鈴 木 (鱸) 氏
源平合戦にて水軍を率い源氏に貢献した熊野水軍鈴木重善の末裔。
・三河鈴木(鱸)氏関連城郭
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寺部城跡(豊田市寺部町一丁目)
市場城跡(小原村大字市場字市場前)
足助真弓城跡(足助町足助字真弓)
飯盛山城跡(足助町足助字飯盛)
県下唯一の遺構 市場城竪堀跡
室町幕府評定衆の被官鈴木氏が、主家衰退と伴に加茂郡一帯を勢力下に置いたころ、鈴木重時によって築城された。鈴木氏はここを拠点に松平氏に抵抗した。明応二年には反松平国人連合にて岡崎の松平親忠を攻撃、天文二年には、重教が松平清康と戦うなど松平氏との攻防を繰り返した。
永禄九年織田氏の臣佐久間信盛によって落城され、重教は今川氏を頼って駿河へ去った。
永禄三年足助鈴木氏より小原郷を与えられ鱸親信が領有。文亀二年に築城したものが、現在の遺構。城主は、親信・長重・直重・長康と続き、長康は 家康に従い功あり、加増をうけ鱸姓を賜る。 
しかし、秀吉に服従せず放浪、紀伊で卒したと言う。
城跡は、本城小学校の北西の山、曲輪・土塁・石塁が本格的に残っている。 特に竪堀は、県下唯一の遺構で貴重。
太平記 元弘の変で後醍醐帝を守護した足助氏累代の居城。足助氏没落後は鈴木氏がこれを受け継ぐ。足助鈴木氏は、重政・重直・信重・康重と続く。
今川氏・松平氏の間にあり造反を繰り返し家名を存続させた。 元亀二年の武田氏の西三河侵入で一旦武田氏に降ったこの城を家康の長子信康が奪回し、旧領主鈴木信重に守らせた。
これにより鈴木氏の松平氏家臣化が確立したと言える。 家康の関東移封に鈴木氏も従い、城は廃城となった。  関東での鈴木氏は処遇面から浪人したと伝わる。
城は、香嵐渓で有名な飯盛山山頂と真弓城はその北東向の山頂にあり、復元整備されている
江戸期 熊野鈴木家は、50〜60家が旗本として存続した。
二千四百石までいった家系もあるが大体が二、三百俵〜四、五百石あたりであった。
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松平(徳川)家臣団の城館