2.禁教時代(迫害と殉教)


1)禁教令発布と迫害
 1614年(慶長19年)1月31日、徳川家康は禁教令を発布、宣教師はすべて追放されることになった。
 かくて日本は250年にわたる禁教と弾圧、迫害と殉教、それに続くキリシタン潜伏の時代に入ることになったのである。

2)浦上の殉教者
 1624年(寛永元年)11月5日、長崎において、ヂエゴ小市と、朝鮮の人カイオが火刑に処せられた。
 ヂエゴは浦上生れの農夫で、奉教後ドミニコ会諸宣教師の宿主となり、現にワスケス師を宿泊せしめた理由に因って役人の縄にかかり、2ケ年前から長崎の牢獄に囚われの身となっていた。これら両囚徒は、牢内で驚くべき苦行に身を委ね、ヂエゴの如きは3ケ月間も続いて断食を行ったくらいである。
 その後、間もなく奉行はカイオとヂエゴとに火刑を宣言し、刑場への途中は固く沈黙を守るように、決して晴衣を着けないようにと厳命した。彼らの態度が威風堂々と凱旋将軍のように見えてはならぬと気遣ったからである。
 刑場では彼らは、ただ左腕だけをゆるく縛られた。長く苦しめるため薪は遠方に積んであったが、それでも両人は驚くべき勇気をもってその苦しみを堪え忍び、あっぱれな殉教を遂げた。
 時に、カイオは53才、ヂエゴは40才であった。灰は海中に捨てられた。

3)ベアトス様
 前述の殉教のほか、史料になく、口碑として伝えられ、殉教者として崇敬されてきたものに浦上のベアトス様がある。
 その墓は殉教地(橋口町)にあり、「殉教者、ジワンノ、ジワンナ、ミギル之墓」と刻まれた自然石が建てられている。
 ベアトスとは、ポルトガル語ベアトの複数で、聖人の位にあげられていないが、天国の至福をうけていると考えられる人をいう。
 ジワンノ、ジワンナ夫妻と息子ミギルの親子は、本原郷の小峰(石神町)に住む農民であった。その頃、浦上全村民がキリシタンであった。
 奉行所では、全部を処刑することは困難なので、中心人物を処刑して見せしめにすることにした。白羽の矢が立てられたのが、ジワンノ一家であった。
 陰暦9月のある日、捕手が来た時、ミギルは薪とりに出ていた。ジワンノは捕手に向って「お待ちしていました、しかしいま息子が山に出ています、帰るまでお待ち下さい。3人そろってお縄をうけましょう。」といった。
 ミギルが帰ると、3人ともしばられ、庭先の井戸で水責めをうけた。しかし信仰を守りつづけたので、中野郷の塔之尾(橋口町)で、火あぶりにされることになった。
 それを知った村民たちは家々で、火だねを消して隠れた。
 捕手は方々を捜し回った末、ようやく渕(現在の城山町)のある農家からやっと火だねをもらって火刑を執行した。
 遺骸は村民がもらい下げて殉教場所に葬った。それから二百数十年間、ここは浦上の崇敬地になっており、現在も日本全国から各巡礼団など崇敬者があとを断たない。

4)サンタ・クララ教会(聖堂

1965年(昭和40年)3月 信徒発見
 100周年記念事業の一つとしてサンタ・
 クララ教会跡に建てられた記念碑

 ペアトス様の墓と浦上川を隔てた右岸に、サンタ・クララ教会(聖堂)があった。小さな礼拝堂だったのを、1603年(慶長8年)ポルトガル人や日本人キリシタンたちの喜捨によって、りっぱな聖堂ができたのである。
 司祭1名が常駐して浦上の村民を司牧していた。1614年(慶長19年)聖堂が閉鎖され、後に破壊された。
 その後、潜伏したキリシタンたちは、毎年夏、ここに集って昔をしのんだ。公然と祈りをすることができないので、盆踊りをしながら、祈りをカムフラージしていた。
 サンタ・クララの祝日は、浦上に伝えられた、1634年(寛永11年)の教会暦(いわゆるバスチャン暦)では陰暦の7月19日、聖母被昇天祭の4日前にあたっている。盆と時期がほぼ同じであったので、サンタ・クララのお詣りを盆踊りに託して役人の目をごまかしたのである。

5)浦上キリシタンの潜伏組織
 サンタ・クララ教会(聖堂)で門番や炊事などの雑務をやっていた孫右衛門は、聖堂が破壊されてから中野郷の林(現在の如己堂のところ)に住んでいた。
 禁教がきびしくなって信者たちは逼塞してしまい、隣同志でさえ、元はキリシタンであることを知っていながら、現在信仰を守っているかを尋ねることさえ、できない状態になった。信仰のことなどおくびにも出せないようになってしまった。「これではキリシタンは絶滅してしまう」と孫右衛門は心配した。ある日、意を決して岡(現在の岡町)に住む友人の七郎左衛門を、浦上川の梁(現在の下大橋のところ)の白魚漁に誘い出した。
 梁の白魚漁は徳川時代まで上方にも知れた名物であった。
 孫右衛門はしかし、なかなか信仰のことが口に出せない。2〜3日話を切り出せないままに過ぎてしまった。ところが七郎左衛門も同じ思いにあせっていた。何日目かに孫右衛門が口を切ると七郎左衛門は双手をあげて賛成した。キリシタンの信仰を保持するための組織をつくろうというのである。

 2人は極秘裏に村人たちを説き回り、ついに全村民を団結させるのに成功した。浦上にキリシタンの地下組織ができたのである。

それは、次の3役で構成された。

帳方屋敷跡の碑
1965年(昭和40年)3
月14日、如己堂の前に
建てられ、祝別除幕さ
れた。
@ 帳方:浦上に1人いて、目繰(バスチャンごよみ)を所
     持し、一年中の祝日や教会行事の日を繰り出し、
     また祈りや教義などを伝承する。
A 水方:各郷に1人いて、帳方から伝えられた祝日や祈り、
     教義を聞役に伝える。洗礼を授けるのは水方の役目
     になっていた。
B 聞役:各字に1人いて、一戸一戸の信者を掌握していて、
     水方から伝えられたことを各人に流す。

 こうして帳方、水方、聞役という指導系統ができあがった。


 250年に及ぶ長い間、一人の神父もいないのに信者たちが信仰を伝えた理由の一つは、この組成ゆえであった。(外海地方、五島、平戸、生月地方のキリシタンたちもこれに似た組織をもっていた。)


 初代帳方には孫右衛門が推された。帳方は選挙によるものであったが、代々孫右衛門の子孫が推薦され、七代目の吉蔵に至った。
 吉蔵は1859年(安政6年)浦上三番崩れといわれる検挙事件で入牢、殉教した。その後、間もなく浦上小教区の復活が行われ、吉蔵を最後に、この組織は消滅した。
 長崎奉行所調査記録によると、吉蔵は石高3斗7升8合の農民、日繰りの他、「ハンタマルヤと申す白焼仏立像一体」「イナッショと申す唐かね仏座像一体」「流金指輪様の品に彫付け有之候 ジゾウスと申す仏一体」を所持していた、としるされている。
 ハンタマルヤはサンタ・マリア、イナッショは聖イグナシオ、ジゾウスはジエズス(キリスト)で、ポルトガル訓みの名が、なまったものなのである。

 6)浦上キリシタンと聖母マリア
 禁教、弾圧により、7代の長きに及んだ潜伏時代に浦上キリシタンたちにとって、サンタ・マリアは心のよりどころであり崇敬のまとであった。
 その崇敬の対象として帳方に代々所蔵され、最後の帳方吉蔵が所持していた「ハンタマルヤと申す白焼仏」が、俗に「マリア観音」と呼ばれているもののうち、代表的なものとなっている。
 それは支那から渡った白磁あるいは青磁の慈母観音像などを、そのままサンタ・マリアに擬して祀ったのである。
 すなわち「マリア観音」は、第一には禁教下において表面仏教をよそおい、信仰を秘匿していたキリシタンたちが観音像を祀ることによって、仏教徒であるように見せかけながら内心サンタ・マリアとして崇敬していたものである。
 第二には、ほんとうの聖母像が入手できなかったために、観音像を代用するという心理から崇められてきたものである。したがってその意義は、実際に潜伏キリシタンによって崇敬の対象とされてきたか、どうかという由来にかかっているのであって、像そのものは慈母観音に限らず、神・仏像、銅鏡などキリストやサンタ・マリア、聖人たちのイメージを求められるものならよいので、この由来がはっきりしなければマリア観音たりえないのである。
 長い潜伏時代に、このように崇敬し続けたサンタ・マリアが、大浦にできたフランス寺にいらっしゃる、との噂に浦上キリシタンたちがかけつけ、信徒発見となることを思うとき、浦上キリシタンと聖母マリアのつながりの強さが偲ばれる。

 7)悲しい絵踏行事
 徳川幕府のキリシタン検索は、その制度の緻密さからいっても、その励行の厳重さからいっても他にその例を見ないといわれたほどだが、その制度の中でも最も悪どいのが絵踏みである。
 絵踏は、キリシタンが崇敬する聖画像を踏ませることで、正確にはその行事を絵踏といい、それに用いられる聖画像を踏絵という。幕末ごろから混同されて、その行事を踏絵ともいっている。
 その目的は時期によって変化している。寛永年間、絵踏が開始されたころは、キリシタンに背教させるために用いられ、次いで、背教を証明するしるしとして行われ、1641年(寛永18年)ごろからはキリシタンを発見するために、実施された。
 絵踏の起りは、寛永5年(1628年)ごろ長崎奉行、水野河内守守信が始めたものと思われる。紙地の聖画やメダリオン(大形楕円形メダル)、プラケット(方形メダル)を水野河内守が長崎でキリシタンを転んだ証明として踏ませたのに始まり、寛永6年、竹中采女正がメダリオンやプラケットを板にはめ、いわゆる板踏絵をつくり、さらに寛文9年、萩原祐佐に命じて真鋳踏絵をつくらせて、ひろく絵踏を行わせた。

 1641年(寛永18年)浦上でも絵踏が始まり、それを踏まない者は、すぐにキリシタンだということがわかって捕えられた。
 長崎奉行所の管轄区域では毎年繰り返されて絵踏が行われた。陰暦正月4日から9日までが市内、12日から17日まで長崎村、浦上山里村、浦上渕村の順であった。
 絵踏の日が来ると、老若男女一人残らずそれを踏まされた。病人も赤ん坊もそれを止めることはできなかった。キリシタンらにとって、それは最も悲しいつらいことであった。そこでキリシタンたちは、この絵踏のお許しを願って、コンチリサンのオラショ(司祭不在で告白ができないとき完全な痛悔をして罪を許してもらうために伝えられた祈り)を熱心にしていたのである。
 この悲しい絵踏行事は、迫害の方法として最も意地悪く、苦しめる方法だった。それで幕末に日本に来た外国人たちは、アメリカ人もイギリス人もオランダ人もこぞって、絵踏を行わせる幕府の非道を憎んだ。ついにオランダ甲比丹ドンケル・クルチウスの献言をいれ、1857年(安政4年)の絵踏を最後に長崎の絵踏は廃止された。

8)埋葬と墓碑の制
 キリシタン検索制度の一つに寺請制度がある。国民は皆、何宗かの寺の檀徒となり、毎年寺から宗門改帳に捺印してもらって、仏教信者であることを届け出さなければならなかった。宗門改帳には家ごとに家族の氏名、年令、生死、結婚、移動が記載される。

 埋葬にも檀那寺の僧に読経してもらい、その立ち合いの下に納棺せねばならず、墓石には必ず、戒(法)名を刻まねばならなかった。浦上村では聖徳寺の憎が立ち合っていた。しかしキリシタンたちは、坊さんが読経している間、隣室でお経消しの祈りをとなえていた。棺中の死体も坊さんに背をむけるように納めておく。坊さんが帰ると棺をあけて、頭陀袋、六文銭などを取り捨てて葬るというようにしていた。
 おかしなことだが、これは潜伏キリシタンの哀しい、レジスタンスだったといえよう。表面は仏教をよそおうていることに対する、せめてもの罪滅ぼしの心でもあった。

 このレジスタンス心理は墓石にも現われている。禁制以前のキリシタン墓石は、西洋式伏碑、いわゆる冠り右とし、十字紋様、洗礼名などのキリシタン的表徴をつけていた。
 禁制期になると伏碑の型式はそのまま、キリシタン的表徴だけをはぶいて、行年と俗名、没年月日を刻むだけにした。しかし、この伏碑型式が、仏教式立碑と異なっているので、長崎代官の取り調べをうけることになった。

 9)浦上崩れ(キリシタン検挙事件)
○浦上一番崩れ
 幕府のキリシタン弾圧開始後、長崎が"諸国で迫害されたキリシタンの避難所"たることができなくなってから、少なからぬキリシタン武士たちが浦上に逃れて農民となり、信仰を守りつづけた。
 5人組連座制、嘱託銀(懸賞訴人の高札文)制などの励行によって、一村または集落全部がキリシタンでなければ信仰を守ることは困難であった。浦上は、ほとんど全村民が表面浄土宗聖徳寺の檀家として仏教をよそおいながら、キリシタンの信仰を守りつづけていた。
 ところが1790年(寛政2年)庄屋高谷永左衛門を中心に、同慶蔵らが計画した円福寺に八十八体石仏を造立するための喜捨を村人の多くが拒否したことから、里郷忠右衛門ら19人をキリシタンとして内訴したことから発展した。捕縛を指揮したのは永左衛門に買収されていた長崎代官手代塚田郡兵衛である。

 取り調べの結果、証拠不充分で19人がキリシタンであるとの決め手がなく、墓をあばいてキリシタン道具を見つける計画を立てたり、天草から異仏を入手して浦上で発見したようにするなどの謀計をめぐらしたが、いずれも失敗に終った。
 しかるに浦上家野郷散使深堀安左衛門が入牢、19人の倅たちの頼みによって願書を長崎奉行所に差し出したことから高谷らの謀計が暴露し、1791年(寛政3年)9月18日、塚田郡兵衛は同道人預け、高谷永左衛門は揚り屋入り、高谷正蔵、同慶蔵らは入牢の上取り調べが行われた。12月末になって19人は内訴看たちに意趣ないように訓されて出牢放免、塚田郡兵衛は免職、高谷永左衛門は庄屋を倅藤九郎に譲り、他の一味は押し籠めになって一件は落着したかに見えた。
 しかし高谷らは散使深堀安左衛門に恨みを含み、1792年(寛政4年)のはじめ、大村吉兵衛、浦上の七太郎という転びキリシタンを手先につかい、謀計をもって安左衛門以下5人を邪宗信仰の者として内訴させたので、2月7日、安左衛門らが召し捕られた。
 転びキリシタン七太郎も、わぎと5人のうちにあって召し取られ、吟味をうけると「9年以前、信仰相止め申候」と自白して出牢、直ちに本原郷市兵衛ほか4人を邪宗徒として密告した。
 かくて七太郎を除く9人が吟味をうけ、役人から「七太郎の如く有体に白状いたせば出牢させる」と申し渡されたが、一同は「全く無実の難儀にて候へば白状の致しよう御座無く候」と答え、入牢のまま寛政5年に至った。

 深堀安左衛門の手伝い、久米次郎は、主人のためを思い、かつ高谷らの悪事を知ったので寛政4年12月8日、太宰府参詣の名目で江戸に走り、6月3日、もと長崎奉行で当時勘定奉行をしていた久世丹後守に駆け込み訴えをした。
 丹後守はこれを江戸在府中の長崎奉行高尾伊賀守に引き渡したので、伊賀守から長崎奉行所に訴えるよう訴状を差し返した。
 久米次郎は長崎に引き返し、11月20日奉行所に訴状を差し出した。奉行所ではそれによって多くの関係者を召喚して取り調べた結果、高谷らの謀計と塚田郡兵衛ら役人の汚職が露顕した。
1795年(寛政7年)事件は一応落着し、長崎奉行平賀式部少輔、中川飛弾守から一件の報告書が幕府に提出されている。

 この浦上一番崩れが起った時、浦上の四墓地(経の峰、赤城、こうらんば、阿蘇)にあった伏碑……「異形の墓石」に対する調査が3度も行われ、墓主が召喚された。
当時の調査書類が長崎図書館に少なからず保存されている。
 冠り右を墓石とすることができなくなると、信者たちは石塔を建てず、自然石をそのまま冠り石として用いた。石塔には戒名を刻まねばならない。自然石にはその必要がないからである。自然石を浦上の人々は野石と呼んでいた。

○浦上二番崩れ
 1839年(天保10年)転びキリシタンの密告によって勃発し、中野郷株(現在の如己堂のところ)の利五郎、家野郷田原の伊五郎、本原郷川端の多八、同郷平の徳右衛門らが捕えられた。
 利五郎は、浦上キリシタンの秘密組織の最高指導者たる帳方であり、徳右衛門は富裕で慈悲心に富み信仰篤かった。捕えられたのは村民の中心的指導者ばかりである。
 ところが、二番崩れについては奉行所の記録はなにもない。なぜ取り調べ書類が残らず、全員釈放されたのか謎に包まれていたが、長崎県三井楽町(五島)教育長益田義美氏の家譜により、その謎が解明できそうである。

 義美氏の曽祖父、土之助の家譜に次のように記載されている。当時幕府がキリシタン弾圧の際、(土之助が奉行所在職中)その調べに対し、感ずるところあり疑を生じ、可愛想であったので同僚に習って、「自分の友人で疑うことなし」と、多くのキリシタン宗60有余人を助けた。後、奉行所を退職。助けられたる人々は、長崎市内の各地に散在し、特に長崎県南松浦郡(五島)三井楽岳郷にのがれ住う。……

 益田土之助が長崎奉行所に勤務し、浦上二番崩れのとき、信徒弾圧をやめさせたことについては家伝があり、義美氏の父実太郎氏から義美氏の弟隆盛、福次郎の両氏とも、聞いているという。
 また戦争中、義美氏が旧満州に出征中、一時帰還したとき、仏壇の引出しに、苗字のない名を50〜60人書いた書類があったが、それが浦上キリシタンのリストで、50〜60人助けたという家伝と一致するのではないかと義美氏は考えている。そうだとすれば、浦上キリシタンの名前書を奉行所に置かず、土之助氏が持ち出したものと推定される。

○浦上三番崩れ
1856年(安政3年)「浦上三番崩れ」が起る。密告によるものであった。最高指導者の帳方(総頭)吉蔵以下、多くの指導的人物が投獄され、非道な拷問をうけている。
 また、このときの拷問で転んだまま仏教徒になってしまった人々もいる。長崎奉行所「異宗一件」「異宗徒」簿冊の中に多くの史料がある。

 1860年(万延1年12月)事件は決着し、長崎奉行岡部駿河守は幕府に報告書を提出しているが、その中で切支丹宗徒の語を避けて"異宗信仰の者" "事変り候宗体" などの名称を用い、「聖徳寺教化をうけ、踏絵も年々仕り、先祖年忌、弔いなど相変候行状も無之」とのべて文化年間の「天草崩れ」の処置に準じ、「三島派不受不施派の類例をもって取調べ」たとしてある。
 しかし帳方吉蔵、同じく帳方(浦上には二つの帳があったが、大部分は吉蔵の帳に入る)竜平の口書きは、キリシタンの簡単な教義や「バスチヤン日繰り」による年間行事をのべてあって、潜伏キリシタンの実体を知る手掛りとなっている。

 この三番崩れで吉蔵は牢死、子の利八は所払いになり、初代孫右衛門から吉蔵まで七代つづいた帳方はその後置かず、やがて1865年(元治2年)の信徒発見を迎える。
 水方も四人のうち、生き残ったのは本原郷字平(現在の辻町)のドミンゴ又市だけであった。
 浦上三番崩れのとき、長崎奉行岡部駿河守が幕府に奉った伺書の中に、中野郷長与道の百姓孫蔵らの供述があり、「墓所は戒名を嫌い石碑は建てず、野石を据え存生の異名を唱え」云々と見える。存生の異名というのは洗礼名をさしたのである。

 経の峰、赤城、阿蘇、こうらんばの各墓地には当時の「異形墓石」が50数基残っており、ことに経の峰に多い。明和4年、おそもの墓、明和7年忠吉墓、長右衛門、喜平次と刻んだ四基は、潜伏期キリシタン墓碑として貴重なものと思われる。