迫害の原因  
 五島で迫害の原因となったのは役人でなく,信者側の強い信念からであった。
 それまで幕府はキリシタン撲滅の一手段として宗門寺法を定め,子供が生まれると宗門帳に記入させ死ねば僧を招きお経をあげ『キリシタンにあらず』の証明がなければ葬式も許されなかった。
 また年に何回かお寺に参り・僧にお布施をし,神棚を設け・仏壇を備え,香,花を供えなければならなかった。
 魂の救いを求めた信者達は,それらの制度への服従を拒否し,進んで役人に申しいで,神棚や仏壇を捨て,自分達の信仰を公表しようとした。これが発端となって,明治元年迫害が始まる。

 五島での拷問の方法
1.算木責
 三角に削った木を三木並べ,その上に衣服を脱がせ正座させ,大石(二人で持ち上げうる位 を二個膝の上に重ねる。責め役人がさらに石をゆすぶって苦しめる。

2. 火責め
 真っ赤に焼けた木炭を掌にのせ・火吹き竹でプープと吹く。火は掌の上にて燃える。

3. 晒し責め
 裸にして縛りつけたり,吹雪の夜裸のまま丘の上に立たされる。

4. 押から責め
 算木責めの一種で,算木の上に膝を立てさせ,石を積み腿と脚との間に棒をさし入れて前後 に押し動かして苦痛を与える。

5.水責め
 口に木を突きさすか・漏斗を差し入れるかしておいて,水をどしどし注ぎ込む。腹一杯になる と・仰向けにして腹に板をのせその水を押し出し,それからまた水を注ぎ込む。

6.竹責め
 まわりが3,4寸,長さ1m50cmぐらいの青竹で力任せにたたく。3,4回たたくと割れて しまう。

7.十手責め
 耳,口等に十手を押し込む。鉄の十手で打ちたたく。

久賀島・牢屋の窄の殉教

      久賀島の迫害(牢屋の窄殉教地…五島崩れの発端の地)
  1868年(明治元年)11月12日,23人のキリシタンが捕らえ られ,福江の城下の牢に入れられ拷問にかけられる。
 その後,全島のキリシタン老若男女,幼児まで,200人近 い信者が捕らえられ,前の23人と共に松ケ原の牢に閉じ込 められ,呵責,算木責,火責,晒し責,押から責,氷責,水責, 竹責,十手責などといった方法で拷問にかけられた。
 特に厳しい拷問を受けたのは,30歳の豊蔵と35歳の惣五 郎だった。豊蔵は呵責,算木責,晒し責,押から責,竹責,十 手責と6種類の拷問にかけられる。(惣五郎については別 記)
 牢の広さは桁行3間,梁間2間の6坪(たたみ12枚)のバ ラック,中央を厚い板で仕切り,男牢と女牢に分け,ぴった りと戸を閉めきった言語に絶する狭いものであった。たた み一枚の広さに何と15人の者を入れていたことになる。多 くは人の体にせり上げられて足は地につかず,さらに身動 きすらできない状態であった。
 食べ物も小さなさっま芋を朝に一切れ,晩に一切れ支給 するのみで,子供を抱えた母親はそれすら自分の口に入ら ず飢えを叫ぶ子供の手に奪われる。そのような状況の中, 老人,子供は飢えと寒さの為次から次と倒れた。
 最初に死んだのは79歳のパウロ助市だった。その死骸は すぐ葬ることも許されず,5昼夜も牢内に棄て置かれ,大 勢に押し潰され殆ど平たくなってしまった。
 牢内にはトイレもなく,その不潔さとにおいは例えよう もないほどひどいものだった。やがて蛆虫が湧き,土間全 体に広がり着物を伝って這い上がり,噛まれた者も少なく はなかった。特に13歳のドミニカたせは蛆に下腹を噛み破 られ死亡した。
 牢内に囚われること8ケ月,一般信者はすぐ解放された が,指導的立場の信者が解放されたのは,それから2年余 後だった。その間牢内で死亡した者39人,出牢後死亡した 者4人を数えた。
  1969(昭和44)年,九州電力発電所の建物を利用し,殉教 者顕彰のための聖堂が創設された。その後1984(昭和59)年 記念聖堂が建立され,牢跡には殉教記念碑が建てられてい る。

常八(小頭要助の子,9歳)の拷問

 常八,わずか9歳(現在なら小学4年生)の子を捕らえ,小頭の子ということから見せしめのため厳し く責めたてられた。
 先ず着物は剥ぎ取られ裸にされ,荒縄で後ろ手に固く縛られ海の中に突き込まれた。役人は岸に立ち 「沖へ,もっと沖へ」と大声で命令する。胸の沈む所で立ち止まると,またも大声で「まだ先だ,まだ先へ 行くのだ」と叫ぶ。命令されるまま先へ先へと進み,ついに首の隠れるところまで行く。それでも「引き 返せ」の許しは出ない。逆に「まだ先へ,先へ」の命令。
 とうとう溺れてしまい,口一杯に潮水を飲んだ。両手を背中に廻して縛られているので,沈んだまま 泳ぐことも浮かぶこともできない?  まわりの者はもう溺れ死ぬだろうと思っているところへ,ようやく役人が来て,浅い所へ引き上げた。 常八は恐ろしさと寒さのため緊張していた気分が緩み「ワァッ」と泣き出した。然し役人達は他の人々 を責めるために常八には全くかかわらず,汀の水の中に棄ておかれた。その間雪は止むことなく,北風 にあおられながら降り続いた。
 
 惣五郎の拷問
 惣五郎は常八が拷問を受けた晩,日高藤一の部下,元右衛門の館に呼び出され,代官以下足軽らの前 で棄教するよう脅され,金でも土地でも必要な物は何でもやると唆されるが,「棄てませぬ」「どうされ ても棄てませぬ」「何と言われても棄てませぬ」と,役人らは終に棄教させることができずに足軽に命じ て連れ戻させた。
 翌日,信者は一人残らず代官所へ引き出された。広場の両側には,十手,青竹などを持った足軽等が控 えている。中央には三角に削った三本の木が並べてある。恐ろしい『算木責め』の道具である。
 最初に引き出されたのは惣五郎。昨日の腹いせのためだろう。
 先ず着物を剥ぎ取り算木の上に正座させ,大石を二個膝の上に重ね,さらに鉄の十手で背中から腰に かけ打ち叩いた。それでも「どうされても棄てませぬ」と。
 役人は今度は真っ赤に焼けた木炭を掌にのせ,火吹竹でプープーと吹き熾した。火は掌で燃え始めた 然し惣五郎は顔色一つ変えず耐えた。
 どうされても泰然としている惣五郎に,ますます腹を立てた役人らは終に膝の上の大石をおろし,側 に準備してあった十字架に髻(髪の毛を束ねたたぶさ)を縛り付け,口を大きく開けさせ,四斗樽二杯(一 斗〜1,81×10)に汲んであった水を両方から柄杓で流し込んだ。
 惣五郎は息もつけず,その上みるみる腹は膨れ上がり今にも張り裂けんばかりになった。それでも怯 む様子がないと見た役人は「この餓鬼や,棄てるのじゃないから引き放せっ」と言い,戸板の上に突き倒 し,腹伏せにして腹の水を力任せに押し出した。
 惣五郎は「どうされても棄てませぬ」と言った最初の『ことば』を守り通した。
福江 浦頭 浜脇 五輪 旧五輪 水の浦 牢屋の窄 三井楽 楠原 貝津 井持浦 奈留 堂崎
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