【3月11日=バグダッド発 鉄条網と壁】

 
ちょうど去年の3月11日未明、僕はヨルダンの国境を越えてイラクに初めて入った。

 当時、国連の査察活動も行き詰まり、世界は遣りきれない「カウントダウン」に入りつつあった。いろんな望みや選択肢が一つ一つ消えていったときだった。

 その一方で、バグダッドは意外にまだのんびりしていた。活気があった。大学は通常通りの授業で学生でいっぱいだった。小学校も同じ。市場も同じ。ゲームセンターも、食堂も。

 とても「戦争直前」とは思えない雰囲気だった。

 しかし、実はいまも当時より街はにぎやかなぐらいで、市民たちは「日常」を過ごしている。去年の風景に、米兵の姿と装甲車、ヘリコプターの爆音、携帯電話の看板、パラボラアンテナ、車の渋滞、そしてときに遠くから聞こえる爆発音が加わったぐらいか。

 だが、それらの「日常」風景の間に、いまのイラクの現状を表す無機的な物質が微妙に組み込まれている。

 昨年4月10日、空爆で3人の子供を一度に失ったアリ・サクバンさんは言う。

「私たちイラク人の未来や幸せは、あの鉄条網とコンクリートブロックの高い壁の向こうにあるとでもいうのか?小学生たちに新しいカバンを配って、それで私たちが本当に喜んでいるとでも思っているのか。これがアメリカの言う民主主義なのか?」

 
病院に運ばれた直後のサクバンさん(右)の娘シハードちゃん(当時5歳)。この数時間後、シハードちゃんは息を引き取った(昨年4月10日 バグダッド市内北部サウラ病院で)

 いま一度、静かに想像しなければならない。
「サマワの自衛隊がきょうどんな活動をしたか」を知る前に。世界が身勝手に定めた「3月20日、イラク戦争から1年記念日」の前に。

 「おはようお父さん」とさっき会話を交わしたばかりの5歳の娘が、自宅の瓦礫の中に埋まり、必死で探す彼の姿を。
 脳みそが出たままの娘を両手に抱きながら、銃声が鳴り響く街の中を、救急車に乗って3つの病院を回らなければならなかった彼の光景を。
 彼が着ていた真っ白なシャツが、真っ赤な血でみるみる染まっていく瞬間を。
 娘たちを埋葬した墓地に漂う死臭と、土の上にまで群がるハエの集まりを。
 「みんな鳥になって天国で飛んでいる」と、生き残った唯一の娘にいまも話す父親の無念さを。

 静かに、一人だけで、ただ想像することだ。

 それがあの「戦争」を支持した国に住む、彼らと同じ人間として最低限できることだ。
 
 
    
「世界にひとつだけの花」
イラクの小学1年生、サファ・マージドちゃん(7歳)が描いた絵