トップページへ
 今週のお知らせ 
1月 年間 今月の地区集会
     「世界こども助け合いの日と献金」

 1月28日(日)の「世界こども助け合いの日」を迎え 教皇庁宣教援助事業・日本事務担当の川口薫師(東京教区)は、感謝のうちに次のように記しています。

 毎年、1月の最終日曜日は、「世界こども助け合いの日」となっています。多くの皆様のご理解とご協力をいただき、心から感謝申し上げます。
 先日、ユニセフが行っている、「子供たちの命と未来を守る水支援」のことを知りました。世界の人口の半数以上が水道の水を使えるようになっている現在でも、今なお6億3千万人以上もの人々が、身近に安心して飲める水がなく、池や川、湖や整備されていない井戸などから飲料水を得ているのだそうです。多くの途上国で、水汲みは子供の仕事です。サハラ以南のアフリカ諸国だけでも330万人を超える子供たちが、水の重さに耐えながら、毎日、遠い道のりを歩いています。疲れ果てた子供たちには、もちろん、学校に通う時間も体力も残されていません。・・・・・・
 私たちの未来を託された子供たちが、このように厳しい状況に置かれていることは、本当に辛く、悲しいことです。それは、どこか遠くで起こっている問題ではなく、父である神が心を痛めながら見つめ、神の家族全体に問いかけておられる現実でしょう。私たちは、このような世界の痛みをわずかでも分かち合い、小さな犠牲を捧げたいと思います。
 昨年皆様から「世界こども助け合いの日」に寄せられた献金に、前年度繰越金を加えて、2017年は、コンゴ、ケニア、ザンビア、マダガスカル、ウガンダ、インド、ハイチへ、総額55,603,937円を送金させていただきました。・・・皆様のお祈りとご支援を今年もよろしくお願いいたします。

    日本26聖人殉教ミサのご案内

 2月5日が記念日の日本26聖人殉教祭は、近い日曜、今年は4日(日)14時から西坂公園(雨天時は中町教会)で執り行われます。

 浦上教会では、この式に先立ち、時津から西坂まで歩いたとされる浦上街道に沿って、ロザリオを唱えながら徒歩巡礼をします。 12時30分に教会横のルドヴィコ像前に集合し、12時40分に出発。一緒に歩いてこの殉教ミサに参列しましょう。

 なお、5日(月)には、記念聖堂で南地区司祭団主催による連続ミサ(9時、11時、13時、15時、17時、19時)とゆるしの秘跡(9時~20時)も行われます。

                        主任司祭 久志利津男
 28日(日) 年間第4主日 世界こども助け合いの日献金
 31日(水)

  聖ヨハネ・ボスコ司祭(記)
 2月2日(金)

  主の奉献(祝)
    ロウソクの祝別(6時ミサ)
  初金ミサ 女性部担当:上野1・2(10時 被爆マリア小聖堂)
  十字架の道行(19時 聖堂)
 4日(日) 年間第5主日

  日本26聖人殉教ミサ(14時 西坂公園)
    ※雨天時・中町教会
  西坂まで巡礼
    12時30分 ルドビコ像前に集合
    12時40分 出発
  評議会(19時 信徒会館)
   ■教会学校・各講座の開催日

   *中高生 1月27日(土) 17時30分
   *洗礼 1月31日(水) 19時30分
   *結婚 1月23日(火) 19時30分
     各講座とも場所は教会学校1階教室となります。
     なお、講座参加予定の方は司祭館にて受付をお願いします。
   ■2月4日(日) 9時30分聖書朗読担当者

     田崎 哲さん  西田 幸子さん
   ■2月4日(日) 18時30分ミサ典礼当番

     武本 清久さん (さばと座)
   ■教会境内駐車場整理当番

     2月3日(土) 赤尾 繁樹さん  宮崎 元治さん
     2月4日(日) 中嶋 信行さん  本田 英美さん
  ◇ 教皇フランシスコの一般謁見演説(2017年11月8日)

          ミサに関する連続講話 ①

1.はじめに
 今日から新しい連続講話が始まります。この連続講話は、教会の「核心」である聖体にわたしたちの目を向けるものです。キリスト者がミサの価値と重要性をしっかりと理解することは、神とのきずなを深めながら生きるために欠かせない基本です。

 2000年にわたる歴史の中で、世界中でどれほど多くの信者が、聖体を守るためにいのちを落としたことでしょう。そして今日でもなお、どれほど多くの人々がいのちがけで主日のミサに参加していることでしょう。わたしたちはこれらのことを忘れてはなりません。ディオクレティアヌス帝による迫害下の304年、北アフリカのキリスト者たちは自宅でミサをささげている最中に不意に襲われ、逮捕されました。固く禁じられているにもかかわらず、どうしてミサをささげたのかと、ローマ帝国の総督は尋問しましたが、彼らは「主日がなければ生きられません」と答えました。つまり、ミサをささげることができなければ、わたしたちは生きられない。キリスト者としてのわたしたちの生活は失われてしまうということです。

 実際、イエスは弟子たちに次のように語ります。「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内にいのちはない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(ヨハネ6・53-54)。

 この北アフリカのキリスト者たちは、ミサをささげたために殺されました。彼らがあかししたのは、人は聖体のために地上のいのちを捨てることができるということです。なぜなら、聖体はわたしたちに永遠のいのちを与え、死に対するキリストの勝利にあずからせてくれるからです。このあかしはわたしたち全員に問いかけています。そしてミサのいけにえにあずかり、主の食卓に近づくことが各自にとって何を意味するのかという問いに答えるよう求めています。わたしたちは永遠のいのちの源である「生きた水が湧き出す」泉を探しているでしょうか。自分自身のいのちを賛美と感謝にあふれる霊的いけにえにする泉、自分たちをキリストにおける一つのからだにする泉を探しているでしょうか。「感謝すること」こそが、ミサのもっとも深い意味です。父と子と聖霊に感謝するのです。この三位一体の神こそがわたしたちに働きかけ、ご自分の愛の交わりのうちにわたしたちを変えてくださるのです。

 わたしは、神の愛がこの信仰の神秘を通してどのように輝いているかを見いだすため、もしくは再確認するために、これからの講話で聖体とミサに関するいくつかの重要な質問に答えたいと思います。

 第二バチカン公会議は、信仰の大切さとキリストとの出会いの素晴らしさを理解するよう、キリスト者を導きたいという願いによって強く動かされました。したがって、聖霊の導きのもとに、典礼を適切に刷新することが何よりも求められました。なぜなら教会は典礼のもとに生き続け、典礼によって自らを新たにするからです。
 公会議教父は、信者の典礼的育成が真の刷新に欠かせないことを、主要なテーマとして強調しました。神がミサにおいてわたしたちに与えてくださる偉大なたまものを理解しつつ成長することこそが、公会議による刷新が目指したものであり、これから始まるこの連続講話の目的でもあります。

 ミサは、わたしたちのいのちであるイエス・キリストが現存する素晴らしい祭儀です。ミサに参加することは、「あがない主の受難と死を再び体験することにほかなりません。それは、主がこの世を救うために御父に自らをささげ、祭壇の上に現存しておられることを、目に見えるかたちで表しています」(聖マルタの家での説教、2014年2月10日)。主はわたしたちとともにそこにおられます。わたしたちは教会に行っても、司祭がミサをささげている最中に幾度となく周りを見回したり、おしゃべりをしたりします。これでは主のそばでミサをささげていることにはなりません。しかし主はそこにおられます。もし今、イタリアの大統領や世界的な要人が来たとしたら、その人に近づいて歓迎したいと思うことでしょう。考えてください。ミサに行けば、主はそこにおられるのに、皆さんは注意散漫になっています。主はそこにおられます。どうかこのことを考えてください。「神父様、ミサは退屈です。」「何を言っているのですか。主が退屈だとでもいうのですか。」「いいえ、ミサではなくて司祭たちが退屈なのです。」「司祭にもいろいろあるかもしれませんが、そこにおられるのは主なのです。」分かりますか。「ミサに参加することは、あがない主の受難と死を再び体験することなのです。」このことを忘れないでください。

 さて、いくつかの素朴な質問を自分自身に問いましょう。たとえば、どうしてミサの最初に十字架のしるしをして、「回心の祈り」をささげるのでしょうか。ここでもうひとつ、付け加えたいと思います。子どもたちがどのように十字を切っているか、目を配っていますか。子どもたちが十字架のしるしをしているのか、そのようなふりをしているだけなのか気づいていないのではないですか。子どもたちは、十字架のしるしのしかたをきちんと教わらなければなりません。このしぐさによりミサが始まり、生活が始まり、一日が始まります。このしぐさは、わたしたちが主の十字架によってあがなわれていることを意味します。子どもたちに目を配り、十字架のしるしのしかたをきちんと教えてください。またミサには聖書朗読もありますが、なぜなのでしょうか。どうして主日には朗読箇所が三つあり、平日には二つなのでしょうか。なぜ朗読箇所が読まれるのでしょう。ミサで聖書が朗読されることには、どんな意味があるのでしょうか。どうして読まれ、何を目的としているのでしょう。司式司祭がミサの中で「心を込めて神を仰ぎ……」と言うのはなぜでしょうか。彼は「スマートフォンをかざして、写真をとりなさい」と言っているのではありません。それはいけません。ここサンピエトロ広場や聖ペトロ大聖堂でミサをささげているときに、一般信徒だけでなく司祭や司教までもが、たくさんのスマートフォンを高くかざしているのを見ると、わたしは悲しくなります。どうかお願いします。ミサはショーではなく、主の受難と復活に出会う祭儀です。だからこそ司祭は「心を込めて神を仰ぎ……」と言うのです。このことばは何を意味しているのでしょう。どうかスマートフォンをかざすのは止めてください。

 諸秘跡において触れたり見たりするものを通して、本質を再発見し、基本に立ち返ることは非常に重要です。イエスのからだにあるくぎ跡を見て、それに触れたいと願った使徒聖トマスの問いかけは、神を信じるためにどうしても神に「触れたい」という願望の表れです。神を知るために、神を見て、神に触れたいという聖トマスの主への願いは、わたしたち全員の願いでもあります。諸秘跡は人間のこうした要望を満たします。諸秘跡、とりわけ聖体の秘跡は神の愛のしるしであり、神と出会う特別な方法なのです。

 したがって、わたしは今日から始まるこの連続講話を通して、ミサに隠された素晴らしい側面を皆さんと一緒に再発見し、それにより各自の人生をより充実させたいと思います。この新しい旅路におとめマリアが寄り添ってくださいますように。
 (続く)