【3月10日=アンマン発 その3】

 ついに、イラク入国ビザが発給された。

 10日(月)夜(現地時間)、バグダッドへ陸路で入る。事情があって、急遽夜間出発となってしまった。ホテルのチェックアウト間際に、この一文を書いている。

3月17日の「武装解除期限」まで、残り1週間。本当の「覚悟のとき」がきたようだ。しかし、はっきりとこの場で表明しておくが、私は「人間の盾」としてイラクに入国するのではない。ジャーナリストとしての取材現場に挑むだけだ。

以前、この欄(2月21日の項)でも書いたように、

『「アメリカが武力攻撃を開始したら、どんな報道体制を取るのか?」

それはすなわち、「攻撃される側、殺される側のイラクに住む人々の状況は、いつ、どこから、どんなかたちで、映像や記事が世界に伝えられるのだろうか」という問いかけでもある』。

明確な答えはない。しかし、私なりにこの問いかけに迫ることはできる。

「覚悟のとき」と言っても、私は「死ぬ覚悟」は、全くない。この文章も、決して「遺書」なんぞではない。まだまだ死ぬわけにはいかんのだ。「地雷を踏んだらサヨウナラ」とはいかんぞ。映像も写真も原稿も、死んでは伝えることができない。自分なりに最大限の安全を確保したうえで、取材を遂行したいと考えている。自らの身は自らで守るしかない。その中には、ときに危険な状況での取材もありえるかもしれないし、場合によっては「撤退する」選択肢も含まれている。すべてはこれからの現場で、慎重かつ機敏に、そして大胆に判断して行動したい。

こちらには、何冊か本を持ってきたのだが、イラクには持っていかない。だが、あらためて読むことはないかもしれないが、「お守り代わり」に、かばんの中に一冊入れて持っていくことにした。

「プリーモ・レーヴィへの旅」(徐京植著 朝日新聞社)。

アウシュビッツの生き残り、プリーモ・レーヴィはその著書「アウシュビッツは終わらない」(朝日選書)の冒頭で、

「これが人間か考えてほしい」

と訴えている。

フセインも含めて、イラクの市民、白血病で苦しむ人たち、すべて等しく人間が暮らす国で、「非人間的な殺戮」がブッシュの手によって行われようとしている。

イラクをめぐって、アメリカとそれを支える「大国の暴力」が人間を抹殺するのか、それとも、世界の良心の「人間の尺度」が、かろうじて堰き止めるのか。
 そして、「その瞬間」、私はどんな行動を取れるのか。