【9月10日=テロリストって誰だ?】

 しばらく更新が滞ってしまった。10月6日(水)の特別上映に向けて、毎日ずっと編集作業が続いている。

 そんななか、家に帰って何気なくテレビをつけると、

「テロとの戦いが世界的に広がる中で…」

 NHK・BSニュースのキャスターの方が、企画特集の前置きを、さらりとした口調でそう始めていた。

 先日、都内での催しに出席したら、年配の男性の方が、自然に、言いよどみなく、むしろそこだけ強調するような勢いで、「テロ」「テロリスト」という単語を繰り返し質問の中で使っていた。

 テレビでも新聞でも、それからメディア以外の世間話の類でも、最近はこの言葉を使うことに、もう躊躇やためらい、後ろめたさという意識はほとんど感じられない。普通の単語・言葉として定着したかのようだ。

 危ない、危ない。

 こういう「無自覚使用言葉」がいちばん恐い。

 
僕は活字の原稿を書くときも、どこかで話をするときでも、「テロ」「テロリスト」という単語を使うことには非常に抵抗がある。

 活字だとまず使わないし、もし使わざるを得ないときでも、かぎ括弧(「」)でくくる。話すときには「いわゆる」とか「この言葉はあまり使いたくありませんが…」「アメリカの言う…」といった言い回しをすることが多い。正直に言えば、定義や意味づけから逃げているのだろう。

 以前、大きな集会で「テロの定義をどう考えますか?」という質問が出たとき、僕はうまく答えられなかった。
 
 同席していたジャーナリストの中には、「一般市民を巻き込む攻撃はテロだ」と言い切る人もいた。

 しかし、それほど簡単に定義、意味づけられる言葉ではない。何かの基準をもって、それに該当するかどうかで判別して使える言葉でもないと僕は思っている。

 いまのイラクの状況を指すときの「治安の悪化」や、サマワの自衛隊の活動を説明するときの枕詞「人道復興支援」もそうだ。「イラク戦争」という言葉だって、使いづらいケースが多い。

 
日本だと、自爆のときはほとんど無条件に「自爆テロ」となって、「空爆テロ」や「国家テロ」という言い方が使われることはない。

 ロシア南部北オセチアでの事件は、朝日新聞は最初「学校占拠事件」としていたが、突入後は「学校テロ事件」「学校占拠テロ事件」に変えている。

 「テロリスト」という言葉を、周囲で何度も聞いているうちに、なんだか「テロリスト」という人種や民族がこの世に存在する、あるいはテロリストとして最初に生まれて、そのままテロリストとして育った人がいるかのような錯覚や印象を抱くような気がするのは僕だけなのだろうか。

 わが愛しの「エロテロリスト」インリン・オブ・ジョイトイさんは、「テロリスト」と呼んでいいのだろうか。

 4月にイラクで起きた日本人人質事件の際、「自己責任」「自業自得」「非国民」という言葉が出てきた。一見、それらの言葉はもう消えたようにも見える。

 しかし、ある読者の方からは以下のような指摘をいただいた。

「自業自得論が国民の多くの無意識に広く定着した為、あたかも終息したかのように見えるに過ぎないのではないでしょうか」

 確かにそうだ。

 「自己責任」という言葉と同じく、これから日本でも何かの事件が起きたときに、「テロ」「テロリスト」「テロ行為」、「●●テロ事件」という言い方を使う政治家やメディアがもっと増えていくだろう。

 だけど、僕らが「普通に」使ってはいけない。

 使う前に少し考えたり、迷ったり、そのわずかな思考やためらいが、とても大事だと思っている。

 あすは9月11日だけれど、僕はこれまで通り、ウィークリー・マンションの一室で編集作業に関わっているだろう。

 昨年、「週刊金曜日」(03年9月5日号)に「世界は9・11だけ なぜ追悼するのか」という原稿を書いた。
 
 アフガン、ニューヨーク、イラクで出会った人たちから教えられたこの問いかけは、いまも変わらない。

 靖国神社もそうだったが、9・11に合わせて、何かを、誰かを「追悼」することを僕は絶対に拒否する。