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 今週のお知らせ 
4月 四旬節・復活節 今月の地区集会
   今週の言葉・道しるべ

     キリストの復活がなければ、私たちの信仰は無に等しい。
              (Ⅰコリント15・14)

◆主のご復活を、神の母聖マリアとともに喜び、祈りましょう。

 アレルヤの祈り
  神の母聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
    あなたに宿られた方は。アレルヤ。
  おことばどおりに復活されました。アレルヤ。
    私たちのためにお祈りください。アレルヤ。
  聖マリア、お喜びください。アレルヤ。
    主はまことに復活されました。アレルヤ。

祈願(祈りましょう)
 神よ、あなたは御子キリストの復活によって、世界に喜びをお与えになりました。
 キリストの母、聖マリアにならい、わたしたちも永遠のいのちの喜びを得ることがでさますように。
 わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン。

   21日(日) 6時と18時30分のミサはありません。

◆下原神父様のお別れ式
 下原和希神父様のお別れ式を4月21日(日) 9時30分ミサに続いて行います。
 異動は26日(金)、教会を7時に出発しますので、お見送りをお願いします。

◆受洗、心よりお祝い申し上げます。
 4月20日(土) 復活徹夜祭ミサの中で、10名の方が洗礼を受けられました。

   杉山富貴子(ふきこ)さん、小畑美香(みか)さん、
   山下春香(はるか)さん、宮崎静香(しずか)さん、
   田中滉一にういち)さん、後藤健太(けんた)さん、
   山口達郎(たつろう)さん、森山舞子(まいこ)さん、
   中野周平(しゅうへい)さん、中野かおりさん

◆教皇フランシスコの来日を期待して(4)
 「神のことばには、神が信じる者たちに呼び起こそうとしている『行け』という原動力が常に現れています。…『出向いて行く』教会は、宣教する弟子たちの共同体です。彼らは、率先する人、関わり合う人、寄り添う人、実りをもたらす人、そして祝う人です。」
  (使徒的勧告『福音の喜び』20、24)

 人が明確な目的を持ってタトに向かうのと同じように、タトに出向く教会共同体、外に向かう信者も「福音宣教」という目的を携えてのことです。タトに向かうことは、まず自身のためでもあります。溜まったままの水たまりは次第に色あせ、臭いがし、当然生き物は存在しません。適度な流れによって、透明な水は保たれ、生き物がまさに水を得たかのように心地よく泳ぎ回っているように、自身がその場を出ることによって、それこそその場が相乗効果をもたらすことは多くの経験から分かることです。当然、そこには勇気、忍耐、知識、力など様々なことが要求されます。その勇気の原動力は、イエスの命じる「行きなさい」という言葉です。神は直接にまた誰かまた何かの出来事を介して、私達の分に応じて「行きなさい」の叱咤激励とも言える勧めをしているに違いありません。
 さらに教皇は外に向かう私たちが、「率先する人、寄り添う人、祝う人」として讃えていることは何と心強いことでしょうか! 人々のうちに苦しむキリストの体に触れることによって羊の匂いが染みつき、羊がその声を聞く或いは聞き分けるようになる、だからこそ寄り添ったがゆえに大切な物を見つけたことの喜びを祝う人となる、そのような福音を宣教する者でありたいのです。
(続く)
                        主任司祭 久志利津男
 20~21(土日)

  ご復活祭 愛の募金活動(各ミサ前後 聖堂前)
 21日(日) 復活の主日

  ごミサ:7時30分、9時30分(6時と18時30分のミサはありません)
  下原神父様お別れ式(9時30分ミサ)
  下原神父様送別会(18時 信徒会館)
 26日(金)

  下原神父様、福江教会へ異動出発(7時)
 27日(土)

  新入生歓迎会(13時 教会学校)
 28日(日) 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)

  ビンセンシオ会会員・家族・帰天会員のためのミサ(6時)
  永井博士及び会員の墓掃除・墓参り(9時 坂本墓地)
■教会学校・各講座の開催日

  中高生 休み
  結婚 5月7日から始まります

    各講座とも場所は教会学校1階教室となります。
    なお、講座参加予定の方は司祭館にて受付をお願いします。
■4月28日 9時30分聖書朗読当番

     深堀 勝さん  森田 江里子さん
■4月28日 18時30分ミサ典礼当番

     武本 清久さん (さばと座)
■教会境内駐車整理当番

     4月27日(土) 森田 浩介さん  外尾 均さん
     4月28日(日) 松下 巌さん  木戸 美智子さん
◇教呈フランシスコ、2018年11月7日一般謁見演説
    十戒に関する連続講話(14)

12.盗んではならない
 第七の言葉、「盗んではならない」の掟を聞くと、盗みと、他者の所有物を尊重することが頭に浮かびます。財産を盗んだり、取り上げたりすることが合法化されている文化はどこにもありません。実際、人間の感性は、所有物を守ることに対して非常に敏感です。
 しかし、キリスト教の知恵に照らして所有することに注目しながら、この言葉をより広い視野で解釈できるよう備えることもとても大切です。「教会の社会教説」は「財貨の普遍的使用目的」について述べています。「初めに、神は地とその産物とを人類の共同の管理に委ね、人類がそれに手を加え、労働によって支配し、その実りを得るように計らわれました。創造された物は全人類のためのものです」(『カトリック教会のカテキズム』2402)。「たとえ共通善の促進という目的のために私有財産やその権利、並びにその行使の尊重が求められているとしても、常に第一に優先されなければならないのは、財貨の普遍的使用目的だからです」(同2403)。
 しかし神の摂理は、同じものの「連続」として世界を造ったのではなく、多様な状況、文化といった相違が存在しています。だからこそ互いに支え合いながら生きられるのです。世界には全ての人の基本的なニーズを確実に満たすほどの豊かな資源があります。しかし大勢の人々が極めて貧窮した生活をしており、資源は見境なく消費され、枯渇しています。しかし世界はただ一つ、人類はただ一つです。今日、世界の富はごく少数の人の手に握られており、大半の人々が貧しい生活、みじめで苦しい生活を送っています。

 地上に飢餓が起こっている原因は食糧不足ではありません。市場の需要に応じて、食糧が捨てられ、無駄になることもあります。公平な分配を保障し、連帯責任に基づく枠組みのもとに適切な生産を確かに行うことのできる自由で先見の明のある企業家が欠けています。「人間は財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を自分のものとしてばかりでなく共同のものとしても考えなければなりません。すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役立つようにという意味においてです」(同2404)。全ての富が正当なものとなるためには、社会的な側面がなければなりません。
 「ある財貨を所有するということは、その所有者が神の摂理の管理者にされるということである」(同)。この観点から考えれば、「盗んではならない」という掟は肯定的でより広い意味をもちます。人は財貨の絶対的な所有者ではなく、その管理者です。所有することは責任を負うことです。「でも私は何でも持っています」。それは、あなたに課せられた責任です。神の摂理の論理に反するものは皆、神を裏切っています。それは最も深い意味での裏切りです。真に所有していれば、与えることができます。これこそが、財貨を、その良し悪しは別として、管理できるかどうかを判断する基準です。真に所有していれば、与えることができます。この言葉は大切です。もし与えることがでさるなら、心を開くことができるならば、所有物だけでなく、寛大さにおいても豊かになります。寛大さとは、全ての人と分かち合うために所有物を与える義務でもあります。現実に私がもし、何かを人に与えられないとしたら、それはその財貨が私をわが物にし、私を支配し、奴隷にしているからです。富の所有は、創造性をもって増やし、寛大に用い、愛と自由のうちに成長する機会です。キリストご自身も「神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして」(フィリピ2・6-7)、自らの貧しさによって私たちを豊かにしてくださいました。

 人間がより多く所有しようともがいている間、神は自ら貧しくなられることによって、人間をあがなってくださいます。十字架につけられたイエスは、「あわれみ豊かな」御父に、はかり知れない身代金を全ての人間の為に払ってくださいました。私たちを豊かにするのは財貨ではなく愛です。「悪魔はポケットから入ってくる」と神の民であるキリスト者が言っているのをよく耳にします。金銭への執着、所有欲から、虚栄心が生じます。「私は金持ちで、そのことを誇りにしている」と言い、最終的にはうぬぼれて、傲慢になります。このような方法で、悪魔は私たちの内で働さます。そしてその入り口はポケットなのです。
 イエス・キリストは聖書の完全な意味を改めて示しておられます。「盗んではならない」とは、皆さんの富をもって愛し、もっとも深く愛するために手段を尽くすことを意味します。それにより皆さんの命は善となり、皆さんの所有物は真に賜物となります。人生は所有するための時間ではなく、愛するための時間だからです。

(続く)
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