信徒が住み着いたのはいまからおよそ百四、五十年前と思われる。弘化年間(1844〜1847)黒崎村永田から十戸ほどが移住してきたと伝えられる。この一族が大山に辿り着くまでにはかなりの困難があったようだ。
 当時はキリシタン禁制下にあって、分けても大村藩はきびしく、そのうえ財政的にも貧しかったので、藩では一子をのぞき、いわゆる間引き制度が強制されていた。
 間引きはキリシタンの教えに背く大罪である。信徒たちは生まれた子供を籍にいれることもできず、法治外で育てなければならなかった。
そうした折、五島移住の要請があって、そこへいけば土地は充分にあり、信仰も自由とあって外海のキリシタンたちは喜んでこれに応じた。

 『五島へ 五島へとみな行きたがる 五島はやさしや土地までも』そんな唄まで流行った。寛政九年(1797)のころである。 その後、五島だけでなく、比較的禁制がおだやかだった佐賀藩、つまり長崎近郊の伊王島、陰の尾、木場、木鉢あたりまでキリシタン移住がはじまった。
 大山のキリシタンたちもそれに倣ったのであったが、時期がおそく、かれらが思いたったときは適当な土地が見つからず、やむなく沖ノ島や善長谷の先人たちを頼って行ったが土地が狭い事と、これ以上キリシタンが集まると危険との理由でいずれも断られた。
 こうして、一族はあてどない旅をつづけるのであったが、ようやくにして大山に辿りつくことができた。 一族のリーダー的存在であった市兵衛は信仰の指導者水方でもあった。
 カナアンの地を求めてさ迷ったイスラエルの民にも似た放浪のすえに辿り着いたキリシタンたちは信仰の上では楽園であったが、現実の生活は厳しく、夜露をしのぐ粗末な藁葺ぶきの中で全家族が寝起きを共にしながら荒れた野山を開墾し、生活の基盤を少しずつ広げる苦難の道行であった。
 1847年頃と言えば、浦上の杉本ゆり等による『神父発見』の数年前である。時を同じくして、神の島の惣吉、政吉兄弟が大浦天主堂のプチジャン神父がローマより遣わされたまぎれもないパーデルであるこを確認した年でもある。
惣吉兄弟の活躍で外海地方には逸早く『神父発見』の朗報がもたされ、五島各地からも船出をして、当時フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂詣でが役人の目を秘して行われていた。 そうした歴史的状況のなかでの移住であった。当然、彼等もそのことは知っていたはずであり、パーデルとの出会いを心待ちしていたに違いない。
 フランス寺のパーデルがローマから遭わされた本物のパーデルであることを一番最初に知らせてくれたのは神の島の政吉であった。当時、市兵衛についで水方をしていた栄八は三蔵を伴い早速プチジャン神父を訪ね、自分たち一族もキリシタンであることを表白した。
 かくして、大山のキリシタンたちは宣教師たちによって要理を学び、洗礼を新たにして益々信仰を深めていった。わけても三蔵は『大山の三蔵か、三蔵の大山か』と言われるほどに信仰篤く、世事にもたけた模範的人物であったという。

大山のキリシタン迫害

 1868年(明治元年)『浦上四番崩れ』から始まるキリシタン迫害は全県のキリシタンにも及び、わけても五島久賀島は同年の秋には多くの信徒が捕らえられ、牢屋の牢として知られる僅か六坪はどの牢に二百人もの信者をつめこみ、老若男女乳呑み児に至るまで拷問のすえ死に至らしめた歴史が語るように、その火の手は奥浦、水の浦にまで広がり、奥浦の伊三郎などは牢を抜け出し、島伝いに大浦まで辿り着き、のちに大山で伝導師として活躍したと五島キリシタン史に記されている。
 間もなく大山にも迫害の手がのびてきた。伊王島、陰の尾、高島、大山の頭目とみなされたキリシタン六十七名は捕らえられて佐賀藩流罪となったのである。
 その頃の資料によると大山には戸数12のうち白2戸、黒10戸とある。黒とはキリシタンを意味し、侮蔑別称であった。 大山で流罪の呼び出しを受けたのは、三蔵、兼造、半太、与右衛門の四人であったが、その日、三蔵たちは外海地方に豚を買い入れに出掛けたあとだったので、その代わりに大山作太郎、同寅次郎、久次郎、伊五郎が捕らえられた。
 一行67名は役人の手によって逮捕され、深掘役所に連行された。そこで執拗に棄教を迫られたが、250年の間一人のパーデルもいない中で、堅く守り続けた信仰は微動だにせず、『信仰を棄てるくらいなら初めからこんな山奥にまできて、難儀することはなかった』と作太郎などは何ら臆することなく言い放った。
 明治4年11月7日、その日の朝は小雪の舞う荒れ模様で、沖は白波がたっていた。彼等は戸町沖に停泊していた伝習丸に乗せられ出港したものの波が高く航行不能となって止むなく引き返し、翌朝、野母崎を経て島原半島をまわって有明海にはいり、肥前の国大川に上陸した。
 一行は縄こそ掛けられなかったが牛馬のように棒で追い立てられ、街中引き回しのうえ牢にいれられた。入牢のさいは、全員裸にされ、衣類の縫い目から、帯の芯まで改められ、大浦のパーデル様に頂いた命より大事なコンクツ、メダイなども勿論取り上げられた。
 住まいは長屋を一坪ぐらいに仕切った四つの小部屋が当てがわれ、一部屋に10人、布団は一枚しかなかったので四方から足だけ差し入れて寒さを耐えたという。
 食事は一応三食だったが、玄米飯を小皿一杯と決められていた。労役についたかどうかはさだかではないが、それにしても空腹にさらされた毎日であった。しかし、同じ流罪でも浦上のキリシタンたちのなかには所によっては牛小屋に蓬を敷いただけの牢に入れられ、昼間は開墾の重労働を課せられたうえに、食事といえば麦つぶが数えるほどしか入っていない水粥を一日どんぶり一杯という苛酷を強いられた岡山の鶴島のような所のことを思えば軽微であったことは確かであった。そのうえ牢中にあって役人から一応の棄教説得はあったが、それに応じないからといって、五島あたりのように拷問にかけられるというようなこともなかった。
 一行の一人、大明寺の信徒が『宗門の習慣によって一緒にオラショを称えてもよいか』、と許しを求めたのに対し、役人は『よし、よし、勝手にするがよい』など他所では考えられない寛大なものであったようだ。 しかし、そんなことを知るよしもない当時の大山キリシタンたちにとっては殉教覚悟の迫害として受け止め、熱いオラショを捧げることによってその信仰を益々固めたのだった。
 一方、留守宅の大山の家族たちは、自分たちも浦上の人たちのように、何れ呼び出されて村全体流罪になる、と覚悟を決め、何時呼び出されても出で立ちが出来るように家財一切を始末して待っていた、というのですから、その覚悟の程が想像される。

大山のキリシタン復活

 大山を始めとするこれら67名の深掘領のキリシタン流罪は彼等が『殉教も辞せず』との覚悟で旅だったものの、わずか46日で釈放と聞かされ、パライソへの夢が絶たれた思いと、家族のもとへ帰れる喜びとで複雑な気持ちであった。
 当時、この流罪は『深掘領キリシタン佐賀送り』事件として内外に大きな波紋を起こしたのだった。というのは、その頃、浦上信者三千数百人が流罪中で人道問題として外国公使団の抗議をうけ、明治政府にとって内政外交上の大問題になっていたころにこの事件が起こったため、すぐ長崎の外字新聞に報道されて横浜、さらに上海、欧米の新聞に載ってしまったのである。しかも、この67名の信者が捕らえられてから四日後の12月22日には条約改正の瀬踏みとして欧米諸国に派遣される岩倉具視全権大使一行が横浜を出航してアメリカに向かっていた。
アメリカで岩倉大使はこの事件を知り、同行していた駐日公使デ・ロングから注意をうながされた。 明治政府はこの事件が外字新聞に出たので驚いて急遽佐賀県にキリシタン釈放令を出したのだった。
 わずか四十五日、改心は誰もしていないのに『改心のしるしが見えたから』と虚偽の口実を作って釈放したのはそのためである。このことはキリシタン信者にとって信仰上の大きな侮辱であり、後世史家たちのため特筆すべきことだと思う。この事件がきっかけとなって浦上総流罪の信者たちにも釈放の抗議がヨーロッパ各国より訴えられ、政府は遂に明治6年2月21日、禁制の高札は撤去され、250年に及ぶ迫害の嵐は終わったのである。
 これは、大山キリシタンにとって、信仰のために安住の地を求めて苦しい旅を続けたイスラエルの民と同じく神の恵みとして約束されたカナアンの地であった。 こうして大山の信者たちは誰一人棄教することもなく信仰を守り通し、晴れて村に帰還することができた。これからは誰憚ることなく大きな声でオラショもできミサに与かることもできる。それまで信者たちは日曜日のミサに与かるため、出来るだけ人目につかないように夜更けの暗い山道をわざわざ遠回りして野母崎の尾根を越えて大浦まで行っていた。
  この事件以来大山の信者たちは益々信仰を深め、組織を強化して徐々に小教区を形成していった。
 その頃、浦上、神の島、伊王島の近隣教会では逸早く教会堂が建ち、それを見聞きするたびに自分たちも早く建てたいという願いは日増しに強くなった。

  大山小教区史・150年のあゆみ より