有馬氏
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藤原純友の後裔と称す。六代経澄の時、鎌倉幕府より肥前国高来郡有馬荘の地頭に補任され、有馬氏を称す。(実際は、平直澄の子孫らしい)
戦国時代の当主晴信は、キリシタン大名として有名。大友宗麟・大村純忠とともに少年使節団をローマに派遣。豊臣秀吉ついで徳川家康に仕え、慶長十四年(1609)長崎でのポルトガル船焼き討ちなどの功を挙げたが、その功を本多正純の与力岡本大八が上奏したと称して 晴信から賄賂を取り、事が露見するにおよび晴信の旧悪を暴露。
対決の結果大八は火刑となったが、晴信も甲斐に配流された。
所領肥前日之江四万石は 子直純が受け継いだ。
有馬氏の本城として南北朝期に築城されたと推定される。
キリシタン大名有馬氏の城下 日之江には天正年間国内初のセミナリヨがつくられ、慶長五年(1600)には荘厳華麗な教会もあったという。
義直の跡を継いだ晴信は、口ノ津・長崎を拠点に朱印船貿易を展開。多くの利益を得るが、マカオで日本からの積荷が略奪される事件が発生。家康の了解のもとポルトガル船を報復撃沈した。 しかし、その恩賞をめぐって晴信は、かつて竜造寺氏に奪われた所領の復活を望み 本多正純の家臣でキリシタンの岡本大八に贈賄し、貿易利権のための長崎奉行殺害計画も露見したため 晴信は流刑の上 処刑された。
徳川幕府が九州の貿易とキリシタンの統制のため行った事件と言える。
有馬貴純により築城されたという。
十六世紀半ば、十代晴純の時代に有馬氏は全盛を迎え、1545年には竜造寺氏に勝利し、肥前六郡を領した。
原城は有馬氏の領国拡大に伴い、より便利な地に、大規模な築城を行ったものと思われる。

原城は有馬氏移封後に入封した松倉氏が、島原に築城し廃城となったが、松倉氏の圧制から起こった島原の乱(1637)の舞台として著名となった。
曲輪・空堀・石組みが残っている。
日之江城跡
 (長崎県南高来郡北有馬町谷川名)
原城跡
(長崎県南高来郡南有馬町浦田名)
有馬領は一度、徳川幕府に没収されたが、改めて晴信の子直純に給与された。直純が、徳川家康の養女を室としていたための温情措置とされる。
直純は、すすんでキリシタンを棄教し領民にも転宗を強制したが、キリシタンの浸透は深く 進んで火あぶり刑を望む者が多く、わずか二年の支配で慶長十九年(1614)日向延岡に移封となった。
有馬家はのち越後糸魚川をへて 元禄八年(1695)に越前丸岡五万石に入封。
八代続き、帝鑑間詰の譜代大名として明治に至った。 
丸岡城現存天守(福井県坂井郡丸岡町霞町)
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松平(徳川)家臣団の城館