浦上小教区沿革史
「浦上小教区沿革史」は1983年発行の「神の家族400年」を資料として作成しました。

1. 浦上小教区の成りたち


 浦上は昔、長崎港の入江が深く湾入していたので、ここを深江浦とよび、浦の上にある地方なので浦上と称するようになった。
 その浦上は、長崎の町の北部に隣接した農村で、有馬領になっていた。

 長崎の町にキリシタンが伝えられた1567年ごろから、浦上にもキリシタンの布教が行われ、1584年、有馬晴信が沖田畷の戦の勝利の感謝のため、イエズス会の知行地として寄進したことによって、浦上は名実共にキリシタンの村になったのである。

  天領浦上の成立
 1587年、豊臣秀吉の伴天連(宣教師)追放令発布によって、1588年、長崎の町と共に直轄領となった。1603年、江戸幕府が開かれてからも引きつづき幕府の天領となり、1605年、大村領だった長崎村が天領となった代わりに、浦上の一部が大村領となり、(これは西浦上村と称した)浦上小教区に属する地域が公領浦上となり、正式には浦上山里村と称した。
 同年(慶長10年)浦上山里村の庄屋に菊地蒲三郎正重が任命された。正重は菊地武重の末葉で、肥後浪々の後、浦上に来たもので、屋敷が高谷(現、浦上天主堂所在地)にあったので名を、高谷小右衛門と改め、幕末まで浦上キリシタンは庄屋高谷氏の支配をうけていた。
 浦上山里村は5郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)から成り、馬込郷を除いて4郷の全農民がキリシタンであり、その強い信仰が現在まで伝承されることになったのである。