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 今週のお知らせ 
11月 年間  今月の地区集会
      亡き両親・兄弟姉妹・親戚・恩人・友人のために
       永遠の安息を願って心を合わせて祈りましょう。


   「死者の月」を迎えて②

 キリスト者の間では2世紀頃から死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、次第にミサが伴うようになりました。亡くなった全てのキリスト者を1年の特定の日に記念することは、7世紀初めにセビーリャの司教インドルスが、聖霊降臨の祝日の翌日に死者を記念するミサを行なうように指示したことに始まるとされています。さらに、諸聖人の祭日(11月1日)の翌日に全ての死者を記念する習慣は、998年にクリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、その修道院の修道士たちの影響によって11世紀には広く行なわれるようになりました。ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。この記念日は西欧諸国に広まり、15世紀には、スペインのドミニコ修道会で盛んに行なわれ、司祭がこの日に3回のミサを捧げるようになったのもこの頃だといわれています。 18世紀になる頃には、3回のミサの習慣が世界各地に広まり、1951年に教皇ベネディクト15世がこれを全ての司祭に許可することによって、全教会に広めました。現在はこのような規定はありません。

 11月が「死者の月」として定着してきたのがいつからなのか定かではありませんが、死者への思いがミサをはじめとする様々な祈りの形で表され、それが広がりを見せ、伝統・習慣となって次第に死者の月になったと考えられます。
 (カトリック中央協議会HPより)

++来週は、聖書週間(11月18日~25日)++

 聖書週間とは …
  1976年5月の定例司教総会で、全国的に聖書に親しみ、聖書をより正しく理解するための運動として「聖書週間」設定案が当時の宣教司牧委員会から提出され、同年11月の臨時司教総会において1977年11月の第3日曜日からの一週間を「聖書週間」とすることが決定されました。さらに、聖書委員会の発足と同時に委員による活発な啓蒙活動によって、目本のカトリック教会の中でも聖書への関心が高まってきました。その後、カトリック司教協議会による諸委員会の機構改革にともない、聖書委員会は1998年2月に解消されましたが、聖書週間は常任司教委員会によって引き継がれ、リーフレット「聖書に親しむ」等の制作も継続され、今日に至っています。

 2018年の聖書週間 …
 全ての人、特に信徒が、この聖書に「より強い関心をもち、親しみ、神の心に生きる」ようになるための週間です。

 今年のテーマは、最近のフランシスコ教皇の使徒的勧告を受けて、「聖性への招き」とし、
 聖書の言葉は
    「主において常に喜びなさい。
         重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4・4)」
 として編集しています。

 (次回、「旅の聖書に親しむ」から一部を紹介)
                        主任司祭 久志利津男
 11日(日) 年間第32主日

  教会境内清掃(8時30分 各担当場所)
  壮年会・女性部 死せる会員のためのミサ(9時30分)
 12日(月)

  浦上出身聖職者との集い(18時 信徒会館)
  聖ヨサファト司教殉教者(記)
 13日(火)

  浦上出身聖職者追悼ミサ(6時)
 15日(木)

  大司教館・平田クリニック・三原台病院訪問(エリザベット会)
 17日(土)

  エリザベット会 死せる会員・賛助会員のためのミサ(6時)
  聖エリザベト(ハンガリー)修道女(記)
 18日(日) 年間第33主日
          貧しい人のための世界祈願日


  永久聖体礼拝
    10時30分:久志師担当
     女の都、大手、昭和、辻1・2、石神1・2、本原の各地区、
     歴史、シヤローム、経済の各委員会

    11時20分:下原師担当
     平和、橋口、上野1・2、大橋、岡、江平1・2・3の各地区、
     信仰教育、広報、信徒生活、典礼の各委員会

    12時10分:尾髙師担当
     扇、高尾A・B、坂本1・2、小峰、本尾1・2、平野の各地区、
     ヴィンセンシオ、エリザベット会、在世会、壮年会、女性部
     続いて聖体賛美式
■教会学校・各講座の開催日

  中高生 11月24日(土) 17時30分
  堅信(子供) 11月17日(土) 17時30分
  堅信(大人) 11月28日(水) 19時30分
  洗礼 11月21日(水) 19時30分
  結婚 11月13日(火) 19時30分

   各講座とも場所は教会学校1階教室となります。
   なお、講座参加予定の方は司祭館にて受付をお願いします。
■11月18日 9時30分聖書朗読当番

     深堀 勝さん  土肥 由紀子さん
■11月18日 18時30分典礼当番

     大山 政輝さん (レジオマリエ)
■教会境内駐車整理当番

     11月17日(土)  水浦 幹雄さん   山下 啓幸さん
     11月18日(日)  深堀 義昭さん   深堀 清さん
◇ 浦上教会出身の亡き

  大司教・司教・教区長を偲ぶ(3)

 ペトロ松岡孫四郎司教(第2代名古屋教区長)

 前名古屋教区長ペトロ松岡孫四郎司教は昭和49年4月以来、長崎に帰って隠棲中であったが、去る8月6日午後10時52分、隠棲先のお告げのマリア十字修道院で、脳軟仮症のために帰天された。93歳。通夜の儀は、浦上天主堂工事中のため、出身地(通称浦上・一本木)に近い本原教会で7日午後7時から、名古屋教区の山田師の司式で、相馬司教臨席の下、挙行された。その中で、長崎教区の片岡吉一師(長崎市木鉢町に引退中、79歳)が松岡司教との長い交友史を、淡々と時には微笑みを浮かべながら語り、故人を偲ばせた。『自分にとって松岡司教は、正に親であった。尋常小学校も終わる頃、神学校に入れと誘われた。神学生時代、当時伊王島の教会に勤めていた松岡神父のところによく遊びに行きお世話になった。名古屋に行かれてからも機会があれば寄せてもらったが、いつも浦上弁でしゃべり合い、くったくがなく、気軽につきあってくださった。とにかく、気取らない謙遜な人であった』。

 カトリック教報650号(昭和55年10月1日発行)

 ペトロ松岡孫四郎司教 司祭叙階50年を迎えて
 明治20年(1887)3月20日、長崎市三原町の旧信者の家庭に生れた。3月23日、浦上教会主任ペルー師によって受洗。慶応3年(1867)7月から翌、明治元年の迫害に祖父母、両親(咲太郎とデン)、乳飲子の源三郎も他の浦上信徒と共に流罪にされている。四男である師は、迫害のため島根県津和野の「三尺牢」で死去した祖父の名を取って孫四郎と付けられた。

 明治34年(1901)、当時長崎市大浦にあった公教神学校に入り、大正7年(1918)2月10日コンパス長崎司教にして司祭に叙階された。そして同年3月、長崎港タト伊王島の馬込教会主任に任ぜられた。同教会は大明寺、高島、善長谷にも布教所を持ち、所属信者は2400名を越えていた。師は小舟を使って布教所や信者の家を廻り、教会では黙想会、大人、青年、子供別の公教要理など信者の信仰が堅いだけに多忙を極めた。大正15年(1926)の秋、暴風雨でミサ中に聖堂の屋根も塔も崩れ落ちたが、奇跡的にけが人は出なかった。師は信者の力を結集し、5年後、当時では数少ない鉄筋コンクリートの聖堂を完成した。

 昭和13年(1938)、50歳の時、出身地である浦上教会(信徒数1万万余り)の主任として迎えられたが、司牧3年で昭和16年(1941)1月14日に名古屋と新潟教区長に任命、3月6日主税町教区長座聖堂において教区長の着座式と歓迎会が行われた。赴任の年の12月8日太平洋戦争が始まったが、戦中、戦後の実に多難な時期を乗り切り、昭和37年(1962)4月16日に初代名古屋司教に任命された。

 名古屋教区記念誌より

 長崎教区馬込教会(伊王島)のこと
 第6代主任司祭マルマン神父は、馬込地区の教勢に見合う教会堂の必要性を感じ、明治23年に白亜の漆喰造ゴシック様式の聖ミカエル天主堂を建設しました。敷地は当地の数名の信徒の寄進を受け、設計はマルマン神父自身が手がけ、工事はすでに大明寺教会で経験を積んでいた舟津の大工大渡伊勢吉が中心になって建てられました。ところがこの教会堂は、数度の台風被害によって、やむなく建て替えることになります。

 昭和2年(1927)と昭和5年(1930)の台風被害は甚大なもので、マルマン神父が苦労して建てた白亜の天主堂も尖塔部分は吹き飛ばされ、もはや修理の見込みが建たなくなっていました。 災害当時の主任司祭は第10代松岡孫四郎神父(のちに名古屋教区の司教)で、鉄筋コンクリートの新しい教会堂建設を決断します。

 再建された聖堂は、主任司祭の必死の金策と、実際に労働奉仕をする馬込地区老若男女の信徒、また舟津の大工大和和吉らの汗の結晶でした。ついに昭和6年(1931)10月18日、鉄筋コンクリート、ゴシック様式、総坪数105坪の天主堂か完成し、早坂司教によって献堂祝別されたのでした。当時と現在の物価は比較になりませんが、現在の物価になおせば1億5千万に当たる総工費3万5千円を費やしての大事業でした。

 インターネットの一部から 一続くー
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